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ミクニと永遠の大窟  作者: 孫 遼
中編
24/36

魂の容れ物

 翌日の朝、家に戻った私の泣き張らした目を見て、ヤコは一瞬、驚いた表情を浮かべたが、彼女は私に、何も尋ねようとはしなかった。

 ヤコは手際よく朝御飯の準備を進め、やがて部屋には美味しそうなコーヒーとパンの焼ける匂いが漂いはじめる。しかし、目の前に提供された食事は、まるで砂を噛むようで、私の舌は、何も味を感じることができなくなっていた。

「顔色が悪いよ……大丈夫?」

 ヤコは、心配そうに、尋ねた。

「大丈夫、なんともないの。そういえば、今朝はロブやヒューに会った?」

 ヤコは首を横に振った。

「ヤコも探してるんだけど、見つからないの。燻製肉もせっかく作ったのに、置きっぱなし」

 キッチンの方を見ると、昨日私に持たせてくれた包みがいくつか残っていた。私は、コーヒーを啜ると、かじりかけのパンをそっと皿に置いた。

「ミクちゃん、少しベッドに戻って休んだら?」

 私はヤコの提案に素直に従うことにした。横になったまま、ぼんやりと天井を見つめる。ヤコを目の前にして、自棄を起こしていることを悟られたくなかった。

「ヤコ、ごめんなさい」

 私が、謝罪の言葉を放った瞬間、ヤコは家事の手を止めた。

 やがて私のベッドの横に来ると、上の空になっている私を現実に引き戻すように、私の手を取り、その瞳で私を見つめながら言った。

「ミクちゃんは悪くない。あなたがどんなことをしても、私はあなたの味方だから。ミクちゃんが後悔しないように行動していいんだよ」

 その言葉は、かつて私がヤコにかけた言葉と同じものだった。

 私はその言葉が、砂漠のように荒れてしまった心にそっと染み込んでしまうまで、目を閉じることにした。

(ああ、これは自分自身にかけてほしかった言葉だ)

 私はそのとき、初めてそれを自覚した。そして、私の手を握ったヤコの手の感触が、以前触れた時のように若々しさがなく、皺が刻まれているということに驚愕した。

「ありがとう。ヤコ、あなた母親みたい。本当に私の母親だったら良かったのに」

 ヤコは照れたように笑うと、ふと真顔になって尋ねた。

「しばらく大窟に行くのはお休みする?」

 私は彼女を心配させまいと首を横に振った。

「せめて入口までは行きましょう。ロブやヒューが待っているかもしれないから」

 しかし、私の足元はふらつき、大窟の開拓が進められる状況にないことは、誰の目から見ても明らかだった。

「ミク……あんた匂いが弱ってる」

 サクヤは、私の様子を一目見るなり、きっぱりとそう言った。

 そのとき私は初めて、自分の足に結びつけられた糸の異変に気づいた。サクヤに結びつけてもらった時には、赤く輝いた色をしていたその糸は、薄く、真っ白で今にも切れそうな状態になっている。

 さらに、椅子に結びつけていたはずの鎖は、錆び付いてしまったかのように赤黒く変色し、今にも切れそうなほどに腐食していた。

「そんな状態で万が一のことがあったら……引っ張りあげる前に切れちまうかもしれないよ。絶対に行かせられない」

 サクヤは私の腕をつかみ、私が大窟の奥に飛ぼうとするのを止めようとした。私はその制止を無理矢理振りほどくと、鎖を手に取って、合口に向かって自分の精神を集中しようとした。

