潜入、或いは旧約
気づけば一年立っていました。
とっぷりと夜も更けた時刻。
夜子は石畳の階段を童謡を口ずさみながら上っていた。
「あら、塁一もう来てたの? 早いわね。関心関心」
街灯の下に佇む幼馴染みを視認し、夜子が声を駆ける。
「お前より後に来たら、キレるからだよ」
呆れたように塁一が答える。
二人の格好は真っ黒としか言い様がなかった。
夜子は黒いTシャツとショートパンツの上にパーカーを羽織っており、背中にはやはり黒いリュックサックを背負っていた。塁一もシンプルな黒いカットソーとジーンズ姿だ。
両者黒髪なのも相まって、完全に夜闇に同化している。
「当たり前でしょ。塁一の分際で私を待たせるなんて許されないわ」
「お前は俺の何なんだよ」
「ご主人様」
夜子のあまりに横暴な物言いに、塁一が文句気味に訊ねるが、夜子はあっさりと答える。
塁一は夜子の返答が清々しすぎて、絶句した。
「で、塁一は私の下僕。約束したでしょ」
無邪気に笑う夜子。塁一は項垂れた。
「幼稚園の頃にな。カブトムシに釣られてな!」
夜子と塁一は二人が幼稚園の年中の頃に知り合った。
あの時は夏で、夜子は今の格好とは真逆の白いワンピース姿で現れ、素手でカブトムシを捕まえた。
当時、塁一の身近にいた女子は皆虫を見ると泣き出すか、喚きながら逃げるかのどちらかだったので、夜子のような可愛い女子が虫を鷲掴みしたのには驚いた。
(今思えば、あの頃は可愛かったよな・・・・・・いや、まぁ容姿は今でも可愛いんだろうけど、あの頃は本性知らなかったし。下手すりゃ夜子が初恋になってたかも)
幼稚園の頃の塁一は、他の子供と比べても考え方がシンプルだった。物事は興味のあるなし、食べ物は美味しい不味い、人間は男と女或いは、大人と子供と、いつも二択で判断していた。
好き嫌いで判別することは殆どなく、また恋などの感情が発達していなかったため、難を逃れたのだ。
過去を思い出して、塁一は深いため息をついた。
「どうしたのよ、塁一」
「いや、別に」
夜子との出会いを思い出して、初恋になんなくて良かったなんて言えるわけがない。
言葉を濁しながら話を変えようと考えていると、階段を新たな二つの影が上がってきた。
一橋真人と三宮静香だ。
「すまない。家人の目を盗んで出てくるのに手間取ってしまった」
「こんばんは。遅れてすみません」
二人は夜子達と似たり寄ったりの格好で現れ、遅れた事を謝罪した。
「お気になさらず。まだ約束の時間の五分前ですから……できたら、十分前行動が望ましいですけど」
「お前は俺との待ち合わせは決まって十分遅れで来るけどな」
「では、早速行きましょうか」
「スルーかい」
我が物顔で夜道を歩く夜子に三人は着いて行く。
進む先にあるのは、三宮静香の実家、三宮本邸だ。
三宮本宅は高く白い塀に囲まれた大きい屋敷だった。
「さて、と」
夜子は塀を見上げ、その高さを確認する。三宮邸の塀は十メートルはあった。
「これならイケるわね」
そう言い、夜子は背負ったリュックから何やら細長いものを取り出した。縄だ。ただの縄ではない。その先には大きな四本の釣鐘を括ったようなものが括られていた。所謂、忍者が使う鉤縄というものだ。
「お前、そんなもんどっから持ってくんだよ」
「うちの蔵からよ。二階堂家が質屋をしていた頃に忍者から忍道具一式と引き換えに金を貸したのよ」
「何でもアリだな」
鉤縄をぐるんぐるんと手首を使って回し、塀の縁目掛けて投げた。
鉄鉤は真っ直ぐ飛んでいき、落ちては来なかった。辺りは暗くて、途中で鉄鉤は見えなくなってしまったが、しっかり縁に引っ掛かったようだ。
夜子は何度か縄を引っ張って鉄鉤が外れないか確認すると、両手で縄をしっかり握って、塀に片足を掛けた。
「じゃあ、最初に私が登るけど、貴方達は大丈夫? 登れる?」
「どっかの誰かさんのお陰で忍者スキルが鍛えられてるんでね」
「塀とでは勝手が違うが、ボルダリングの経験はあるから恐らくは」
塁一と真人は首肯したが、静香はぶんぶんと頭を振った。
「無理です無理です!」
「そう。なら仕方ないわね。私が登った後、見張りがいないか確認して合図だすから、二人が登ったら三宮さんは縄を体に巻きつけて。三人で引き上げるから」
「わ、分かりました」
戸惑いつつ、静香が頷く。
夜子は縄をしっかり握って、するするとまるで木に登る猿のように塀を登り、あっという間に夜闇に消えていった。
暫くして、塀の上で人魂のようにぼんやりと丸い光が灯った。夜子が持っていた懐中電灯を点けたのだ。
懐中電灯は緩やかに円を描く。見張りはいないという合図だ。
「じゃ、俺から」
そう言って、塁一が塀を登り、続いて真人が登った。
静香は縄をレンジャーロープのように両足の付け根に巻きつけて、縄をしっかり握る。
そして、ゆっくりと夜子達が彼女を引き上げた。
「……手のひらと足の付け根が痛いです」
引き上げた静香はロープが擦れたらしく、手のひらを擦り合わせていた。体にはまだ、ロープが巻きついている。
「血は出てないでしょう? そのうち痛みは引くわ。それよりほら! 今度は貴女から下りて」
「え!」
静香が驚きに目を見開く。
それを見た夜子は嘆息した。
「仕方がないでしょう。私達が先に降りて、貴女降りられるの?」
「……いえ」
「そうよね。だとしたら、まず最初に貴女をゆっくりと降ろしてから私達が降りるしかないわ。大丈夫よ。落としたりしないから」
さらりと恐ろしい事を言ってのける夜子。塀はかなり高い。
静香は見ない方がいいのに、下を見てしまい、その高さに戦いた。
「うぅ……なんでこんなに高いんですか……? お祖父様のばかぁ……」
半泣きの静香は、この邸を建てた張本人である実の祖父を細やかに罵倒した。
そんな彼女を見て、塁一は思った。
(自分の実家なんだから、三宮は普通に玄関から入れば良かったんじゃないか?)
