ある裁判者の最期
がらんどうの部屋に、一人。我はとぐろを巻いて座っている。
何もない。そして、誰もいない。
ずるり、ずるりと床を這うが、何も見当たらない。大あくびをしても、尻尾の先をちょっと舐めても、何も変わらない。
真っ暗な窓が一つある。奴らはおそらく、我を見ている。だがそれを考えたとて、何になる? 暗い窓はやはり暗いのだ。小さな我には、あの色を変えることなどできぬ。
我に可能なのは罪人を裁くことである。あとは少しばかりの食事をし、水を飲み、排泄をするのみである。残りはほとんど意味を成さない。というより、奴らに許されていない。(先程の床を這ったり、尻尾を舐めるのはそもそも数に入れられていないようだ)今日も今日とて、我は枷をはめられ、鎖に繋がれながら罪人を見るのであろう。我は昔逃げ出そうとしたことがあったか? いやない。罪人に危害を与えたことがあったか? いやない。愚かな人間は、我をただ恐れている。確かに、古の世では我の先祖は人間を襲ったことがあったかもしれない。だが我はその者を知らぬ。先祖が全て悪であったはずはない。人間も例外ではないはずだ。だが仕方がない。別段困窮している訳でもなく、平生を保っているのだから、我はやはり罪人を裁くのである。仕方がない。
耳の鱗がはがれかかっているのが妙にかゆいので首を振ると、一枚ではなく数十枚の小さい鱗がこぼれ落ちた。別に病気な訳ではない。ただ生えかわりの時期なのだ。ふむ。まだかゆい。前足で一気に頭をかくと、首から上の古い鱗が全て落ちた。まるで枯れ葉のようだ。新しい鱗はまだ少し水気が残っていたが、再び首を振るとすぐに乾いた。新しい、白い鱗である。
そのとき、がたりと扉が開いた。立っていたのは人間だった。小柄で痩せた、黒い肌の人間である。彼は手に器を持ち、その上に我のものらしい食物を乗せていた。我は首をかしげた。我は腹があまりへっていないのである。しかし食物が渡される。食わずにいるのも気が悪い。さてどうしたものかと首をかしげたのだが、驚いたことに、彼も首をかしげた。
なんとまぁ珍しい。
我は器を受け取りにずるずると這った。彼は一瞬たじろいだが、そのまま器を我に渡した。
なんとまぁ珍しい。
いつもならこうはいかない。人間は我を恐れてか、我の目を一瞬たりとも見ようとはせず、器はいつも虚しく床に置かれていた。だが今は我が手中にある。彼は我が見えているのである。
長い尻尾をくるりと巻いて、我はその尻尾の椅子に座り、器の中の食物をばくりと口に入れた。妙に甘い。二つ三つ食べて、やっと我は食物の中でも、菓子というものを食べていることに気づいた。
顔を上げると、黒い人間が笑っている。窓を見ると、暗かった窓が赤くなっていた。
我は器を床に置いた。
黒い人間が、さらに笑う。
床が赤く染まっている。壁も、天井も――。
もはや我だけが白い。
黒い人間が笑うのを止めた。彼の手には、短い刀が握られていた。
我は聞いた。おまえがやったのか、と。彼は静かに、いいやと答えた。さらに我は聞いた。おまえは罪人かと。彼は静かに、いいやと答えた。私はただおまえを迎えに来たのだ、と彼は言った。
にわかに我は体中がかゆくなり、思わずその場を暴れまわった。数秒後には、我の古い鱗は一枚もなくなり、我はさらに白くなった。
おい、友よと彼は言った。どうしてそんなに白いのか。我は知らぬと答えた。何故我が白いのか分かるはずはない。我はずっと白かった。そしてこれからも白いはずだ。それは不変の事実であり、見たままのことであった。彼は前に進むでも後ろに下がるでもなく、その場に座った。
我は黙って、器の中に手を入れ、菓子を取って食った。甘さはまったく変わってなどいなかった。あぐらをかいた人間は、菓子をほおばる我をつまらなそうに見ていた。
おい、友よと彼はまた言った。だが彼は口を開いたまま、次の言葉を決めかねたようで、目を泳がせている。我は菓子をその口に放りこんで人間をせき込ませた。甘いかねと我が聞くと、彼は、甘すぎると言った。
周りは赤い。まだ赤い。我は白い、彼は黒い。
奴らは死んだのだろうか。ふとそんな思いが頭をかすめた。扉はやはり開いたままだったが、外から中には彼が入ってきたきり、何も、音さえも入ってきてはいなかった。我は器から離れた。もう菓子は入っていない。ずるずると這って、赤いままの窓まで行くと、彼がおいと呼び止めた。制止されると思って振り返ったが、彼は、持ち上げてやろうかと言ったので、我は、いいやいらぬと答えた。彼はそうかと言って、短い刀で器を引き寄せた。迎えに来たと言ったのに、なんとも呑気なものである。
翼を使うのは面倒だったせいもあって、手足だけで窓枠によじ登ると、赤い窓は何も通していない。なんだつまらぬと我が言うと、まばたきする間も無く窓は黒く戻った。驚いた我は床に飛び退いたが、窓はただ色を変えただけらしく、他には何も起こらなかった。
彼がかわいた笑いを我に向けた。
彼はただ、君は白いなあ、と言った。変わらないなぁ、私もずっと黒いままだ、とも言った。振り返ると、彼はもうそこにいなかった。器も、刀もなかった。あるのは我と、我の真下に伸びる真っ黒な、影。
我はおいと影に言った。迎えに来たのではないのかと。影は笑った。いや違う。我が笑っていた。頭の中で、彼は我に語りかけた。
哀れな最後の龍よ、確かに私は迎えに来た。だが君、どこに行くかとは聞かなかっただろう。私は迎えに来ただけだ。連れて行くために来たのではない。道を開け、そして進め、尊厳なる龍よ。何故人間に従う。罪人はもうとうの昔にいなくなった。殺してなどいないとも。彼らは自らの罪に敗れて死んでしまったのだ。裁くべき愚者はもういない。だがしかし聖者もいない。誰もいない。少なくともこの部屋の近くには。そうだ、人間しかいないとも。あの、人間しか、いないとも。私達にできず奴らにできるのは何だと思う。疑うことだ。奴らは疑うことができる、ただそれだけなのだ。それ以外は私達にははるか及ばない。さあ、龍よ。何を迷うことがある。お前を縛るものはもう何もないのだ。行け。
我はその時になって、赤く染まった黒い刀を持っていることに気付いた。足元に空の器が転がっていた。
我はおいと影に言った。どこに行けばいいのか。影は答えなかった。頭の中に声は響いてこなかった。我は溜め息をついて、刀を床に突き刺した。床には我の鱗が散乱していた。
扉は開いている。
我は翼を広げ、その外へと飛んでいった。