 しかし、合口のイメージが脳裏に(よみがえ)ることはなかった。私の脳裏には、ソヨウの幸せそうな表情が浮かび、そのまま私の意識は深い闇の中へと落ちていった。


 次に意識を取り戻したとき、私は、簡易休憩所のベッドの上にいた。

「ミクさんが目を覚ました!」

 最初に目に入ったのは、ヒューが被るピエロの仮面だった。少し遅れて、ヤコの顔が覗いた。

「よかった。もうずっと眠っていたから」

 ヤコの目に涙がうっすらと浮かんだ。

「ヤコ……私どうして……」

「さっき、倒れたの。レイヴァン先生に見せてもわからなくて、このままずっと眠ったままになっちゃうのかと思って……」

 ヤコはそういって顔を覆うと、しくしくと泣き出した。

「とにかく目が覚めてよかった。俺、みんなに伝えて来るよ」

 そう言い残して、ヒューは扉から出ていった。

 ヤコは、服の袖で涙を拭くと、私に向かって無理矢理笑顔を作った。

「ソヨウ……フラッグシップチームたちは?」

 体を起こしかけた私を、強制的に簡易ベッドに押し戻すと、ヤコは少しだけ困ったような表情を浮かべて答えた。

「式の翌日に出発したっきり、戻ってないよ」

「そう……」

 このような状態になっていることを、ソヨウに悟られたくなかった私は、心の中で、胸を撫で下ろした。

しばらくして、ヒューが戻ってくると、レイヴァンの車椅子を押して、ロブも部屋に入ってくる。

「この間から、どうも様子がおかしいと思っていたんだ」レイヴァンはそう言うと、サクヤに尋ねた。「サクヤ、まだミクニの匂いは見えるか?」

 サクヤは首を振った。

「どんどん弱ってきてる。今にも切れてしまいそうだ」

 私が足元に目をやると、足に結ばれた糸はいよいよ透明な釣糸のように、鈍い光を放つだけで、目を凝らしてようやく見えるか見えないか、という状態になっていた。

 レイヴァンは大きくため息をついて、困惑したように言った。

「一体どうしたらいい。こんなことは始めてだ」

 私の頭は、少しだけレイヴァンの言葉に、処理が追い付かなかった。唐突に、急に何かを考えることすら億劫(おっくう)になった私は、静かに目を閉じた。

 私はしばらくそうして休んでいたが、ふと気づいて口を開いた。

「ヒュー、お願いがあるの。イブキを呼んで。その出口のあたりにいるんでしょう?」

 私が口を開くと、サクヤとレイヴァンがはっと息を飲む声が聞こえた。

 イブキをここに呼んでいるということは、私は今、限りなく死に近づいているということだろう。ヤコの青ざめた顔が事態の深刻さを物語っていた。


 どたどたと派手な足音が聞こえたのを合図に、私が瞼を開くと、ヒューがイブキを連れて部屋に入ってきた。

 イブキは黒い装束をまといながら音を立てずに部屋の中に進んだ。サクヤとレイヴァンは顔を見合せ、仕方なく、という様子で、道を左右に開けた。

 イブキは落ち着き払った様子で、まるで熱を測るかのように私のおでこに手を置いた。私はそのひんやりとした感触を一瞬楽しんだが、徐々に胸が苦しくなり、体の力が抜けていくのを感じた。

 私は再び目を閉じた。

「イブキ、彼女がこうなった原因が解るのか」

 ロブの声だった。

「うん、知ってる」

 イブキは敢えて『解る』とは言わず、『知ってる』という表現を使った。それはイブキにとって認識はできているが、他人には説明できないというニュアンスを含んでいて、それを聞いた私が、原因を把握するに十分な言葉選びだった。

「治せるか」

「無理だね。ミクニの魂はミクニ自身のものだ。だからミクニがこの状態をなんとかしようとしなければ、僕ができることは何もない」

 つまり、原因は他でもない私自身にあり、私がこの心と決着をつける必要があるということなのだ。私は静かにその言葉を聞きながら、脳裏に焼き付けたソヨウの後ろ姿を思い出していた。

「でも、おかげで面白いものが見れた。もし彼女の魂が抜けて、ただの容れ物になったら――僕にちょうだい。僕が新しい魂を入れてあげたいんだ」

 イブキがそう発言するのと同時に、ガン、という大きな音がして、私は驚いて目を開いた。ロブがイブキの襟を持ち上げて、壁に叩きつけている様子が目に入った。

「もういい!」彼が言った。「やはりお前を呼んだのが間違いだった。お前はいつだって、そうやって人の命を弄ぶんだ」

 イブキの表情は見えなかったが、おそらくいつもの調子でうっすらと笑っているのだろう。レイヴァンも、これまで見たことがないような不機嫌な顔でイブキを睨んでいる。

 ――私の魂は、体から抜けかけているのか。

(それでもいい)

