大窟の社の少女
「あ、もしかしてミクさん暇? だったら、俺の仕事、手伝ってもらえない?」
ヒューはロブの様子をまったく意に介さずに、喋り出した。
「なんか大窟の社の花が、昨日散ったみたいなんだ。俺、あそこの花びらを掃除する仕事を受けてるんだけど、良かったら助けてもらえないかな?」
「いいですよ」
私が快諾すると、ロブは慌てて言った。
「おいおい、お嬢ちゃんは清掃担当じゃないんだぞ。いったい、そんな仕事を誰から受けたんだ」
「イブキだよ。花びらと引き換えに、少し借金減らしてくれるって言うから」
ロブは大きなため息をついて立ち上がると、ヒラヒラと手を振った。
「ご苦労さん。じゃあ、俺は忙しいんで、あとでな」
サクヤも立ち去ろうとするロブにヒラヒラとカウンターから手を振って見送った。彼のあっさりとした反応を、ヒューは特に気にしている様子はない。
「じゃ、行こう!」
ヒューは私の手を取ると、大窟の社へ向かう道へと引っ張った。 私は、今度はその手を強く握り返した。
大窟の社までの道を、やや早足で進みながら、私はヒューの様子をちらちらと横目で見ていた。
「ヒューは、どうして大道芸人をしてるの?」
「ん? やりたいことだったからかな」
ヒューの答えは、想像していた以上にシンプルだった。私の心は、それを聞いてなぜか、少し沈んだようになった。私のやりたいことは、そんなシンプルに言い表せることだったろうか。実体のない、もやもやとした煙のような気持ちを抱えながら、大窟の社へと歩みを進めた。
「ミクさんだって、大窟でやりたいことがあるから、開拓員になったんだろ」
「え?」
「今、気づいたんだ。この花を散らしたの、ミクさんじゃないかなって」
大窟の奥に到着すると、ヒューの仮面は、大窟の社の木を見上げるように上を向いた。
「レイヴァンが言ってたんだ。この木は人の思いに反応するんだって。初代が活躍していた頃は、開拓員になるべき人を、この木が選んでいたって聞いたよ」
――僕は、古い人間だから、鈴はなかった時代だ。
私は、人選の鈴について、レイヴァンにたずねた時の言葉を思い出した。
レイヴァンは、研究という強い動機を持って、大窟にいる。彼も、きっとこの樹の下で、奇跡を見たのだろう。
ヒューはピエロの仮面をはずし、木の枝にふわりとかけた。ヒューの姿が見えなくなると、私は、木の根元に置かれていたほうきとちりとりで、丁寧に地面をはいた。
ヒューは道行くお客さんに芸を披露し始めたようで、社の前には、あっという間に人だかりができた。彼のことが見えない私には、彼が一体何の芸をしているのか見当もつかなかったが、時折歓声に混じって、黄色い声が飛び交う。
サクヤやロブは、彼のことをヒモだと言っていた。それが、ただの冗談とは思えないほどの、尋常ではない女性の数だ。
私は、少しだけ掃除の手を止めて、目を凝らしたが、相変わらず、私にはヒューのことが見えなかった。
真ん中だけがぽかりと空いた群衆を見ていると、なぜだか急に、私の胸は孤独感に押し潰されそうになった。木にかかったままのピエロの仮面に目をやると、その目に描かれた涙が、本当に泣いているように見えて、私の胸もきりっと痛む。
あの人だかりの中心にはヒューがいて、きっと愛想良く笑っているのだろう。その様子を鮮明にイメージしようとするほどに、目に見えぬヒューの姿は、私の記憶の中のソヨウの姿に重なっていった。
ソヨウ――私の兄は常に話題の中心だった。
成績が貼り出される頃には、人だかりのひとつやふたつでは利かないほどに、多くの人間に囲まれるようになっていた。私も遠巻きにそれに加わりながら、彼が注目を浴びることを喜んだ。
しかし、彼はその状況を、あまり歓迎してはいなかったようだ。
ソヨウは、表向きは社交的な風を装っていたが、家では口数は少なかった。一人で考えにふける時間が増えると、兄妹の会話は減っていった。
ソヨウを思い出すたびに、私は自分の心に深く空いた穴を覗き込むような気持ちになって、ふとした拍子に、その深い穴に飛び込んでしまいそうな衝動が私を襲う。
それを止められるのは、きっと兄のソヨウだけだ。
――早く、ソヨウに会わなければ。
ふいに涙がこみ上げてきて、自分の迷いをぶつけるように、より熱心に掃き掃除を続けた。道に落ちていた花びらは、あっさりと集まった。掃き集めた花びらをかごに入れていると、突然どこかから、泣きじゃくる少女の声が聞こえた。
その声の主を探して、周囲を見渡すと、年齢にして五歳ぐらいの少女が、木の根のあたりに立って、泣いていた。草木染めのような、不思議な色合いをした服をまとった少女は、明らかに観光客とは言いがたい様子だった。
(なぜ子供が、こんなところに?)
