現実(今)を照らす心の灯
一週間後……
安静期間中、ベッドの中で散々、泣き悲しみ、悩んだ末、
朝子は孝に、書き置きと、離婚届けを残して家を出た。
これまで、繰り返し考えてきた結果だった。
手紙には、13年間の溢れる感謝の思いを込めた。
愛する孝に、幸せになって欲しかった。
ちゃんと子どもを産める女性と再婚して、
病院も安定させて欲しいと願った。
朝子は、自分はここに居るべきではないと感じていた。
おそらく、もう随分前から……
小さなバッグひとつで、彼女は街へ出た。
行くあてなんか無かった。
そこら中が、イルミネーションで飾りつけられ、
街中がソワソワしている。
道行く人々の顔が、ことごとく幸せそうに見える。
サンタの扮装をした男性が、何かのビラを配っていた。
ビラは、新装オープンの喫茶店の広告だった。
この季節、朝子にとっては、いい思い出なんかない。
クリスマスソングも耳障りなだけだった。
街の騒めきから逃れる様に、彼女は そのビラの
喫茶店へ足を向けた。
『新装オープン』には似つかわしくない、
古めかしい、小さな店だった。
でも、今の朝子の気分にはピッタリだった。
入口のドアを開けると、ドアベルが『カラン カラン』
と音をたてた。
柔らかなランプ照明の中、ジャズが流れている。
「いらっしゃい」
ロマンスグレーの髪を、ピッチリと、オールバックに
まとめ、蝶ネクタイをした初老の店主が、にこやかに
朝子を迎えてくれた。
アンティーク調のテーブル席に腰掛け、エスプレッソを
注文した。
なんだか懐かしい雰囲気の店内で、これまでの事を
あれや これやと考えていたら、朝子は 泣けてきた。
泣けて仕方がなかった。
子供の頃の事、やっと授かった命を失ってしまった事、
孝と過ごした日々……
『人生が、完全な【円】の形になる事なんてないのね……』
朝子の前に、淹れたてのエスプレッソが置かれた。
「如何でしたか?」
店主が朝子に尋ねた。
唐突な質問に、朝子はポカンとした顔で店主の顔を見上げた。
「これまでの人生ですよ。幸福でしたか?」
店主の質問に
「ええ、きっと…… 私には、贅沢なくらい……」
朝子は泣きながら答えた。
自分の気持ちが高ぶっているせいか、それとも
この店の雰囲気が そうさせるのか、この店主には
全て見透かされている様に、朝子は感じた。
素直に心の言葉が、口をついて出る。
「ただ、会えなかった赤ちゃんの事は、心残りで……」
朝子が言った。
「本当に。お気の毒でしたね…… でも、あなたには、子どもを
生んで育てる人生も選択できたんですよ」
店主が言った。
「何を……仰ているんですか?」
朝子は驚きを隠せなかった。
店主は続けた。
「13年前、もし、今の御主人と結婚していなかったら……
あなたは今頃、2人の子供を持つシングルマザーになっていたんです」
朝子には、店主が言わんとしている事が、全く飲み込めなかった。
店主の話は続く。
「人には それぞれ、大切なことを決める時、分岐点に立たされる事がある。
その人が、何をどう決めるかで、その後の人生は大きく左右されてしまう。
あなたは その分岐点で、別の男性と生きる道を選んだ。まあ、結果は
さっき言った通りですがね……」
『パラレルワールド……』何かの本で読んだ事がある。
朝子は、何かの拍子に シングルマザーの生活から、
今のこの世界へ迷い込んでしまったという事なのか……
店主が言った。
「どうです?もう一度、御主人の元へ戻ってはいかがですか?
まだ離婚届けを、出されていないかもしれないですし……」
孝が、心配して大騒ぎしている姿が目に浮かんだ。
朝子の胸が、ズキズキと痛んだ。
ひとりでに涙が溢れては落ちた。
首を横に振りながら、思いを打ち消す様に、朝子が言った。
「確かに、決して不幸ではなかったけれど、私、いつもいつも
感じていた違和感があって……
何だか自分の居場所が ここに無いんじゃないかと……
必要とされているという実感が無いというか……
主人の事は愛しています。
とても大切にしてもらったと感じています。
だからこそ彼に幸福になって欲しい。
もし、私が元の世界に戻っても、主人には きっと
別の奥様との生活があるわけですよね?
私自身も、彼とは結婚していなかった事になるんですよね。
私は、このままでいいんです。
彼の両親から、子どもの事で責められるのも、正直もう懲り懲りですし……」
「このまま、この世界で1人で生きていくんですか?
それとも、元の世界へ戻りたいですか?」
店主が聞いた。
朝子はエスプレッソを一口飲んだ。
「この先……1人で…… 私、戻れるんですか?
