みんな鉄郎の夜
朝、目を覚ますと私は急いで鏡の前に向かった。そこに写っている昨日までの私と同じ顔を見て、ホッと肩を落とす。
「良かった…私まだ、私だった…」
この街のほぼ全員に鉄郎の霊が憑依してから、一ヶ月が経とうとしていた。最初は大混乱が巻き起こった街も、今では都市機能の殆どを鉄郎に掌握され平穏を取り戻しつつあった。最初に鉄郎が憑依したのは、彼の家族と言う話だ。情報によると初めの夜は喋り方や動きが鉄郎っぽくなるだけだったが、二日後には顔や体までもが鉄郎そのものへと変化していった。三日目の夜には、彼の家族は完全に鉄郎と化した。
そんな絶望の夜、恐怖はそこで終わらなかった。鉄郎は伝染していったのだ。この街の人たちが徐々に鉄郎になっていく様を、私もこの目で目撃してきた。首都からこぞって取材に来たマスコミや各界の研究者の方々も、今ではすっかり鉄郎顔だ。街はすっかり鉄郎に染まっていた。
「行ってきます」
「…………」
私は台所にいる鉄郎に声をかけ、学校へと向かった。彼は昔、私のお母さんだった。お母さん鉄郎は何も言わず、その場に立ちすくみじろりと私を眺めるだけだった。その暗く澱んだ目つきに、私はいつも背筋が凍るものを覚える。彼らは鉄郎化する前の自分を覚えているのか、その時の行動を繰り返して日々を過ごしていた。例えばお母さん鉄郎は、毎日私たちのために家事に励んでくれるし、お父さん鉄郎は朝早く会社に出勤する。見た目や人格は鉄郎だけれども、その生活行動は以前のままだ。おかげでこの街は狂気の沙汰の中で何とか崩壊せずにいられた。ただ一つ問題があるとすれば、みんながみんな鉄郎だということだけだ。
「おはよう、美幸」
「おはよう、誠一」
教室のドアを開けると、私は真っ先に誠一の元へと向かった。彼はクラスメイトの真柴誠一。誠一は、まだ鉄郎になっていない。私もそうだが、この街には鉄郎に憑依されていない「生き残り」も僅かながら存在していた。鉄郎の憑依に何故か耐性を持った私達は、街を埋め尽くす鉄郎の中でひっそりと身を縮めて生きている。
「生き残り」の中には県外に脱出していった人も多い。だが、ニュースを見る限り「鉄郎」は今や全国へと広がりを見せていた。たとえ地球の裏側に逃げようとも、そこで待っているのは鉄郎になる日も近いだろう。「鉄郎狩り」も各地で行われているが、結局圧倒的な数の暴力を前に、人類は手を拱いているのが現状だった。
「美幸はそろそろ鉄郎になる気はないの?」
「あるわけないでしょ!馬鹿じゃないの!?」
誠一の横の席に座ると、彼がわざとらしく躍けて私に声をかけてきた。私達は自分たちがまだ「鉄郎」ではないことを確かめ合うように、お互いを名前で呼び合っていた。不思議なものだ。「鉄郎以前」は顔を知っている程度の仲でしかなかったのに、今ではこうしてクラスの誰よりも親密になっている。まぁクラスメイトが私と誠一と鉄郎しかいないのだから、あまり選択肢はないけれど。私はカバンを乱暴に床に預け、誠一を睨みつけた。
「そういうアンタこそ、明日には鉄郎になっちゃうんじゃないの?」
私も彼をからかったつもりだった。だけど私の横でその言葉を聞いた誠一は、黙って私の目を見つめるだけだった。その瞳の奥に映る暗い影に、私は今朝のお母さん鉄郎を思いだしゾッとなった。まさか―…。嫌な予感を振り払うように、私はわざとらしく大きな声を出した。
「冗談よ!冗談!…ヤだからね私、誠一が居なくなっちゃあ」
「分かってるよ…」
私に背中を叩かれ、無表情だった誠一がようやく苦笑いを浮かべた。同時に扉が開かれ、担任の鉄郎が渋い顔で教室に入ってきた。私と誠一とその他大勢の鉄郎達は私語を止め教壇へと向き直った。今日もまた鉄郎の、鉄郎による、鉄郎のための茶番みたいな学校生活が幕を明ける。
次の日の朝、私は目を覚ますと真っ先に鏡の前へと向かった。そこに写っている昨日までの私と同じ顔を見て、安堵のため息を漏らす。お母さん鉄郎が作った朝食を無言で胃にかっ込み、弟鉄郎がモタモタ準備をしているのを横目に私は今日も急いで学校へと向かった。早く誠一に会いたかった。別に私は鉄郎になってしまった私の家族を、嫌いになったワケじゃない。たとえ鉄郎でも、家族は家族だ。だけど鉄郎以外の成分が日常にないと、気が滅入って仕方がないのだ。
学校へ行く途中、昨日の朝の出来事をふと思い出して、不安が頭を過ぎった。
…誠一には黙っていたが、本音を言えば私も「いっそ鉄郎になってしまえば楽になるかもしれない…」と考えることがある。街中皆が鉄郎になった今、鉄郎じゃない自分の方が何故か異質な存在に感じてしまったりする。こうして通学路を見渡してみても、街行く人たちはみんな鉄郎、鉄郎、鉄郎ばっかりだ。多数決の論理とでも言うのか、こうして自分を保っている正常な方が、この街じゃ異常に映っていた。
