ソヨウの行方
それは不規則な動きで、私を翻弄するように飛び回ったので、私はしばらくの間、その正体を見極めるために立ち止まった。
やがて、それが初めて見る種類の、金色の蛾であることに気づくと、私はそのあとをゆっくりと追うことにした。その蛾は、ふわふわと椅子の周りを飛び回りながら、羽を休めるところを探している様子だった。
(ここは、私がかつて住んでいた場所とは、まるで違う世界みたい)
はるか遠くの展望台から眺めているときは気づけなかった、景色のディテール。その一つ一つを、私は自分の故郷の記憶と、対比しながら楽しむことにした。
私は、全寮制の学校に通う、極めて規範的な学生だった。真面目に授業に出席し、真面目にノートをとって勉強しているようでも、いまいち成績は振るわない。しかし、そんな平凡さを咎める大人は、私の周りにはいなかった。
おそらく母は、私が生まれた時から、私に無関心だったのだろうと思う。
彼女の関心は、酒と彼女を愛する男性だけに向いていて、年頃になった私が疎ましくなった母は、私を追い出すように全寮制の学校に無理やり入学させると、連絡すら寄越さなくなった。
それでも、学校に通うことができるだけの十分な仕送りをしてもらっていたのは、感謝している。しかしそれは、母の意向ではなく、資産家の祖父の計らいであったということは、母が亡くなったあとで聞かされた事実だ。
こうして誰からも期待されない代わりに、誰の邪魔も受けることのなかった私は、自由な生活をそれなりに謳歌していたが、事態は母の急死によって一変した。
母を亡くした当時、私は十三歳であった。母を亡くすだけで十分なショックを受けた私に追いうちをかけるように、代理後見人の口から、衝撃の事実が知らされた。
『君には、兄がいる』
母には、私の前にも一人、父親の違う子供を生んでいたのだという。しかし、私自身も、自分の父親が誰なのかを知らない。だから、父親が異なるという事実は、私にとっては、そうか、ぐらいの感想しか生まなかった。
問題は、兄が捨てられたも同然の状態で、姿を消してしまったことだ。
祖父が残した遺産は、ほとんど母親に使い切られていたが、兄と私の二人が教育を受けるのに十分な額だけは辛うじて残されていたので、相続権を持つ彼を探すための捜索が始まった。
実際には、相続、というのは建前で、兄に一目会えれば、お金などどうでもよかった。
唯一、自分と血を分けたという、まだ見ぬ兄の存在。
兄の存在は、これまで天涯孤独だと思っていた私にとって、一筋の希望の光だった。
四方八方、手を尽くして見つけた彼が、スラムでうずくまる汚い男だと知った時も、私の胸はかつてないほどの期待に高鳴った。私は彼に駆け寄り、彼を助け起こすために、そっと手を差し出した。
兄の体はひどく痩せ細り、頬はこけていた。鼻をつく異臭と、傷だらけの素足が、彼の悲惨な境遇を物語っていた。しかし、彼はそれに打ち勝つかのように、落ち窪んだ目に強い光を宿していた。
私が差し出した手は、力強く握り返された。
まっすぐに私の目を見据えた兄のその眼力に、ただ圧倒されるしかなかった私は、手に込められた予想外の力に怯み、すぐに繋いだ手を振りほどいた。
――あの時、手を離さなければ。
私の胸は、あの瞬間を思い出すたびに、ちくりと痛む。
あの時、強く握り返してくれた手は、私という妹の存在を認め、受け入れてくれた証だと信じている。しかし、あの大きく、温かい手の感触は、もはや遠く、二度と取り戻せないものであるのかもしれなかった。
私は、ふらふらと目の前をたゆたうように飛ぶ、蛾の軌道を追いかけながら、ゆっくりとため息をついた。
スラムから救いだされた兄は、代理後見人の勧めもあり、私と同じ全寮制の学校に入学した。すると兄は、瞬く間に、その頭角を表し始めた。
読み書きのレベルからスタートした彼は、驚異的なスピードで、これまでの遅れを取り戻し、一年も経たないうちに、同学年のカリキュラムに追い付いた。
初めのうちは出生の複雑さとスラムの経歴から、忌むべき対象として周囲から距離を置かれていた彼だったが、真っ黒な盤面のようだった彼の過去は、白く輝く栄光によってひっくり返されていく。それは、まるで終局に向かうオセロのようであった。
様々な表彰を通じて、兄の名前が校内に知れ渡るようになると、妹である私も、身内として避けて通れないほどに、強い注目を浴びるようになった。兄のサクセスストーリーは、これまで平凡な日々を送っていた私にとって、なにより誇らしかった。
しかし、彼の背中には、きっと自由を求める翼が――この地底大窟で出会った金色の蛾のごとく、美しい羽が――ずっと昔からあって、飛び立つ瞬間を待っていたのだ。
兄は卒業式の前日に、姿を消した。
卒業を間近にして、色々なところから進学や就職のオファーがあった彼に、成功以外の未来はなかったはずだった。
しかし、〈探すな〉とだけ、一言書かれた書き置きが、兄が、彼自身の意思で姿を消したことを示していた。
そして、兄の失踪は、私の心に消すことのできない深い傷を残した。