元いた世界へ…… 戻ってみたい。戻って、子供達に会いたい」
店主は溜息をついた。
「貧しくて、悩みの多い生活ですよ。あなた自身、
リタイアしたがっていた人生ですよ。それでもですか?」
「お願いです。私、今 何かとても大切なことを、思い出そうと
しているんです。
どうしたら元の世界へ戻れるんですか?」
朝子は尋ねた。
店主は、目を閉じて、もう一度深い溜息をついてから答えた。
「店を出て、向かい側のバス停に次に来たバスに乗りなさい。
元の場所に戻れますよ」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、朝子はバッグをまさぐり、財布を探していた。
「お代は結構ですよ。コーヒー、すっかり冷めてしまったでしょ?」
店主が微笑んだ。
「本当に、ありがとうございます」
朝子はペコリと頭を下げて店を出た。
道向こうに、確かにバス停があった。
バス停には『夢咲町』と書かれている。
朝子が、そこへ立つと間もなく、一台のバスがやって来た。
入口のドアが開いたが、乗客は誰もいない。
席に座った途端、朝子は深い眠りに落ちてしまった。
夢を見ていた。
会社からの帰り道、朝、息子とケンカした事を後悔した事や、
娘の反抗期に振り回されている事、子ども時代のトラウマで
記念日が大嫌いになってしまった事、さっき寄った喫茶店の店主
との会話で、思い出そうとしていた大切な何かが目覚めかけている事……
瞼の裏に残る、柔らかなランプの明かり……
ハッとして目が覚めた。
バスの中には大勢の乗客……
朝子自身は、後ろの窓際の席で、うたた寝していたらしい。
何だか長い夢を見ていた。
どこから どこまでが夢だったのか……
いつものバス停で、バスを降りた朝子は、全速力で走った。
なぜか、子供達に会いたくて仕方がなかった。
冷たい空気を吸い込み過ぎて、喉や胸が痛む。
途中で、足が絡まって転んだ。
膝がジンジン痛んだ。
それでも夢中で走った。
団地の階段を駈け上がり、重たい鉄製のドアを
思い切り押し開けた。
全身で、ハアー ハアー 息をしながら帰宅した朝子を
2人の子供が、キョトンとした顔で見ていた。
「お帰り……」
翔太が、台所で米を研いでくれていた。
「お帰りなさい!」
葵が、洗濯物を畳んでいた。
「遅くなって ゴメンね ……何か、色々 ゴメンね……」
朝子は玄関先で突っ立ったまま号泣した。
「別に、いつもと同じ時間だし、大丈夫だけど……」
翔太が言った。
「そうだよ。変なお母さん」
葵が笑った。
「急いで夕飯作るね」
朝子が涙を拭きながら言った。
「私も手伝うよ」
葵が言ってくれた。
「俺、ちょっと課題やるわ」
翔太は自室へ向かった。
思い出した。大切な何か……
それは、子供達との大切な絆。
コツコツと積み上げて来た暖かな絆……
私達の歩く未来は、他の何ものにも負けないくらい
確かに輝いている。
決して華やかではないけれど、まるでランプの明かりのような
柔らかな灯が私達を導いてる。
忘れていた。すっかり忘れていた。
記念日に、何のいい思い出もないけれど、
でも、でも……
この子達と生きている、1日1日が、辛い日も、笑った日も、
この子達と超えて来た1日1日、その全部が
朝子にとっての記念日。
誰かと同じじゃなくていい。
誰のものでもない。
私達だけの記念日。
小さな夕食のテーブルを囲む3人の笑い声が、
絶え間なく、外まで漏れ聞こえていた。
翌朝、いつも通り子供達と家を出る朝子。
互いに「行ってらっしゃい」と言い合い、
それぞれの場所へ向かう。
バス停へ向かう途中、朝子は大きなイエローの
ラブラドールを連れた女性に出会った。
「かわいいワンちゃんですね」
あまりの可愛さに、朝子は思わず声を掛けた。
女性が答えた。
「ありがとうございます。よかったねえ、リトル」
女性は嬉しそうに、ワンちゃんの頭を撫でた。
「リトルって名前なんですか?」
朝子が聞くと
「そうなんです。こんなに大きな体なのに変ですよね」
女性が笑った。
朝子は微笑んだ。
よく見ると、その女性は、お腹の辺りがふっくらしている
ように見えた。
「もしかして、おめでたですか?」
朝子が尋ねると
「ええ。6ヶ月です」
と彼女はにこやかに答えた。
「どうぞ、お大事になさってくださいね。それじゃあ」
朝子は会釈して、その女性と別れた。
『リトルか……どこかで、あの犬と会ったかしら?』
少し不思議な感覚を覚えながら、朝子はバス停でバスを待っていた。
小さな通りを挟んだ、斜向かいにある、クリーニング店の女主人が
それは それは手際良く、店のシャッターを次々に開けて行く。
年の頃は60代半ばといったところだろうか……
背筋がシャンとして、とてもステキな女性だ。
朝子は、その姿に、ウットリと見とれていた。
『私も、あんな風に歳を重ねたい……』
朝子はそう思った。
「おはようございます!いいお天気ですね!」
朝子は大声で、その女主人に声を掛けた。
どうしても、そうしたかったのだ。
「おはようございます!いい日になりそうね!」
女主人が笑顔で返事をしてくれた。
店内からは、クリスマスソングが漏れ聞こえている。
この季節は やっぱり苦手。
それでも朝子の心に消えない灯が灯った。
『今日はどんなステキな記念日になるのかしら……』
少女のように胸をときめかせながら、
やって来たバスに乗り込む朝子だった。




