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ミクニと永遠の大窟  作者: 孫 遼
中編
23/36

再構成

 それは、私が意図していたものとは正反対の言葉だった。

 まるで身体ごと誰かに乗っ取られたかのように、口からするりと出た言葉は――

「おめでとう。お兄ちゃん」

 わっと周囲の湧く声が聞こえる。

 私は自分自身が発した言葉に驚き、放心しかけていたが、その返事を聞いたソヨウの顔に、安堵の微笑みが広がったのを見て、死にかけた私の細胞はまるで祝福を受けたかのように、また再構成を始めた。

 こうして、数秒で喪失と誕生――死んでまた生まれ変わるという、人生を集約したかのような旅をしたことは、この場の誰も知り得ない、私だけの秘密の体験であった。

 ふっと緩んだ空気を通り抜けて、ソヨウの背中越しに、とぼけたような声が飛んだ。

「ミクニは僕が幸せにしますから、安心して、お兄さん」

 そして絶妙な呼吸を置いて、さらに付け加えた。

「まだ本人に何の許可も取ってないけど」

「取ってないのかよ!」

 フラグシップチームの一人が、狙い済ましたように突っ込みで、場が沸くと、気を失いかけていた私の心は強く現実に引き戻された。

 私は耳を疑った。その声の主は、イブキであった。

 ソヨウは笑顔で振り向くと、その声の主に向かって、何かを言い返していた。またしても会場に笑いが起こったが、その内容は私の頭には入ってこない。

 私は真顔のまま、目の前で起こったことが信じられずにいた。

(この、ソヨウと親しげに話す、目の前の男性は誰だろう?)

 まさかイブキの口から、そんな軽快な冗談を聞くことになるとは、夢にも思わなかった。

 しかしそれは一種のショック療法のように、ソヨウから衝撃を受けてノックダウン寸前の私の心を、緩衝材のように受け止め、被害を吸収したのであった。

 かくしてイブキの絶妙な立ち回りで、『兄を知らない女性に盗られた可愛そうな妹』というレッテルを貼られることを免れた私は、『幸せな兄を祝福するよき妹』として、この場に存在することを許されたのであった。


 この後のことは、正直まったく覚えていない。

 あとでイブキに聞いたところによると、私はソヨウにふさわしい完璧な妹を演じ、彼らが次の宴の会場に移動するのを笑顔で見送ったらしい。

 ふと気づくと私は、大勢の観光客の人込みに交じって、大窟の展望台からぼうっと下を覗き込んでいた。

 身体中がひどく疲れたようにだるい。なるべく余分な力をいれないように、楽な体勢をとりながら、大窟に初めて来たときの気持ちを、改めて思い出していた。

(私は何がしたかったんだろう)

 私は自問自答した。

 ついこの間、ここにたどり着いた時の気持ちは忘れるはずもない。ソヨウに会いたい――その一心であった。死亡している可能性すらゼロではない、彼の消息を追うことに夢中になっていた私は、あまりその先のことを深くは考えていなかった気がする。

 しかし、こうして実際にソヨウに会うことができたその瞬間から、新たな悩みが私を襲い始めた。理由はわかっていた。かつてのあのときのように、ソヨウに戻ってきてほしい、という強い願い――そして、それはほぼ不可能に近いということも知りながら――その願いを私自身が、諦めきれないことである。

 私のソヨウに対する執着は、世界のどこかで生きていればよい、というレベルのものではなくて、もっと具体的に、私と共に生きてほしい、という切なる願望だった。だからこそ、新たな家庭を築こうとしているソヨウを素直に送り出すことができなかった。

(だから私はあらゆる感情を殺すことにした)

 自分の心を殺し、何も感じず何も考えずに、ソヨウの前で赤の他人を演じきることを選んだ。

 しかし、ソヨウはそれすらも、許してはくれなかった。

 彼は私の存在を無視することなく、真正面から私に対して、結婚に賛成してくれるよう、対峙したのだった。

 あまりに正々堂々と挑まれた勝負に、私は敗北するしかなかった。

 私はじっと、大窟の景色に目を凝らした。大窟の社に足早に向かう人々の姿が見える。

 ふと、ヒューと初めて会った時のことを思い出した。あのとき、ヒューが大道芸に勤しみ、たくさんのファンに囲まれている様子に、ソヨウを重ねて、私は何を考えただろう。

 ――よき理解者であり、応援者でいたい。

 そうではなかっただろうか。しかし、自分が今抱いているのはそれはまったく別の矛盾した感情だった。まるで私の心の中に成熟した自分と未熟な自分が二人いて、両方から体をひっぱられているかのように、体が真ん中から切り裂かれそうなほどの痛みが私を襲っていた。

