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ミクニと永遠の大窟  作者: 孫 遼
中編
22/36

祝福

 その晩、私は、独りで、ぼんやりと考えごとをしていた。

 審判の時を待つ罪人のように、時計のコチコチという音を聞きながら、瞼の裏に焼き付けたばかりのソヨウの後ろ姿を思い出す。

 私は、深く絶望していたが、不思議と涙は出なかった。

 ただ、元々ぽかりと大きく心にあいていた穴が、さらに深く大きくなっていき、私はその深淵をただただ覗き込んでいるような気持ちだった。

 私は胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸した。

 顔も解らない父。言葉をほとんど交わすことのなかった母。そして、私に何も告げずに旅だったソヨウ。

(ああ、この胸にあるのは、孤独だったのか)

 そのとき、私はこの気持ちから一生逃げ出せないことを悟った。

 心のどこかで、ソヨウがこの穴を埋めてくれることをずっと期待していたけれども、私の心の中に空いた穴――その穴の開拓員だけは、私自身でなければ、務めることができない。

 私は、果敢にもその穴に挑もうとして、あっさりと押し潰された。

 ソヨウはすでに、すべての過去を断ち切り、新しい家庭を築く準備を始めていた。彼にとって、妹の存在は、すでに後ろに()ててきたに等しい存在だったに違いない。

 後を追いかけてきた私に気づいたときに、何の反応も示そうとはしなかったことが、如実に彼の考えを物語っているような気がした。


 時計に目をやると、深夜の二時を示していた。

 どんなに心の中で強く念じても、結婚式の開始に向かって進む針を止めることはできなかった。

 大窟の人々は、私とソヨウが実の兄妹であることを知らない。ソヨウの口からその事実が語られない限りは、誰も名字も異なる二人のつながりを判別することはできないだろう。

 私が、今さらソヨウの妹であるということを名乗り出たところで、どうすることもできない。裏を返せば、私は善意の招待客として、強制的にソヨウの式に出席する必要があった。

(何事もなく、ソヨウと接することができるだろうか、この私に)

 心の準備など、残り半日もない時間で整うことがないのは明らかだった。

 私は震える手で、合口を両手に持つと、ゆっくりと引いてその刀身を見つめた。虹は複雑な文様を揺らめかせながら、私を誘うように鈍く光っていた。


 翌朝、ヤコの手を借りて、精一杯の正装に着替えた私たちは、イブキの教会に集まった。

 散らかっていたイブキのアトリエは、綺麗に片付けられ、広くなった聖堂のあちこちに花が飾り付けられている様子から、ソヨウのために、多くの人に準備を進めたのだ、ということが分かった。

 皮肉にも、かつて私自身が熱心に掃除をした場所で、ソヨウの挙式が行われようとしている。

 目の前の真っ白な布で覆われた祭壇を見ているだけで、まるで白い布にインクが広がるかのように、じわじわと私の心に実感が湧いてくるのであった。

(ああ、ソヨウは結婚するんだ。これは現実なんだ)

 ヤコと一緒に、硬い石でできた長椅子に座ると、ひんやりとした感触が体の芯まで届き、あっという間に体は温もりごと失われていく。

 私の冷え切った心とは対照的に、フラグシップチームの一人一人はわいわいと旅の思い出話をしながら、ソヨウ達の登場を待っている様子だった。

(この人達が、ソヨウと旅をしているのか)

 親しみやすい雰囲気を醸し出しながらも、どこか隙のない様子が、彼ら一人一人が何かの能力に長けており、非凡であることを物語っていた。

 ヤコは隣で平然としているが、私は気後れして、うつむき加減で小さくなった。

 イブキは真剣な表情で、壇上からこちら側を向いて立っていた。

 ヤンとフリードの葬儀の時もそうだが、イブキは時々、はっとするほど、威厳のあるたたずまいをすることがある。

 今、壇上に立っている彼と、壇上に寝ころんでビードロや風車で遊んでいる彼が、同一人物とは思えなかった。

 私は、不真面目なイブキの様子を思い出して、内心で笑いをこらえる。イブキを良く知るほとんどの人間は、きっと知っている。その態度は、あくまで演技であり、彼は内心では、真剣に聖職者を努める気などないのだということを。なぜかそのことが、私の心の、唯一の慰めだった。

 やがて、扉が開く音がして、新郎新婦が進み出ると、周りからは歓声と拍手が一気に起こった。

 奥にあった大きなパイプオルガンから、シャワーのように、荘厳な音が降り注ぐ。フラグシップチームの中には、楽器が得意な人がいるようだ。

 私は直進してきた新郎の姿を直視できず、周りの人々を観察するふりをして視線を反らした。

 視界の端で、ロブやレイヴァンが目を細め、拍手する様子が映った。ヒューの姿は、どこにも見えなかった。


 イブキが目を閉じ、祈りをささげる間、私は、ただじっとソヨウの背中を見つめていた。

(ソヨウ)

 私は心の中で、兄の名を呼んだ。もちろん彼は、今度は振り向かなかった。だが、ソヨウはこの会場に、私が出席していることに気付いているはずだった。

 その堂々とした背中を見ているだけで、私の胸は苦しくなった。

 ソヨウは学生の時から、何度となく壇上に上がって表彰される機会があった。彼は今も昔も変わらず、その背中に温かい祝福と、畏敬の視線を集めていた。

「それでは、この結婚に賛成する者の署名を」

 イブキが大きな羽ペンと書類をソヨウに渡すと、ソヨウが一人ずつに声をかけながら、署名をもらっている。

 目の前にソヨウが歩いてくると、私は口から心臓が飛び出てしまいそうな緊張感と戦った。懐に入れてきた私の覚悟を取り出す瞬間があるとすれば、正に今だった。私の手は緊張に震えた。

 しかし、先手を打つように彼の口から放たれた意外な一言に、私は脳天を貫かれた。

「ミクニ、来てくれてありがとう」

 そういうと、ソヨウは顔を上げてぐるりと会場を見渡すと、会場にいきわたるような良く通る声で、言った。

「みなさん、ご紹介が遅れましたが、彼女は私の妹です」

 周囲からは、次々に驚きの声が上がった。その低く深みのある声は、私が求めてやまなかった懐かしい兄の声だった。

 レイヴァンやロブは、ぽかんと口を開けて、私の方に注目していた。

 私は完全に攻撃の機会を失ったまま、呆然と彼を見つめた。

 そして彼は私から視線を逸らさずに、諭すように言った。

「ミクニ、俺は、この女性と結婚することを決めた。祝福してくれるかな?」

 その言葉が耳に到達してから、私は返事を返すまでの間は、他の人にとってはカンマ何秒の世界であったはずだ。

 しかし、私にとっては、これまでの人生を束にしても、まだまだお釣りがくるほどの、永遠に近い時間だった。

 まばたき一つ、その一瞬で体の全細胞が壊死していくかと思うほどの喪失感に苛まれると、身体中の水分が蒸発しきったような熱さがこみ上げた。

 それはまるで、着飾ってパーティーに参加した受付の前で、自分は招待されていないとでも告げられたかのような、恥ずかしさとも劣等感ともつかぬ、なんともいえない感情で、自分自身を世界の全てから否定されたかのような境地だった。

 しかし、どんな優秀な計算機であっても、その一瞬の間に、私が次に発した言葉を予測することはできなかっただろう。

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