序章
どこまでも青く澄み渡る天空、だった。
体を動かそうと力を入れた途端、全身に痛みが走り口から呻き声が洩れる。
朦朧としていた意識がはっきりしてきたのか、ぼやけた視界が徐々に鮮明になり、鳴り響いていた耳鳴りが治まっていく。
「――こ――ろせ、さっさと牛魔人に殺されちまえ」
「ばかやろうっ! 俺は手前らに賭けてんだぞ、さっさと魔物を殺しやがれ!」
「悪党のくせしてビビってんじゃねえぞ!」
耳に聞こえるのは言い争うような叫び声と、聞くに堪えない罵詈雑言。背中に広がるザラリとした砂の感触に気持ち悪さを感じながら、痛む体を押して立ち上がろうとする。
だが、立ち上がった途端に酷い眩暈を感じて、彼は思わず膝を付いた。
「ひ、ひぃーっ! た、助けてくれ、助けてくれーっ!」
「ば、馬鹿、こっちに来るんじゃ――ガッ!」
地面に膝を付きながら眩暈が治まるのを待っていると、地の底から響く獣の咆哮と助けを求める悲鳴が聞こえて、彼は慌てて悲鳴のした方へと視線を向けた。
魂すら震えそうなミノタウロスの咆哮に当てられたのか、囚人の一人が恐慌をきたしてミノタウロスから背を向けて逃げようとする。
しかし、突進してきたミノタウロスの角に引っかかり、他の囚人もろとも壁に叩きつけられて、真っ赤な壁のレリーフへと成り果てた。
「娘の仇だ。苦しみもがいて死ね、悪党!」
「畜生、今回の賭けは負けかよ。くそっ、ついちゃいねえぜ……」
「何言ってんだこのタコ、まだ囚人が居るじゃねえか。魔物で立ってるのは、あの牛魔人しか居ねえんだぞ」
それを見ていた観客は沸くような歓声を上げて、殺伐とした闘技場内の熱気をさらに盛り上げていく。
その熱気に当てられたのか、咆哮を上げたミノタウロスは血走った眼で次の獲物を見定めると、血に染まった戦斧を振りかぶりながら、生き残っていた三人の囚人へと襲い掛かった。
最初の標的にされた一人目の囚人は、恐怖からか身動きすらできずに、戦斧に薙がれて身体が上下に別れる羽目になり、二人目の囚人も、返す斧で肩より上を吹き飛ばされて血煙を上げる。
そして残った最後の囚人は、両手の中に作り出した炎の玉をミノタウロスに向けて撃ちだした。
撃ちだされた炎弾は、寸分違わず吸い込まれるようにミノタウロスに直撃する。それを見た囚人は表情を明るくするが、煙の中からぬっと現れた煤けた牛顔を見て絶句した。
「――ハ、フハハ……ヒャハ、ヒャハハ、フヒャハハハハッ!」
肩で息をしているミノタウロスを見た囚人は、目を見開き表情を引き攣らせて笑い始める。
突然笑い出した囚人をミノタウロスは興味深そうに見ていたが、やがて興味を失ったのか戦斧を振り上げると、雄叫びを上げながら囚人めがけて戦斧を振り下ろした。
あっけない最期を迎えた囚人に対し観客席から罵声が飛ぶ。最後の囚人を頭から真っ二つにしたミノタウロスは、観客席から巻き起こる罵声や歓声の中、勝鬨を上げるかのように戦斧を掲げていたが、唐突に掲げていた戦斧を降ろすと、今度は彼に視線を向けて威嚇するように咆哮を上げた。
「……楽しみは最後に取っておくってか、牛野郎め」
闘技場に散乱する囚人や魔物の死骸を見回しながら、彼はぽつりとつぶやく。そのつぶやきが聞こえたのかは分からないが、ミノタウロスは握りしめた戦斧を振り上げると、咆哮を上げながら突進してきた。
「来い、相手になってやる!」
彼は両手に発生させた炎を剣の形に変化させると、気勢を上げながら炎の双剣を構える。
炎の双剣を構える彼の姿を認めたミノタウロスは、突進のスピードをさらに上げると、己の間合いに彼が入った瞬間、振り上げていた戦斧を力強く振り下ろした。
突進による勢いと戦斧の重量、そしてミノタウロスの強力が合わさって生み出された破壊力は、そのまま轟音とともに闘技場内に砂煙を巻き上げる。
そして巻き上げられた砂煙が晴れた後には、戦斧を振り下ろしたままのミノタウロスと、斜めに交わらせた炎の双剣で戦斧を受け止めている彼の姿があった。
「ぐっ、ぐううぅぅぅっ!」
炎の双剣で戦斧を受け止めた体勢のまま彼は苦呻を漏らす。
その苦呻に気をよくしたのか、ミノタウロスは口元をニヤリと歪めると、体格差を活かして彼を押し潰さんと己の体重をかけていく。そしてその重さに耐えきれなくなったのか、彼はがくんと地面に片膝をついた。
