俺とグズの出会い
人間が暮らす地上の遥か高く。
神や天使は雲の上から人間を見守ってくれている。
そんな話を聞いたことがあるでしょう。
ただ、お伽噺と少し違うところ。
それは……。
「よし」
彼は鏡を見ながら、おぼつかない手でネクタイを結んだ。
若干結び目がいびつなのはご愛敬だろう。
そんな事を考えながら、彼は身なりを整える。
真新しい濃グレーのシングルスーツに身を包んだ彼は、今日が初仕事だ。
金色の髪に、青い瞳。
頭の上には、銀色に輝く光の輪が浮いている。
そう、彼は天使だ。
ここ、地上人の住んでいる遥か空高くにある天界―ー地上人は天国といっている場所――に彼は住んでいる。
自室を出ると、隣の部屋の可愛らしいクマのオブジェが付いているピンク色のドアを3回ノックして、部屋の主に声をかける。
「そろそろ、行ってくる。ちゃんと寝てろよ」
中からは、乾いた咳とパタパタと小走りになっている足音が聞こえた。
カチャリとドアが開くと、そこからは彼と同じ金色の髪と吸い込まれそうな青い大きな目をした少女が顔を出す。
少女は彼を一目見ると、ぱぁっと顔を輝かせた。
「わぁ……おにいちゃん、かっこいいね。天使みたい」
彼は、少し困ったように微笑み、少女の額を優しく小突く。
「なぁに言ってんだ。天使なんだっつの……っと、ヤベ。遅刻するし、俺、行くわ」
慌てて仕事用の鞄を手にした彼は、バタバタと家を後にする。
時計を見ながら小走りで行く彼に、誰かが声を掛けた。
「ケーイ!!はよっす!!」
少し息を切らせて、ケイと呼ばれた彼の側に来たのは、茶色い髪がクルクルとした天然パーマの男だ。
「おー、はよ。ミケ、お前も同じ職場だったな」
その言葉ににこにこと嬉しそうに男は言う。
「もー、マジ奇跡!!お前みたいな首席合格じゃねぇけど、これで俺の天使人生はバラ色だー!!」
大袈裟にガッツポーズをして喜ぶ男、ミケを見て、彼は冷ややかな目で言った。
「つーか、お前ん家貴族なんだから、働かなくってもいいんじゃねーの?俺と違ってミカエルって大天使様と同じ荘厳な名前もあんだろーし」
そう。彼の名前は、ケイと言う名前ではない。
彼は、K1RA3(ケイワンアールエースリー)という番号持ちだ。
彼ら天使は、貴族や地位のある者しか名前が付けられていなかった。
彼のK1RA3と言うのも、産まれた地区と、その日何番目に産まれたかという番号でしかないのだ。
「何冷たいこといってんだよぉ!!俺は悲しいぜ!!ホントは俺と離れたら寂しいとか思っちゃうんだろぉ?」
と、いいながらミケは彼にのし掛かってくる。
そんな男の顔を力一杯避けた彼は、虫を見るような目で言った。
「マジでうざ。あり得んし」
「ケイは照れ屋さんだな~!いいんだぜ?俺の前では素直になっても」
両手を広げて彼を迎え入れる準備万端のミケを彼は放置し、すたすたと歩きだす。
「あっ!ケーイ!!待ってくれぇぇぇ!!!」
芝居がかったようなミケの声が、早足で歩く彼の背中を追いかけたのだった。
*******
「ここが、誓願省か……」
彼、K1RA3は目の前の白い大きな建物を見上げながら言う。
彼の職場、誓願省は、文字通り願いを叶える事を業務としている。
ただし、それは天使の願いではなく、下界で生活する人間の願いだ。
しかも、死に際の人間の。
天使は願いを叶えてあげ、悪魔――懲罰省の職員によって罰を与える。
どちらかになるかは、その人間の業によるのだが……どちらかを受けたその後、死神に魂を引き渡し再び再生させる。
それが魂の再生化。リサイクルシステムだ。
神様や天使が見守ってくれている。
下界には、そういう話があるようだが……はっきり言って、そんなの嘘っぱちだ。