風の便りで、彼が傭兵となって、軍に入ったと聞いたのを境に、そこからの足跡は一向に辿ることができなかった。文字通り、彼は書き消すように私の目の前からいなくなったのだ。
孤独な世界に残された私の心の穴は、一層大きく、黒く広がっていった。
私が、地理の教科書に掲載されていた世界地図の北のあたりに、黒々と塗りつぶされた点――地底大窟に心惹かれるようになったのは、ちょうどその頃からだった。私はずっと前から、ここを訪れることを決めていて、進学するための貯金をすべてはたいて、ようやくここに来ることができた。
さらに、私が地底大窟に訪れたのには、もう一つ大きな理由があった。
軍で極めてよい成績を修めた人間は、地底大窟の開拓員に推薦されることがある、という噂の真偽を確認するためだ。
それは、くじやジャックポットを当てるのとは比にならないぐらいの、極めて低い倍率だという。
私が初めてその噂を聞いたとき、まるで点が線につながるような、強烈なインスピレーションを受けた。
あの優秀な兄が、何をやらせても完璧だった彼が、開拓員に推薦されないことなどあり得ない、という予感がした。
もし兄が地底大窟の開拓員になることを望んでいたというのなら、地底大窟側は喜んで、彼を一員に迎え入れることだろう。
世界が彼を選んでいるように見えて、本当は彼が世界を選んでいるのだ。
私は思考にふけりながら、目の前の蛾をじっと観察していた。
その蛾はようやく羽を休める場所を見つけた様子で、ゆっくりと羽を震わせて休憩をしていた。私はそれを見て、兄も世界のどこかで羽を休めているはずだと自分に言い聞かせた。
しばらく休憩を取った後、社への歩みを再開すると、途中から、群衆がざわざわと増えていき、サクヤの言っていた、大窟の社と思われる広場にたどり着いた。そこには見上げるほどの大木と、木造の古い建築物があった。
岩肌を削られて作った道に、唐突に出現した自然の恵みを見て、私は不思議と懐かしさを覚えた。目の前の社のような建物は、小さく粗末な作りでありながら、なぜか人を敬虔な気持ちにさせる不思議な力を感じさせる。文化の知識に乏しい私には、それがどのような宗派によるものか、検討もつかなかった。しかし、間違いなくその場所には、何らかの神のような、人智を超えた存在が、人々の敬意と愛情をもって、祭られている様子なのだった。
参拝している人々が、道の脇に流れる水で、手を清めている様子であったので、私もそれに倣って、丁寧に手を清め、列に参加した。
すると、私を見て、「お嬢ちゃんも、お願い事かね」と、目の前の老人が話しかけてくる。
私は、不意打ちを食らったようになって、何度も小刻みにうなずいた。
「若いのに、一人で大窟にお参りなんて、珍しいねぇ」と、その老人は、しきりに感心した様子だった。
「お嬢ちゃん、すまないが、ひとつだけお願いを聞いてくれないかねぇ」
そういうと、その老人は手に持っていたチョークのような白い棒をこちらに差し出した。その白い棒は、長らく老人の手に握られていたのか、不思議な重みとぬくもりがあった。
「『長生きさせてくれ』と書いてもらえないかねぇ。わしは字が読めないし書けないんでね」
そう言いながら、その老人が指さす方向を見ると、広場の壁にはびっしりと、様々な言語の文字が書きつけてあった。
ふと周囲を見渡すと、複数の人々が、壁に一心不乱に字を書きつけている。老人が言うには、この棒を使って社の壁に願い事を書きつけておくと、ごく稀にこの場所に起こる奇跡によって、願い事が現実のものになる、という言い伝えがあるのだという。
私は言われたとおりの言葉を壁に書き付けると、棒を老人に返そうとした。
「そのチョークはあげる。お嬢ちゃんも、これで願い事、壁に書くといいよ」
私は、壁に書かれた字を見ながら、果たして自分に叶えたい願い事があっただろうかと、ふと考えこんだ。
(確かサクヤは〈神託を受けて〉と言った。〈願い事をして〉ではなかったはずだ)
私は、その老人の厚意だけありがたく受けとることにして、丁寧にお礼を言いながら、手渡されたチョークをポケットに大事にしまった。
やがてゆっくりと、参拝客の列が少しずつ前に進み出すと、それほどの時間を待たずして、社の中に入ることができた。私は隣の老人の方をちらりと見て、その人に倣って、胸の前で手を組んだ。
ゆっくりと目を閉じかけた時、耳元でシャン、と鈴の音のような音が聞こえた気がして、私は慌てて閉じかけた目を開いた。
(目的を、聞かれている?)
そのとき、私は確かに感じた。
私は今、ここに来た目的を、何か大きな存在によって尋ねられている。
そして、私は、まさにそれを、この場所で宣言する必要があるのだということが、直感で解った。私は腹を決め、目を閉じた。そして心の中で念じた。
(私を導いてほしい。私の兄――今となっては唯一の肉親である、ソヨウの元へと。ソヨウのためなら、私は、地の果てにだって行く覚悟は出来ているのだ)
その直後、耳元でまた、シャン、と音が鳴るのを聞いた私は、隣の老人のおお、という感嘆の声と同時に目を開いた。