そんな彼の姿を見て勝利を確信したのか、ミノタウロスは無駄な足掻きをする小さき獲物を真っ二つにせんと、鼻息を荒くしてさらに体重をかける。
だが、もう少しで戦斧が彼の頭部に届くかというところで、戦斧はピクリとも動かなくなった。
「……ぐっ、があああぁぁぁーっ!」
暫しの間、まるで拮抗したかのように炎の双剣と戦斧の鍔迫り合いが続いていたが、徐々にミノタウロスの戦斧が押し返され、勢いよく弾き上げられた。
「ブモッ!」
「いやあぁぁぁっ!」
己の戦斧が弾き上げられた事に理解が及ばなかったのか、ミノタウロスは驚愕の声を上げて動きを止める。その隙を突くように彼はミノタウロスの懐に潜り込むと、炎の双剣を合わせて無防備な脇腹を切り裂いた。
そしてそのままミノタウロスの脇をすり抜けると、彼は反転して再び斬りかかろうとする。
「ブモオオォォォーッ!」
「くっ」
だが、悲鳴じみた咆哮を上げたミノタウロスはそうはさせじと、脇腹を押さえたまま振り向きざまに戦斧を薙ぎ払うように振るう。それを躱そうと彼は咄嗟に後ろへ飛び退くが、そこへ追撃するかのようにミノタウロスは戦斧を振り下ろした。
轟音とともにミノタウロスを中心に砂煙が巻き上がる。
戦斧を構え直したミノタウロスは砂煙が晴れるのを待っていたが、唐突に鳴り響いた炸裂音とともに、ミノタウロスの周囲に砂煙が巻き上がった。
これを己が対峙している小さき獲物の仕業と判断したミノタウロスは、戦斧を握りしめると辺りを睥睨するかのように視線を動かしていたが、突然砂煙の中から飛んできた剣に左目を貫かれた。
悲鳴を上げたミノタウロスは潰れた左目を押さえながら戦斧を振り回す。その間にも、砂煙の中からは闘技場内に落ちていたと思しき剣や槍などが飛んでくるが、ミノタウロスが振り回した戦斧に弾き落とされるか、分厚い皮と筋肉に阻まれて地面に落ちていく。
やがて投げる物が尽きたのだろうか、今度は砂煙の中から炎弾が飛んできた。
飛んできた炎弾が足元で炸裂したと思いきや、明後日の方角で炸裂音を轟かせて砂煙を巻き上げたり、いきなり体に直撃して皮膚を炙られたりと、狙いを定めているのか疑いたくなるような精度で、砂煙の中から炎弾が飛んでくる。
「ブモアアァァァーッ!」
砂煙に紛れて一方的に攻撃される状況に耐えかねたのか、怒りの咆哮を上げたミノタウロスは右手で戦斧を振りかぶると、炎弾が飛んでくる方角に向かって突撃を開始する。
だが、前から飛んできた数発の炎弾が右肩に命中して炸裂すると、その衝撃でミノタウロスは戦斧を手放してしまう。
悲鳴を上げて右肩を押さえるミノタウロスだったが、すぐさま地面に落ちた戦斧を左手で拾おうとする。そこへ数発の炎弾が撃ち込まれてミノタウロスは大きくよろめくが、さらに追い打ちをかけるように炎弾が直撃して、ミノタウロスはよろめきながら地面に倒れた。
やがて闘技場に舞っていた砂煙が晴れると、彼は倒れ伏したミノタウロスに近づいていく。それに気が付いたのかミノタウロスは起き上がろうと身動きをするが、すでに己が巨体を起き上がらせるだけの力も残っていないようだった。
ミノタウロスは鼻息を荒くして近づいてくる彼を血走った眼で睨みつける。その眼光に彼は一瞬足を止めるが、何事もなかったかのように歩を進めてミノタウロスの前に立った。
「……悪いな」
そう言って――彼は両手を握り締めて炎の剣を発現させると、ミノタウロスの頭めがけて炎の剣を振り下ろした。
※
闘技場を静寂が支配していた。
その原因たる人物はミノタウロスの骸の前で、血と砂埃にまみれながら肩で息をしている。
(……何とか、生き残ったか)
目の前に転がるミノタウロスの巨体を見て内心そう思いながら、彼は周囲に視線を向けた。
血を吸って所々朱に染まった闘技場内に見えるのは、囚人と魔物だったであろう肉の塊だけ、それらを視界に収めながら彼はふと空を見上げた。
視界に広がるのは青く澄み渡る天空。風が吹いているのだろう、空に浮かぶ雲が流れるように動いていた。
(いいよなぁ、雲は自由で……)
空を見上げたままそう思っていると、突然風切り音とともに肩に衝撃が走り、彼は前のめりに地面に倒れこんだ。
(な、なんだ……?)