天界は実に合理的に、システムにのっとり業務を遂行している。
「おお~!!これが俺たちの職場かぁ~」
呑気な声と共に、ミケが息を切らせて走ってくる。
K1RA3は、大きなため息を一つついた。
「さ、行くか」
そう言うと、ゆっくりと歩みを進めたのだった。
新入職員は、大きな白い部屋に集められていた。
皆、真新しいスーツに身を包んで、緊張した顔をしている。
彼らの正面にある壇上には、大きな白い翼を携えた上級天使たちが揃っていた。
その中には、大天使のミカエルもいる。
大天使ミカエルは、誓願省のトップだったが普段は神のおわすところに控えている。
こういった式典の際に、ここ誓願省に顔を出すのだった。
「なぁなぁ、ケイ。今日、誓願省の入省式だよな?何で懲罰省もいるんだ?」
ミケがこっそりと耳打ちする。
上級天使達の隣には、黒い翼と捻られた鋭い角の生えた悪魔たちも揃っていた。
「俺に聞くな。知る分けねーだろ、アホが。黙れ」
ミケの言葉に、彼は溜め息混じりに毒づいた。
「もー、ケイってば緊張しちゃってるんだな~。このー!可愛いやつめっ」
何を勘違いしているのか、ミケはにこにこしながら隣に座っている彼の頬をツンツンとする。
彼のこめかみに青筋が浮かんだ時、上級天使の声が響いた。
「皆さん、誓願省への入省おめでとう。本日付で皆さんは懲罰省の皆さんと二人一組のペアを組んで、重要な任務を遂行して貰います。誓願や、懲罰の意味を充分理解し―――…………」
上級天使の話はまだまだ続いている。
その時、彼、K1RA3は何かの視線を感じていた。
不思議に思って、視線の主を探す。
K1RA3の視線が、ある人物とぶつかった。
上級天使達が並ぶ一番前、其処には、大天使ミカエルがいる。
ミカエルは、K1RA3を見てにこりと微笑む。
天使の微笑みとは、正にこの事なのだろう。
「…………?」
彼は、ミカエルと視線を合わせたまま、疑問に思う。
それはそうだろう。
貴族でもない、ましてや番号持ちの彼には大天使所か、上級天使に会ったこともない。
カースト制の底辺にいる彼にとって、大天使などそれこそ雲の上の存在だ。
彼が思案に暮れていると、皆がざわめいた。
前に視線を送ると、壇上に黒い衣装を身に纏った悪魔が上がって行くのが見える。
ズルズルとした重そうな服、それは王族のみが着ることの出来るものだ。
(入省式に王族が来るなんて、大仰だな)
そんなことを思いながら、ぼんやりと上級天使の話を聞く。
「こちらにいらっしゃる、グレイン・アウストロ・ウィルスタイン・ジェルウィバーズ様は、大悪魔様の第三皇子であらせられます。より見聞を広げられるため、この度懲罰省に入省されました。それでは、ジェルウィバーズ様、どうぞこちらへ」
恭しく、上級天使が頭を下げる中、その男はマイクの前でゆったりと微笑んだ。
「初めまして、グレイン・アウストロ・ウィルスタイン・ジェルウィバーズです。この度、許可を頂いて懲罰省に入省することになりました。至らない事もあるとは思いますが、宜しくお願い致します」
腰までの真っ直ぐな黒髪と、アメジストのような紫色の瞳。
整った顔をした長身の彼は、誰が見ても高貴な生まれだと思うだろう。
「なー、誰とペアになんのかなー」
のんびりとしたミケの声がする。
「王族様のお相手は、どこぞのお貴族様辺りがぴったりだろ?」
式典最中に、何時までも五月蝿いミケに、たっぷりの皮肉を込めて言う。
そんな皮肉のこもった言葉を、ミケはにこにこと笑いながら返してくる。
「いーや、俺は違うと思うね。もしかすると、ケイ、お前とかだったりなー」
ミケの笑顔に、彼の背中はざわりとした。
「お前が言うと冗談に聞こえない」
ミケの予感はよく当たるのだ。
