夢咲町にて
「お疲れ様」
会社の仲間に挨拶をし、朝子はビルのエントランスを出た。
外はすでに暗闇に包まれ、冷たい風が容赦なく吹き付ける。
朝子は、首をすくめながら、コートの襟を立て、前をギュッと合わせた。
マフラーを持って来るのを、忘れた事を後悔しながら……
朝、出がけに息子と言い争いをし、怒りに任せて
部屋を飛びだ出したせいで、マフラーの事まで頭が回らなかったのだ。
彼女は深い溜息をついた。
「少し、キツく言い過ぎたかしら……」
息子に言った事を思い出しながら、そう考えていた。
彼女の名は、小林朝子。
3年前に夫から、一方的に離婚を突き付けられ、
現在、中学1年生の男の子、翔太と、
小学4年生の女の子、葵を育てるシングルマザーだ。
朝子はいつになく、イライラしていた。
疲れが溜まっているから?
もちろん、それもある。
翔太の進路の事や、葵の反抗期など、思うように
いかない子育てに翻弄されているせい?
それも要因の一つだ。
でも、それ以上に、何よりも
彼女は、この季節が一年で一番嫌いなのだ。
街中がイルミネーションで彩られ、どこへ行っても
クリスマスソングが流れる この季節が、
朝子を苛立たせているのだ。
「こんな風に思うのは、私だけかしら……」
そう思いながら、最寄りのバス停へ向かう朝子。
凍えていく手を擦り合わせながら、朝子は自分の
子供の頃の事を思い出していた。
アルコール依存症で、ロクに働きもせず、母親に暴力を振るう父親と、
それに怯えながら、必死にパートをして生計を支える母親。
その両親の元で、朝子は育った。
生活はとても貧しかった。
それでも、誕生日や、クリスマスといった記念日には、
母親が無理をして、ケーキや、ご馳走を用意してくれた。
ささやかな祝いの席を、泥酔状態で帰宅した父が、
テーブルごと ひっくり返し、あっという間に
そこは惨状と化した。
原型を失ってしまったケーキや、
メチャクチャにされた手料理がこぼれる床の上に
ねじ伏せられ、顔の形が変わるほど、父に殴られている母を、
どうする事もできず、3つ下の弟と抱き合って、
ガタガタ震えながら、ただ ただ、その様子を見つめていた朝子……
まるで判で押したように、毎回毎回 繰り返される記念日……
朝子にとって、記念日という記念日が、悪夢でしかなった。
何一つ、いい思い出なんか なかった。
もうずっと昔の事なのに、街中が浮き足立つこの季節になると、
過ぎ去った昔の、苦い思い出が蘇り、朝子は
吐き気すら覚えるのだった。
家へ向かうバスがやって来た。
朝子は次々と乗り込む人々の列に並び、
ようやく暖房の効いた車内へ入ることができた。
珍しく、席が空いている。
一番後ろの窓際の席だ。
安堵しつつ、その席に朝子は腰を下ろした。
「くだらない思い出……」
朝子は苦笑した。
ヒーターのお陰で、足元からジワジワと暖まって、ほぐれていく
体とは反比例して、頭と心の中は、処理しきれない現実で
ひどく緊張していた。
約10年続いた結婚生活は、朝子にとって決して幸福とは
言えなかった。
度重なる夫の借金と、女性問題で、ケンカの絶えない10年だった。
離婚後も、仕事と子育てが忙しくて、友人と、お茶を飲む時間もない。
必死に朝子達を育ててくれた母は、過労が原因で既に他界していた。
まだ45才の若さだった……
朝子は、誰かに頼る事も、愚痴を言う事も、
その時間すらも持てずに、ここまで突っ走って来た。
とにかく必死だった。
リタイアできるものならリタイアしたい。
朝子は、そう思っていた。
子育てからも、過去からも、この先に続く未来からも……
何だか家へ帰りたくない気分だった。
どこへも行くところなんてないのに……
「夕飯、何にしよう…… 冷蔵庫の中、何があったかしら……」
夕飯の支度もしたくない気分だったが、どうしようもない。
子供達は、お腹を空かせて待っているはずだもの。
逃げられない現実……
朝子は ふと思った。
「もし、このまま私が帰らなかったら、
あの子達はどうなるのかしら?少しは心配してくれるのかしら?