彼は内心そう思いながらすぐに起き上がろうとして、左肩に激痛が走る。思わず右手で押さえようとするが、左肩に妙な違和感を感じて視線を向けた。
彼の視界には、一本の矢が左肩を貫くように突き刺さっている。そして矢が飛んできた方向へ視線を向けると、金属鎧に身を包み弓を構えた兵士達が、闘技場を包囲するかのように展開していた。
「なんだよ、これ……」
闘技場を包囲する突然現れた兵士達を眺めながら、彼は呆然とつぶやく。そこへ静寂を破るように闘技場に濁声が響き渡った。
「これは、神の裁きである!」
突然聞こえてきた濁声に闘技場内の全ての視線が集まる。
闘技場の一角。そこから闘技場全体が見渡せる王侯専用の特等席に何時の間に現れたのか、白地に金の刺繍の入った司祭服を纏った一団が、華美な装飾が施された白銀の騎士達に護衛されて立っていた。
「彼の者は神をも畏れぬ大罪を犯した重罪人である! それは何故か! すでに諸君は気が付いているはずだ!」
その一団の先頭に立っている太った中年男が、先端に双槌の装飾が施された司教杖を掲げて高らかに言い放った。
「そう、どこの世界に十にも満たぬ子供がミノタウロスを倒せるであろうか! そうである、世界中どこを探したとしても存在しないのだ! ……人間であるならば!」
そう言って闘技場にいる観客と一つ一つ視線を合わせるように太った中年男は顔を動かす。そして、闘技場から太った中年男を見上げている彼と視線を合わせると、掲げていた司教杖をおもむろに振り下ろして彼を指し示した。
「諸君、考えてみよ! 諸君らが彼の者の歳頃は如何な子供であったか! そしてその頃の自分が、ミノタウロスを前にしてああも冷静に、そして見事に立ち回れるか! それに比べ、彼の者の戦振りは見事である! 砂煙を巻き上げて視界を攪乱し、相手に炎弾を撃ち込む所業、まさに見事なり!」
そう言って太った中年男は、司教杖を立てると無念そうな表情を浮かべて首を振った。
「……しかし、十にも満たぬ子供にそのような所業が出来るはずがない。そう、彼の者は姿形は人の子でも、中身は人の子に非ず! 彼の者は入れ替わったのだ、我らが未来を託すべき子供を殺し、我らの繁栄と安寧を脅かす魔族と!」
「な……っ!」
さも無念そうに太った中年男がそう言った途端、観客席から罵声が飛び、闘技場に物が投げ込まれる。
この状況に彼は、ガツンと頭を殴られるような衝撃を感じて口をパクパクとさせていたが、やがて身体の底から熱いものが急激に込み上げてくるのを感じた。
その間にも、闘技場に轟く聞くに堪えない罵詈雑言の嵐の中、太った中年男の濁声が頭の中に響くように聞こえてくる。
「諸君! 光の女神アーリアに愛されし親愛なる諸君! このような残酷なる所業を許しておいてよいのだろうか! 私は許せぬ、未来ある子供を弑し、その皮を被りし醜悪なる悪鬼に裁きの鉄槌を下そうではないか!」
「っ、ふざけんなあっ!」
彼はそう叫び声を上げながら立ち上がると、残った全ての魔力を右手に結集させて炎の槍を形成する。そしてそのまま右手を振り被ると、太った中年男に向けて炎の槍を投げ飛ばした。
投擲された炎の槍は寸分違わず太った中年男に向かって直進していく。
だが、炎の槍は内包された殺傷力を発揮する前に、太った中年男の目の前で何かに阻まれたかのように、火花を散らしながら動きを止めた。
「なっ!」
渾身の一撃を止められたことに彼は驚きのあまり目を見開いて固まる。
何かに阻まれた炎の槍は火花を散らしながら徐々に小さくなっていき――やがて、火の粉を残して消滅した。
「嘘、だろ……?」
そう言って力を使い果たしたのか、彼はその場に膝を付いたまま信じられないといった表情を浮かべる。
「お爺様に何をするのっ!」
そこへ姦しい少女の声が闘技場内に響き渡ると、空から一条の雷が彼めがけて落ちてくる。全身に走る激痛に甲高い悲鳴を上げると、彼は全身から湯気を出しながらその場に崩れるように倒れた。
「おお、光の女神アーリアよ、ご照覧あれ! 女神の名の下に災いを齎す魔族を我らが手で葬らん!」
群衆の興奮が最高潮に達したのか、観客席のあちこちで気勢が上がり、熱気が巨大なうねりとなって闘技場を渦巻くなか、彼は仰向けに倒れたまま何ともいえない表情を浮かべていた。
(こんな……こんな、ことが……)
そして、闘技場を包囲していた兵士達から放たれた矢雨が彼の体を貫いた。
全身に走る激痛と薄れていく意識の中、彼の瞳が最後に映したのは、青々とした天空と何処からか風に乗って飛んできた一枚の“白い羽根”だけだった。