特に悪い事に。
「まー、俺らは新入職員だし、多分先輩方が組むんだろうけどなー」
呑気に笑うミケを他所に、彼は、再び溜め息ついたのだった。
*******
式典が終わり、ペアを組む悪魔との顔合わせをするため、彼は、ドアの前に立っている。
上級天使に指定された部屋番号は七。
ドアにかけられた番号を七と確認すると、一つ深呼吸をして扉をノックした。
「失礼します」
かちゃりとドアを開けると、そこには大きな黒い塊―――否、先程壇上で見た悪魔界の皇子がいた。
「あっ……」
K1RA3の顔を見て、にこりと人懐っこい笑顔を見せる彼を残し、K1RA3はゆっくりと扉を閉めた。
(………これは、何かの間違いだ)
頭がくらりとした。
だが動揺する一方で、入省式で大天使が彼に微笑んだのは、こう言う理由だったのか。と、冷静に考える。
こう言っては何だが、K1RA3は大層な思いがあって誓願省に入省したわけではなかった。
ここが真っ当な中で一番金が稼げる。
ただ、それだけの理由だ。
金があれば名前も買えるし、病気の妹の薬も手に入る。
だから、なるべく穏便に仕事をしたい。面倒な事には関わりたく無いのだ。
その時、かちゃりと扉が開いた。
「あなたが私のペアの人かな?……あれ、でも、男の人って聞いてたんだけど……」
上から見下ろす視線に、K1RA3の眉間に皺が寄る。
わざとらしく咳払いをしたK1RA3は、部屋に入り後ろ手にドアを閉めた。
「俺……私は、男です」
彼が間違えたのも無理はない。
K1RA3は、とても整った顔立ちをしている。
清楚に短く整えられた金色の髪は、さらりと風になびく度に輝き、青い瞳は、まるでサファイアのように美しい。
そして、K1RA3は男という性別の割には、背が低かった。
それがK1RA3の最大のコンプレックスなのだ。
「あ……っ、ごめんね。私、そそっかしくて……」
えへへ、と笑う彼をK1RA3は心の中で睨み付ける。
「じゃあ、改めて……」
そう言いながら、彼は強引にK1RA3の両手を握りしめた。
「私は、グレイン・アウストロ・ウィルスタイン・ジェルウィバーズだよ。よろしくね」
にこにこと嬉しそうに笑う彼を見上げながら、K1RA3は無表情だ。
「……えっと……あなたのお名前は?」
必要以上に長い名前を持つ彼が、K1RA3の気に障るのは言うまでもない。
それでも、金を稼ぐためにも問題を起こしたくないK1RA3は、毒づきたい気持ちを必死に我慢して言う。
「私には、名前はありません。あるのはK1RA3という番号だけです」
その言葉に、彼は目をパチパチさせる。
「うーん、そうなんだね……うーん……K1RA3かぁ……」
ぶつぶつと呟きながら何事か思案する彼を他所に、K1RA3は溜め息をついた。
「あ……っ!!私、いいこと思い付いちゃった!キラ!あなたの名前、キラにしようよ!」
「…………はぁ?」
思わず、声が溢れた。
『どうだ!』と、言わんばかりに胸を張り、キラキラと瞳を輝かせる彼とは正反対に、K1RA3の眉間の皺は深い。
「だってね?あなたの髪も、瞳もキラキラしてるし……K1RAってキラって読めるし……私、ナイスだよね!」
「キラ……ですか」
ぼそり、とK1RA3――キラの低い声が溢れる。
自慢ではないが、彼の今までの人生、キラキラと輝いたことなど一度もなかった。
父親は誰だかわからない。母親は、妹を生んで直ぐに死んでしまった。
いつもギリギリの生活をして、金の為なら何でもしてきた。
番号持ちであるということだけで、いわれない扱いを受けたこともある。
そんな自分をキラと呼ぶ目の前の男は、当然の事だが何も知らずに嬉しそうに笑っていた。
『もう、帰ってしまおうか』