(もういっそ、ここから飛び降りてしまおうか)

 乗り出した体を元に戻す。きっとサクヤがそうはさせてくれないだろう。私は、彼女に抱き止められた瞬間の、むせかえるような花の香りを思い出していた。

 私が大窟に初めて来たときも、確かこうして下をのぞき込んでいた。もっと早く、誰かが私の運命をそっと耳打ちしてくれていたら――そう願わずにはいられない。

 私はきっと、全ての元凶を作ったこの大窟という場所にとどまることはなかっただろうし、こうして謎の敗北感と戦う必要もなかった。


 ボー、と汽笛の音が何度か鳴るのが聞こえると、いつしか周囲には誰もいなくなっていた。

 私は動く気が起きず、手すりに頬杖をついて、暗くなっていく空をぼんやりと見つめた。

 ふと隣に気配を感じ、顔を横に向けると、そこにはイブキが静かに立っていた。彼は開口一番、私の傷を深くえぐった。

「クオン完全結晶を、婚約指輪に加工しろなんて、案外ロマンチックなことを言うよね、君のお兄さんは」

 私はその時、イブキに無防備な表情をさらした。イブキに見せるべきではない、そう自覚していても止めることはできなかった。

 イブキ自身も、自分の発した一言が、これほどまでに破壊力をもった一言だとは想像もしていなかった様子で、ただの脱け殻のように立っている私を笑うことも慰めることもせずに、ただ見守っていた。

 私は返事をせずに、手すりに顔を伏せた。その時初めて、涙がこぼれた。その涙を、イブキに見せてしまった以上、自分の感情を抑えることはもう限界のように思えた。

「また、一人ぼっちになっちゃった」

 イブキはそれを聞いても、ピクリとも顔の表情を変えなかった。もしかすると、イブキは私の心に空いた大きな穴の存在に、気付いていたのかもしれない。

「お兄さんはこれからもずっと大窟にいるよ」

「そういう意味じゃないの。私は、ここにくるべきじゃなかったの。あなたには解らない」

 私が言い放った言葉は、私自身をますます孤独に追い込んだ。その言葉を理解したように、ふっとイブキが笑った。

「本当に君は僕によく似てる。君は手に入れたいんだ、美しく価値のあるものを。ただ見ているだけでは、飽き足りないんだろ」

 私はあなたと〈同類〉なんかじゃない――私は反論しかけたが、その先の言葉を紡ごうと思っても、涙が先にあふれ出るばかりで、言葉にならなかった。

 ソヨウとの出会いや、彼がいかに完璧で優秀な人物であったか。私にとってソヨウがどれほどまでに大きく、大切な存在だったか。

 言いたいことを頭で想像するだけで、私の胸は強く締め付けられ、嗚咽だけが口から漏れた。

 私は無様な泣き顔をイブキに向けると、そのまま、彼の辛辣な一言を待った。

 しかしイブキは、何も言わなかった。その反応が、私を感情をますます増長させた。私は、置物のように、何も語らなくなったイブキの横でひたすら泣いた。

 イブキは懐から一枚の正方形の紙を取り出すと、私に手渡した。それは、丁寧に()かれた柔らかく丈夫な紙で、まるでハンカチのように、私の涙をよく吸収した。

 私はイブキから手渡されたその紙を握りしめながら、ひたすら涙が枯れそうなほどに泣いた。

 やがてその紙が、たっぷりと涙を含んで、絞れば涙が垂れてきそうなほどになったころ、ようやく私は声を発することができるようになった。

 私が膝を抱えながら、ぽつりぽつりとソヨウの思い出話を始める傍らで、イブキは道具を取り出して、ひたすら完全結晶を磨く作業に集中していた。

 私が話すのを中断しかけると、彼は一言だけ、「聞いてる。続けて」と言った。彼が発した言葉は唯一それだけで、あとはひたすら私が、全てを喋るのに任せていた。

 私がソヨウの思い出話だと思っていたそれは、本当は私自身の物語だった。

 まるでもう一度、大窟を体験してきたような気持ちになるほどに、私は初めて大窟に降り立った時の感覚を、子細に語ることができた。

 そうして私の長い旅は、過去から時間軸を超えて、ようやく今にたどり着いた。とうとう、私が次に紡ぐ言葉が、残すところ目の前で結晶を磨くイブキの話にかかろうというとき、隣に座っていたイブキは唐突に立ち上がり、私に手を差し出した。

「続きは僕の家で聞こう。ここは冷える」

 私は誘われるままに、その手を取って立ち上がった。

 ――その晩、私は自分の家には帰らなかった。

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