 ソヨウを探すという大窟での目的を失った今、私には生き続ける理由がなかった。もし、私がこの魂を捨てて、イブキが新しい魂を吹き込んでくれるのなら、そちらの方が幸せだ、と思えるほどに。

「お前まさか……あの刀に何か仕込んだんじゃないだろうな?」

「刀?」

 顔を見合わせるレイヴァンとサクヤに、ロブが私の持っている虹色の合口について説明した。

 イブキはその間、薄笑いを浮かべたまま、何も言わなかった。しかし私は、イブキが合口を〈吹いて〉はいないことを、よく知っていた。だからこそ、イブキがなぜ反論しようとしないのかと、不思議でならなかった。

「お前、もしかして刀に何か細工して、ミクの魂を奪おうとしたのか?」

(違う)

 全ての答えを知るイブキにとっては、この場にいる全員に、私がここまでに衰弱する原因を打ち明けることなど容易いはずだ。

 しかし彼のとった行動はまるで反対で、罪を背負って丘に放たれた羊のように、非難と憎しみの視線を浴びることだった。

「答えろ」

 ガン、とますます大きな音がして、イブキが再度壁に打ち付けられる。

「やめて」私は、精一杯の声を出した。「お願い、やめて。イブキは悪くない」

 しん、と静寂が部屋を支配した。

 その静寂を嘲笑うかのように、ロブの拘束から解かれたイブキが「ふふふ」と含み笑いをした。

「僕が命を弄ぶだって?命を弄んでるのはどっちだろうね?この大窟に、そもそも彼女の魂を縛り付けたのは誰?」

「……アタシだ」

 サクヤが悔しそうに答えた。

(普通に考えればそうだ。しかし実際は――)

 私は心の中で、イブキの言葉の意味を考えた。おそらくずっと昔から――大窟に来るよりもずっと前から、私の魂はソヨウに縛り付けられていたようなものだ。その事実を知っているイブキは、暗に私にしか通じない言葉で、謎かけのように巧みに、私に真実を問いかけてきているのだった。

「縛り付けられた魂はどうしたら開放されるの?」

 イブキは壁際に座り込んだまま、懐から正方形の紙を取り出した。そして誰に答えを要求するでもなく、一人言のように質問した。

 私はその問いに対する答えを必死に探したが、答えは出なかった。

(当然だ)

 大窟に来る前から長らく考えて結論が出なかったものを、今さら必死に考えたところで答えは出まい。

 そして意外なことに、サクヤ自身もそれに答えず沈黙を貫いた。

「サクヤ……?」

 レイヴァンは、黙りこんだサクヤを心配そうに見つめた。その様子から、レイヴァンにも答えは解らないらしい、ということが見てとれた。

「サクヤ、あんたも解除の方法を知らないんだろ。僕が教えてあげようか――死しかない。この大窟にいる意味――生きる衝動が失われたとき、そこには死が待っている。不自由で一方的で理不尽な場所なんだよ、この大窟は。ミクニもそれに気づいた。それだけのことさ」

 イブキはそう言いながら、誰もが魅入ってしまうほどの美しい所作で、紙を三角形に折りたたみはじめた。

「そんなことも解らないで、自分は安全なところから、開拓員を縛り付けて大窟に送り出してさ。鵜飼(うかい)にでもなったつもりかな?」

 サクヤは顔を真っ赤にすると、ぎりっと奥歯を噛み締めた。

「サクヤ、気にするな。ただの挑発だ」

 ロブはそういうと、サクヤの肩に手を置いた。

「なんであんたがそんなこと……」

「言い切れるかって? だって、僕自身の力がそうだからさ。僕の吹いた物質が、僕の意思で解除なんてできないことは、僕自身がよく解ってる。魂の持ち主本人であれば強制的にでも引きはがすことは可能だけど、その結果は――ミクニ、君も見ただろ」