不思議に思いつつ、私は声をかけた。
「どうしたの? 帰り道がわからなくなったの?」
彼女はそれには答えず、勢いよく私の足に抱きついた。私は体勢を崩しながらも、彼女を受け止めた。その不思議な少女との出会いを境に、私が堪えていた涙は、まるで蒸発したかのように、どこかへ消えてなくなってしまった。
ヒューの方へと助けを求める視線を送ると、ヒューが仮面をつけた状態で、こちらに歩み寄ってきた。それを見つけた少女は慌てたように、私の後ろに隠れた。
空中に、ひょいっとバルーンアートが取り出され、キュッ、キュッと小気味よい音を立てながら、犬の形が作られていく。ヒューは持ち前の芸人魂で、少女を楽しませようと試みていたようだったが、その少女はますます泣きべそをかいて、私に強くしがみついた。
「心配しないで、私が外に連れていってあげる」
私は、しゃがんでその少女と同じ目線になると、優しく頭を撫でた。
「そうだね。仕事も終えたし、そろそろ、戻ろうか」
ヒューがそう言うと同時に、花びらを入れたかごがひょいと宙に浮いた。
ぐす、ぐすと鼻をならす幼い彼女の手をひき、来た道を帰るのは想像以上に時間がかかり、ようやく出口につく頃には、すでに日も暮れかけていた。
「誰、その子」
少女と手をつないで、出口を出ると、サクヤが開口一番、目を丸くして驚いた。
「迷子みたいです」
私がそう答えると、サクヤは信じられない、というように首を横に振った。
「その子、〈匂い〉がしない」
「ええっ? どういうことですか」
「こっちが聞きたいわよ。どこから連れてきたの。何者なの?」
サクヤは人選の鈴を少女の前に差し出した。少女は手を出して上の突起を押したが、音を鳴らすことはできなかった。
「きっと、ただの迷子じゃないわ――仕方ないわね」サクヤはカウンターを開けて、私たちを奥の扉に招き入れた。「こっちにいらっしゃい」
私たちが奥に入ると、サクヤは手早くコーヒーと、少女には温かいミルクを準備してくれた。
サクヤはカウンターに頬杖をつくと、少女を見つめて訊ねた。
「あなた、お名前は?」
「ヤコ」
「お父さんとお母さんは?」
すると、ヤコ、と名乗った少女は私を指差した。ヒューの仮面が飛び上がった。
「ミクさん、子供がいたのかい!」
私が慌てて首を振ると、サクヤが、ヒューの仮面のすぐ上――おそらく頭――を鷲掴みにして押さえた。
「そんなわけないでしょ。話がややこしくなるからアンタは黙ってて」
サクヤが睨みをきかせて、そう言い放つと、ヒューの仮面はしゅんとしたようにうつむいた。私はサクヤに事情を説明した。
「大窟の社に、一人で泣いていたんです」
それはほっとくわけにはいかないわね、とサクヤは神妙に頷き、ヤコを見ながら言った。
「とはいえ、こんなところにいつまでも子供を置いてはおけないわ。レイヴァンに相談かしら……」
そのとき、私はレイヴァンからもらったプレートの存在を思い出した。ポケットからプレートを取り出して、プレートごしにヤコのことを見つめていると、横からにゅっとサクヤの顔が覗いた。
「アンタ、何やってんのよ」
「あ、レイヴァンがくれたんです、何か調べて欲しいことがあったら、このプレートを使うようにと」
「あら、便利ね。どうやって使うの?」
「ここをこうすると……」
私はプレートを上下に裏返した。すると、カリグラフィを思わせる綺麗な筆跡で、紙にすらすらと字を書く映像が見える。
〈サクヤの顔が見えたのでそちらに向かいます〉と、書かれたあと、レイヴァンの家の中を移動する様子がプレートに映りはじめた。
「レイヴァンの様子が見えるんです、こちらに向かってるみたい」
サクヤは私の手からプレートをひったくると、私の真似をして、中を覗き込んだ。
「あら、ほんとだ。レイヴァンがこっちに来るなんて珍しい。コーヒー追加ね」
サクヤは頬に手をあてて、いそいそと小さなキッチンの方に歩いていった。
「俺、ちょっと迎えに言ってくるよ!」
しばらくおとなしくしていたヒューも、嬉しそうな声を出した。
「ママ」そのとき、ヤコは、私の裾を引いた。「コーヒーがこぼれる」
ヤコの声と同時に、がちゃん、と音がして、ヒューの側にあったコーヒーカップが倒れた。
「やっちゃった! ごめんなさい!」
ヒューが立ち上がりざまにコーヒーをこぼしたようだ。サクヤが呆れ顔で、布巾を放ると、ヒューはそれをうまく受け取ったらしく、その布巾はコーヒーの辺りでいったりきたりしはじめた。
私はしばらく呆気にとられてその様子を見ていたが、また裾がぴっと引っ張られた。
「ママ、大きな人と車椅子の人が来る」
ヤコが扉の方を指さすと、数十秒ほど遅れて、ロブがレイヴァンの車椅子を押しながらやってきた。
「やあ、ミクニ。さっそくプレートを使ったようだね。様子から判断して、サクヤに呼ばれるだろうと思ってね」
「ご名答」サクヤはロブとレイヴァンにコーヒーを手渡した。「この子、〈匂い〉がしないの」
ふむ、とレイヴァンはヤコをじっくりと観察した。
「人じゃない、ということかな?」
ヤコは私の後ろにサッと隠れた。レイヴァンはそれを見て、優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。僕は君を追い出すつもりはない」
すると、サクヤはレイヴァンを責めるように言った。
「待ってちょうだい。この子、匂いがないから、伝魂だってできないのよ? そんな得体の知れない子供を、大窟に住まわせる気?」
レイヴァンは目を閉じ、しばらく考えて首を振った。
「現実的じゃないな」
「そうでしょう?」
サクヤは得意気な顔をした。
「だが、人選の鈴は鳴らなかったんだろう」
「ええ」
「では、この子も何かの理由で大窟に留まる理由があるということだ。例えば――ミクニの力に影響している、とかかな」
私はそれを聞いて、ヤコのことをじっくりと見た。ヤコは怯えたように、サクヤとレイヴァンを交互に見ている。しばらくして、ヤコはまた、私の袖を引いた。
「ママ……」
ヤコは上目使いで、不安そうに私を見上げた。
私は意を決して、レイヴァンとサクヤに向かって口を開いた。