ラスト・ラブ
【あらすじ】
『今年も出ないのか、同窓会』
そんな誘い文句と共に、高校時代の同窓会幹事であり、親友でもある大翔から来る年一回の連絡が、拓海にはひどく苦痛だった。
しかし、夏も近いその年の六月にセッティングされた同窓会に、拓海は出席を余儀なくされる。
そこで拓海は、憂鬱の原因であるかつての恋人・深雪と再会して――。
※コバルト短編賞応募作('14年2月締切分)を加筆修正したものです。
【注意】悲恋 バッドエンド ある意味ハッピーエンド
『なあ。今年も出ないのか、同窓会』
そんな電話が同級生で幼なじみの大翔から掛かって来たのは、短い春をすっ飛ばすようにして蒸し暑くなり始めた六月のある日のことだった。
地球温暖化が叫ばれ始めたのがいつだったか、拓海にはもう覚えがない。
けれど、最近は、日本でもまともに春と秋を感じられる期間が短くなっていることだけは確かだ。
「うん……まあ」
余所の高校がどうか知らないが、拓海の出身校は、成人式のあった年から毎年のように同窓会が開かれている。三年生の時のクラス会で、今年は五回目の筈だ。
夏生まれの拓海は、クラス会のある八月には二十五になっている。
幹事になった大翔は、近況報告も兼ねた世間話の序でもあるのか、拓海にだけは毎年電話で出欠の確認をする。いつも「ノー」の返事をするのが申し訳なくて、去年掛かって来た時は、もう自分に声を掛けてくれるなと頼んだのだが、面倒見のいい性格の大翔には難しい課題だったようだ。
『そうか……やっぱり、アレか。片桐のことが引っ掛かってるからか』
面倒見のいい反面、ちょっと無神経だなと思うのはこんな時だ。
『片桐』という名前に反応して、胸の奥の古傷が疼く。
高校を卒業してから既に七年が経とうとしているのに、拓海は未だに彼女を忘れることが出来ていない。
「別に……関係ないよ。ただ、その頃はウチの職場って結構忙しいから、暇がないだけだ」
嘘は言っていない。
拓海が大学卒業後、運良く就職できたのは、大手のリゾートホテルだった。ホテルと言えば、イコール長期休みは書き入れ時。休みたいなんて、口が裂けても言える筈がない。
しかし、大翔が放った次の言葉は思いも掛けないものだった。
『じゃあ、今年は出られるな』
「は?」
『今年はいつも出られない奴の仕事場のリサーチとかして、何とか皆が都合付けれるように考えたんだ。って言っても、それでも出られない奴もいるだろうけどさ』
「おい、どういう意味だ?」
『今年は、六月にやることにしたんだ。だから声掛けてみた。急で悪いけど、来週の日曜、空いてるか』
咄嗟に声が出なかった。
間の悪いことにその日は休日だ。
『空いてるんだな。あー、良かった』
「おい、大翔」
俺はまだ出るなんて言ってない。っていうか、そもそも空いてるとは一言も言っていない。
しかし、そこは長い付き合いだ。沈黙にどんな意味があるかなんて、自ずと相手には解ってしまうらしい。
『出席扱いにしとくからな。必ず来いよ』
「ちょっと待て! 俺はまだ――」
だから行くなんて言ってない!