そもそも、あの子達を生んでいなかったら?
もし、別の人と結婚していたら?
私は どうなっていたんだろう……
ああ、くだらない……」
朝子は、またひとりで苦笑した。
確実にバスは、朝子を、自宅近くのバス停まで送り届けてくれる。
朝子が それを望まなくても……
ポカポカと暖かな車内は、自然に朝子を眠りへと誘った。
朝子は、いつの間にかウトウトと微睡んでいた。
「お客さん、終点ですよ」
朝子はすっかり眠り込んでしまったらしく、運転手に、そう
声を掛けられるまで全く気がつかなかった。
バスは朝子が降りる予定だったバス停を通過し、
終点まで来てしまったのだ。
「すみません……」
朝子は慌ててバスを降りた。
道向こうのバス停へ向かって走る。
折り返してくる、次のバスに乗らなければ……
バス停には『夢咲町』と書かれていた。
朝子の知らない地名。
見たことのない町だった。
時刻表を確認したが、朝子が行きたいバス停の名前が載っていない。
彼女は途方に暮れた。
朝子を包む、静けさと暗闇が、一層彼女を不安にさせた。
「一体、ここは何処なんだろう……」
朝子は思った。おそらく自分は、乗るバスを間違えてしまい、
知らない所へ、辿り着いてしまったのだ。
朝子はひどく後悔した。
「どうしよう……」
泣き出しそうな気持ちで辺りを見渡した。
一軒の小さな喫茶店が目に入った。
朝子は、急ぎ足で店に近付き、入口のドアを開けた。
『カラン カラン……』
ドアベルの音が響き、店内に来客を知らせる。
ところが人気が無い。
「あの…… すみません……」
朝子は声を掛けてみたが、やはり誰も出て来ない。
困り果てた朝子は、恐る恐る店内に入り、
カウンター越しに、もう一度声を掛けた。
「あのー……どなたか いらっしゃいませんかー‼︎」
やはり返答は無い。
朝子は深い溜息をついた。
そのままカウンターの席に腰を下ろし、
店内をしみじみと見直した。
柔らかな黄色味を帯びた店内は、照明にランプを
使っているせいか……
丁度いい音量でジャズが流れている。
テーブルも椅子も、今、自分が座っているカウンターも
アンティーク調で、何だか とても落ち着く雰囲気の店だ。
コーヒーを煎る、香ばしい香りが、店の中いっぱいに広がっている。
朝子は、心が ほどけていくのを感じていた。
ふと気がつくと、朝子の目の前に、一杯のエスプレッソが
置かれていた。
どうりで、いい香りがする訳だ……
でも、朝子はまだ何も注文していない。
それどころか、この店内で まだ誰とも会ってすらいない。
「この店、どうなってるの?」
そう思ったが、朝子はすっかり落ち着いていた。
この店の雰囲気がそうさせるのか……
代金なら、後で払えばいい。
昔、子供達と見たアニメ映画のように、
このコーヒーを飲んだら、別の生き物に姿が
変えられてしまう、なんてこともないだろう……
「あのー……これ、私に淹れてくださったんですよね!
飲んじゃいますよー…… いただきます……」
そう言って、朝子はカップに口を付けた。
本当にいい香り……
濃さも、苦味も、今の朝子にピッタリで、とても美味しいエスプレッソだ。
「ふうーー……」
朝子は溜息を漏らした。
コーヒーは、五臓六腑に染み渡り、心底リラックスした気分だった。
しばらくすると、朝子の目の前を
靄が漂い始めた。
「え?何……?」
目の前の靄はどんどん濃くなり、朝子の瞼が次第に
重くなっていった。
「眠っちゃ……ダ……メ……」
朝子は、カウンターの上に突っ伏して
眠りについてしまった。