そんな考えが頭をよぎる。
だが、すぐに妹の顔が浮かんだ。
言いたい言葉を飲み込んで、キラは我慢する。
握りしめた拳は、震えていた。
「あ、じゃあね!あなたも私に名前って言うか……あだ名、つけてほしいな」
「あだ名……ですか」
「うん、そうだよ。私の名前、長くて呼びにくいでしょう?だから、ね?」
大きな図体、真っ黒い髪、紫色の瞳をした彼は、大きな期待を込めて瞳を輝かせる。
「あっ、それとね?敬語、止めて欲しいんだ。何てったって、私たちはペア!パートナーなのだからね!!」
「はぁ……」
大袈裟な立ち居振舞いをする彼を見て、キラは溜め息をつく。
ミケしかり、何故自分の周りには、こういうタイプがよってくるのだろう、と思った。
しかし、王族には逆らわない方が無難だろう。
金の為にも、キラは自分につけられた名前にも、注文の多い目の前の悪魔にも目を瞑り、彼のあだ名を考えることにした。
(悪魔なのに、全然それっぽくない。見た目は整ってるが……言葉使いも、何だかとても……)
じいっと見つめるキラの視線に、彼は、照れたように微笑む。
そして、いきなり立ち上がり、ズルズルと長い裾を踏みつけて―――転んだ。
「痛ぁ……」
思い切りぶつけたらしい尻を擦りながら、彼はまた照れたように笑った。
(………鈍臭い……)
思わず、眉間に皺が寄る。
「わかった……。じゃあ、普段と同じ様にさせてもらう。あと、あだ名だけど」
笑顔を見せず言うキラに、ぴょんと起き上がり立つ彼はわくわくした気持ちを押さえきれないようだ。
「これから、あんたの事ー―……」
「うんうん!!」
にこにこと笑みを崩さない彼に、キラは苛立った。
自分には、何も楽しいことなどなかった。
余裕もなく、いつも妹を守る為に必死だったからだ。
そんな自分とは正反対の存在を前に、キラは少し意地悪をしたい気持ちが沸き上がっていた。
「―――――グズって呼ばせてもらう」
彼のにこにこ顔が、ピタリと止まる。
(あ、やっぱり怒る……か?)
何も言わない彼を見て、少し不安を覚えたキラは訂正しようと口を開こうとした、その時ー――。
「わぁ……!私、あだ名って初めてだよ!とても嬉しい!ありがとう!」
にこにこ顔が、キラキラに変わる。
彼、グズは本心から喜んでいるようだった。
キラの両手を握りしめブンブンと上下させるグズ。
「あ、の……いいのか?……グズで」
自分で言い出したことなのだが、どうせ拒否されるだろうと思っていたキラは、困惑した。
そもそも悪戯心で言っただけで、王族をグズなんて呼ぼうとは微塵も思っていなかったからだ。
「勿論だよ!ああ~!!嬉しい!」
パタパタと身体を動かし、本当に嬉しそうなグズを見て、キラは思わず笑みを溢した。
その様子を見て、グズは更に顔をキラキラと輝かせた。
「あなたの笑顔、初めてだね……キラ、笑っていた方がずっと素敵だよ」
そう言って微笑むグズの顔は、とても眩しかった。
「………っ」
キラは、顔が熱くなるのを感じる。
こんな経験は、初めてだった。
キラは動揺し、グズの視線から逃れるようにして俯く。
「キラ……どうしたの?」
グズは大きい身体を曲げてキラの顔を覗く。
「何でもねぇし……ってか、近いって!」
グズの顔を力一杯避けたキラは、未だ赤い顔のまま、精一杯の強がりをする。
「ふふ……顔、赤いよ」
そう言って、グズは妖艶に笑った。
その顔を見て、キラは、思い直す。
(こいつ、本物の悪魔、だ……)
キラは後悔した。
ああ、やっぱり帰れば良かった。と。
にこりと笑うグズは、嬉しそうに言った。
「これから、よろしくね、キラ」
差し出された右手を見つめ、キラは得体の知れない不安を取り払うようにして、引きつった笑顔を浮かべたのだった。