それでも私が鉄郎を受け入れられないのは、誠一がいるからだった。彼一人を教室に残して私が鉄郎になってしまったら、何だか申し訳ない。鉄郎にも申し訳ないことを言うが、やっぱり私は鉄郎にはなりたくなかった。
だけど、それも何時まで続くのだろうか…?この世界じゃ私は私だと胸を張れなくなる日が、ある日突然やってくるかもしれないのだ。心を覆い尽くさんとする鉄郎への恐怖を振り払い、私は誠一の待つ学校へと急いだ。
「……?」
校門をくぐると、正面玄関の前にたくさんの鉄郎だかりができていた。私が黙って通り過ぎようとすると、一斉に鉄郎達が私に向き直った。私は思わずたじろいだ。
「な…何…?」
気がつくと玄関や後ろからぞろぞろと鉄郎達が私に向かって来ていた。まるでゾンビ映画さながらの光景だ。四方八方から迫ってくる鉄郎達に、私の体は小刻みに震えだした。一体何をしようというのだろう?鉄郎一人一人はどれほど強そうではないが、この数だ。じりじりと鉄郎の壁に距離を詰められ、私はその場に尻餅を付いた。逃げなければ。だけど、何処に?何処に逃げたって、もうこの世界には鉄郎しかいない。ダメだ。体が動かない―…。
「いやああああああああ!」
「美幸ッ!!」
私が叫び声を上げた瞬間、後ろからグイっと体を引っ張り上げられた。その人物は腰の抜けた私をおんぶしたまま、迫る鉄郎の壁の間を縫って学校中を走り回った。学校の中も、既に鉄郎でいっぱいだった。彼らの動きを上手く躱し、私を助けてくれた彼は上へ上へと向かった。私は背中に担がれたまま後ろを振り返った。たくさんの鉄郎達が、ぞろぞろと私達について来ていた。屋上にたどり着き、ようやく私は背中から下ろされた。彼が汗を拭き、私を振り返る。こんな状況で私を助けてくれる、そんな人はもう一人しかいない。クラスで唯一私を名前で呼ぶ彼―…。
真柴誠一の顔は、既に鉄郎になっていた。
「ひッ…!」
「美幸…!聞くんだ、俺はもうダメだ…ッ!」
目の前の鉄郎の顔が苦渋に満ちた。私は思わず尻餅をついたまま両手で後ずさりした。目の前の出来事を、信じたくなかった。
「そんな…!言ったじゃない!」
私は泣き叫んだ。これでこのクラスで「生き残り」は私だけだ。心の拠り所にしていた誠一まで、鉄郎になってしまった。
「すまん…ッ!俺はもう、鉄郎になっちまう…ッ!」
「ダメよ!貴方は、貴方は誠一なのよ!」
「美幸…お前だけでも」
そう言った瞬間ガクンッ!と誠一がその場に崩れ落ちた。悲鳴を上げるのも忘れ、私は涙を浮かべた目を丸くしてその光景を見つめた。やがてゆっくりと、誠一が顔を上げた。
彼と目が合った瞬間。私は確信した。暗く澱んだ瞳。誠一はもう、何処にもいなかった。
「いやあああああああああああああああああ!」
屋上を這いつくばって私は彼から逃げ惑った。よろよろと、新たな鉄郎が私を追ってくる。捕まったらマズイ。必死の思いで屋上の手すりまでたどり着き、私は身を起こした。
このまま鉄郎になって生きながらえるくらいなら…いっそ。
私は手すりから下を覗き込んだ。下にもたくさんの鉄郎たちが、地面を埋め尽くしていた。大勢の同じ顔が、私を見つめ返してきた。私は意を決した。
私は私のままで、死を迎えたい。
手すりから手を離し、私は彼らに向かって飛び込んでいった。
「はっ…!?」
と、そこで目が覚める。気がつくと私は見慣れた天井を見上げていた。朝の陽が差し込む部屋の中で、心臓の音がやけに大きく耳に響いた。背中にかいた汗がべっとりとシャツを濡らしている。とても嫌な、怖い夢を見ていた気がする。なんだか全国の鉄なんとかさんに申し訳ないような…。私はよろよろと起き上がり、階下へと向かった。ふと鏡を覗き込む。
私だ。正真正銘の私本人だ。
よかった、全部夢だったんだ。何にもなかったんだ。途端に私の心は踊った。上機嫌のまま朝食を取る。夢と違い鉄郎じゃない本物のお母さんは、何だかとても新鮮に見えた。
「行ってきます!」
浮き上がりそうなほど爽快な気分で、小走りに学校へと向かう途中…私はとうとう違和感に気がついた。
おかしい。
すれ違う人たちはみなそれぞれ別の顔だ。誰もが同じ仕草をしている訳でもない。まさかこの人たち全員に、死んだ人間の霊が憑依するなんて、そんな馬鹿げた話があるはずもない。だけど、後ろ姿を見ても全く見覚えのない赤の他人のはずなのに、何だか見覚えがあるような…。
「おはよう、美幸!」
その時、後ろから聞きなれた男の声が私を呼んだ。声だけでわかる。誠一だ。私は何だか嬉しくなった。
「「「「「「「「「「「おはよう!」」」」」」」」」」」
道行く人たちが、私と一緒に一斉に声の方へと振り返った。