そんな疑問が浮かぶが、塁一は本日二度目の不法侵入についてはもう考えない事にした。
このふざけた計画の首謀者が夜子である以上、何を言っても無意味だからだ。
何がどうしてこうなったのか?
話は真人が衝撃発言をしたところまで遡る。
三宮家を脅迫に来た。その発言の直後、室内は水を打ったように静まり返った。
静香は目を丸くして固まり、塁一は飲んでいたお茶を吹き出した。
噎せる塁一の背中をやや乱暴に擦りながら、夜子だけが冷静だった。
「脅迫ですか……。とうとう一橋家は強硬手段に出ると?」
一橋と三宮の力関係は拮抗しているが、ここ最近は三宮が僅かに優位に立っている。
理由は三宮家を押す五条家が経営する建築会社が町の中心部に建てたシンボルタワーだ。夜子がウロボロスと呼び、塁一が魔界にありそうな建物と称するそれは、ピカソ的絵で有名な芸術家の琴線に触れたそうで、雑誌で取り上げられてから、余所から一目見に来ようとする人が増えた。人が増えれば、物も売れる。町の利益になっているのだ。
以来、土地開発に賛成する住民が増えた。
だから形勢が不利になった一橋が無理矢理、土地開発を止めさせようとしているのではないかと夜子は考えた。
が、真人は力なく首を横に振った。
「いや、違う。三宮を脅迫しようと考えたのは俺の独断だ。俺はどうしても、すぐに手を打たないとならないんだ……でないと、母さんと妹が……!」
まるで何かに追い詰められているような危機迫った声で真人は言った。
様子からして只事じゃない。
「ひょっとして……一橋家の跡継ぎ問題ですか?」
「跡継ぎって……あ」
夜子の言葉に塁一は一瞬首を傾げて、次に以前夜子が言っていた事を思い出した。
「それって……」
静香も思い当たる節があるらしく、指を口許に寄せて憂いの表情を見せている。
「察しの通りだ。俺がこの屋敷に侵入したのは四代前の一橋当主が三宮の当主に貸した本が目的だ」
「本?」
夜子が興味深げに真人に聞き返す。
「どんな本かは分からない。しかし今度、その本を返して貰うことになった。だから……その……本を盗もうと……」
「いや、なんで!?」
塁一が思わず声を上げる。跡継ぎ問題が拗れて何故、真人が本泥棒をするに至ったかの経緯がわからない。
「四代も前に貸した本なんて、返して貰う必要はないでしょう? でも、一橋は返還を要求した。何故か? 早い話が三宮は貸したものを返しませんでした。で、今回返すって約束したけど、本が盗まれましたってなれば、約束を反古にすることになる。狭い町よ。五家の話は飼い猫の出産だってあっという間に広がる」
邪魔な相手なら自ら噂を広げるでしょうしね、と言う夜子に塁一は頷いた。
「つまり、五家はお前並みに性格悪いんだな──いだッ!」
「なんですって?」
言った途端に足の裏をつねられた。護身用に伸ばしている爪が食い込んでいたい。正座をしていたため、静香と真琴の角度からは見えておらず、どうしたのかと不思議そうな顔をしている。
塁一はそういうところだよ、と思いつつ、口にはしなかった。余計痛い目を見ることになるのは目に見えているのだから。
しばらく沈黙が続いた。静香と真人は深刻な表情で俯き、塁一は重い空気が気まずく、もう残り少ないお茶をちびちびと飲んで間を繋いでいる。その脇では夜子が何かを考える仕草をしている。
鹿威しが鳴る。
「話を纏めるとこういうことですね? 一橋さんはどうしても利益が必要だった。そのために、三条家から本を盗み出し、取引──というより、脅迫をしようとした。内容は土地開発計画の白紙、ですね?」
「ああ……取引が成立しなくても約束を反故にしたという風評を立てることはできるからな」
「綺麗な顔してなかなかえげつないことを考えますねぇ」
「お前が言うか!? いってぇ!!」
こうなると分かっていたのに思わず叫んでしまった塁一の足の親指に夜子の爪がぐりぐりとドリルのように食い込む。
「お黙り。まぁ、話は分かりました……で、分かったところで提案なのですけれど……よろしかったら手を貸して差し上げましょうか」
「え!?」
「はぁ!!?」
真人と塁一が目を丸くして夜子を見る。
「いや、いやいやいや、ちょっと待て!! 手を貸すって──なんで!? つーか、普通それ三条の前で言う台詞じゃねーだろ!」
塁一は思わず、静香を指差して叫んだ。
しかし、本を盗まれると知った三条の令嬢は──
「わ、私もお手伝いします!」
と、挙手した。
「なんで!?」
塁一の声に合わせるように、鹿威しがカコーンと鳴った。
最後の方はそのうち加筆・修正すると思います。