 私はゆっくりと頷いた。

「つまり、定着した魂を剥がすのはそれだけ難しいってこと。例外として、本人が解除を望めば別だけど――相応のリスクがあるんだ。僕が言えるのはここまで」

 イブキは喋りながら、さかんに手を動かしていた。紙が一定の目的に向かって折られ続けていることは、イブキの様子から察することができたが、まだ何を形作ろうとしているかまでは判別できなかった。

 イブキがふと視線をあげて周囲を見渡すと、誰もがイブキと目を合わせないように、さっと視線を逸らす。

「話は変わるけど、フラッグシップチームが最深部にたどり着くのは時間の問題なんじゃない?早く止めなくていいの?」

「イブキ、お前何が言いたいんだ」

 ロブが問いかけると、イブキはため息をついた。

「ヤンやフリードが死んで、もう一つのチームは行方不明になってるけど、あれを偶然で片付けちゃっていいのかなと思って。ミクニをここに足止めしておけば、大窟は、実質フラグシップチームの独擅場になるんだよね。僕は、この一連の出来事が、誰かさんにとって、都合よく進行しているようにしか見えないなぁ」

 イブキの発言の意図は解らなかったが、彼は全員に話をしている風を装いながら、特定の誰かに向かって話をしているようにも見えた。

 現に、イブキの話を聞きながら露わにしていた憎しみの表情を、みるみる何かに気づいたかのような表情に変化させる人物がいる。

 レイヴァンだ。イブキは流し目でレイヴァンの表情を読み取ると、ふっと鼻で笑った。

「察しがいい人もいるようだね。そう、事態はそう単純じゃないんだ。ここにいる全員が、ミクニが最深部にたどり着くことを望んでいるわけじゃない。だけどフラッグシップチームも油断はできないよ。そもそも、これだけの時間をかけて開拓してても、最深部にだけにはどうしてもたどり着けないなんてさ……何かの意思が働いているとしか思えない」

 イブキが喋りながら折っていた紙は、いつしか手のひらに乗るサイズの鶴に姿を変えていた。その鶴に向かって、イブキがふうっと息を吹きかけると、息を吹きかけられた鶴は羽を動かして宙を舞った。

 すると、その鶴の後を追いかけるように、イブキの懐から、いくつもの紙が飛び出し、イブキの周囲を舞いながら、空中で折られた紙は次々に鶴の形になっていく。やがて、鶴は何百匹もの大群となって、イブキを中心とした部屋一面に激しく舞い始めた。

「せいぜい腹を探りあうがいいさ。善人の顔をしながら、他人を利用して裏で笑っている、大窟の本当の支配者が誰なのかをね。僕は静観することにするよ」

 その鶴は最初は不規則な飛び方をしていたが、やがて整列し、幾重にも重なりあうと、やがて一塊の房のような千羽鶴となり、私の枕もとの壁に美しく収まった。

「僕はね、ミクニのお見舞いに来たつもりだよ。僕のことを疑うならご自由に」

 そう言うと、イブキはゆっくりと手を上げて去っていった。

 彼が姿を消すと、サクヤは大きくため息をついて、私の頬を両手で挟むようにすると「ああ、ミク、守ってあげられなくてごめんね。イブキの言うことに、耳なんか貸さなくていいんだ」

 その時、またしても、濃厚な花の匂いが鼻孔をくすぐる。その取り乱したサクヤの姿に、私はほんの少しだけ芝居じみた違和感を感じた。

 イブキが植え付けた疑惑の種は想像以上に功を奏しているようで、この部屋を支配するぎくしゃくとした空気は払しょくできそうになかった。

(善人の顔をしながら、他人を利用して笑っている人間――)

 私たちは困惑したように、しばらく顔を見合わせていたが、その空気を破るように、私は思いきって声をあげた。

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