そう続けようとした言葉は、通信の切れる音に空しく遮られた。
***
「よー、拓海!」
同窓会当日。
大翔から後日送られて来た招待状の地図を頼りに、都内にある大手カラオケ店のパーティールームに顔を出すと、大翔が満面の笑顔で手を振った。
(ったく、人の気も知らないで)
急に用事が入ったと、知らぬ振りで欠席することも出来たが、拓海は元来そういう『嘘』が吐けない性分だった。欠席したらしたで、後日大翔から確認の電話が来るのは、火を見るよりも明らかである。その時の言い訳を考えるのも面倒で、迷った挙げ句に、少し顔を出すだけで帰れば良いと、無理矢理自分を納得させた。
「来てくれたんだな」
「何言ってんだよ、強引に来させたクセに。悪いが俺はもう帰るからな」
「そう言わずにちょっとゆっくりしてけよ。片桐ならまだ来てないし」
関係ない、と言い切るのは不可能だった。
拓海は、彼女と顔を合わせない内に帰りたいのだから。
「それにさ。今なら彼女とヨリも戻せるぜ?」
「何言って」
「未練タラタラだから、彼女と顔合わせたくないんだろう?」
拓海は、沈黙を返した。
確かに、彼女のことは今も忘れられない。忘れられないからこそ、未だに独身なのだ。
正確に言えば、離婚歴アリだ。社内の政略結婚的なもので断り切れず、止むなく一緒になった妻とは、一年で別居し、程なく離婚した。
元妻との間に子供はない。そういう行為に及べなかったのだから、授かるものも授かる筈がなかった。それが離婚する時、唯一良かったことだと、拓海は思っている。
けれども、大翔の言うように、片桐深雪と元サヤに納まることは到底出来ない。そう出来ない事情があった。
「とにかく勘弁してくれ。俺はもう帰るから」
感情の籠もらない声が出たのは拓海の意思ではなかったが、流石に大翔も何かを感じたのだろう。
「……そうか。じゃ、また連絡するよ」
と言って、肩に回していた腕を解いてくれた。
心底ホッとして、片手を上げるだけでそれに答えると、拓海は踵を返す。
だが、パーティールームを出た途端、足が凍り付く羽目になった。
視線の先にいたのは、件の片桐深雪その人だったからだ。
深雪の方も、大方似たようなもので、表情を凍り付かせている。その顔色は、既に白くなっていた。彼女の隣に、大翔の妻である佐古下佳世子が連れ添っているところを見ると、もしかして夫婦で示し合わせたのかも知れない。
(……っとに余計なことを)
内心で舌打ちして、彼女達の脇を無言で通り過ぎようとする。
しかし、似た者夫婦というべきか、佳世子が拓海を逃さなかった。
「待ってよ、鈴木君」
声だけで呼び止められたのなら、拓海は無視しただろう。けれど、それを見越していたのか、佳世子は呼び止めると同時に、拓海の腕を捕らえていた。
「折角会ったんだから、話くらいして行ったら?」
「……榊と話すことなんてないぞ」
佳世子の言わんとするところは即座に察したが、拓海は敢えてすっとぼけた。ちなみに、『榊』というのは、佳世子の旧姓だ。
「そうじゃなくて!」
だが、佳世子は、それを許さなかった。
彼女は、よく言えば真っ直ぐだが、悪く言えば空気が読めない。自分が正しいと思ったことは、彼女にとってはイコール『世界の常識』であり、全ての人間が守るべき義務なのだった。
「大翔と私が苦労してセッティングしたんだから、別れるにしてもちゃんと話し合えって言ってんの! それに、お互い連れ合いとは離婚済みでしょ? 何も問題ない筈よ」
拓海は、微かに目を見開いて、深雪を見直してしまった。深雪が結婚していて離婚していたことも、拓海は知らなかったのだ。
一方の深雪は、拓海と顔を合わせた時とは別の意味で顔を蒼白にして、俯いた。彼女にとって、その遍歴は知られたくないことだったらしい。
(ったく、本当に余計なことを)
佳世子という女性は、どこまでも人の気持ちが読めない人間だ。
自分基準の『正義』を振り翳し、周囲を不快に陥れる人間は、一つの集団に一人はいるものだが、拓海の高三時代のクラスの中の一人はこの佳世子だと言って間違いはない。
大翔もよくこんな女を連れ合いに選んだものだと、彼の今後に密かに同情しながら、拓海はこれ見よがしな溜息を吐いて見せた。
「問題がないかどうかは俺達二人の決めるコトだ。俺達はもう終わってる。お前らに限らず、他の誰にもとやかく言われる筋合いはねぇ」
「なっ……人が親切に言ってやってんのに!」
「そーいうのを巨大なお世話だって言うんだよ」
佳世子は目に見えて歯軋りする。
この後をどうするべきか、彼女は散々逡巡したようだったが、やがて幼い女の子がそうするように『ふん!』と思い切り鼻を鳴らして踵を返した。
後には、どうしていいか判らない深雪と、最高に気分を害した拓海が残される。
拓海も、黙ったままエントランスホールを後にしようとしたが、不意に後ろから袖を引かれて振り向いた。
「あの……」
高校の卒業より少し前以来――七年振りに聞く声音は、自制するより先に耳に入り込んで来て、聴覚を犯す。
「少し、だけ……話せない?」
「…………」
駄目だと、言わなければ。
理性はそう警鐘を鳴らしているのに、声が出ない。
少しでも何でも、話など出来ない。してはいけない。触れれば終わりだ。少しでも彼女の息遣いを傍に感じてしまったら――
(……いや、違うな)
終わりなら、とっくに通り過ぎた。
五分程前に、思わぬ再会を果たした、その時に。
互いにとっては、その姿を目にすることそのものが、毒であったことに変わりはない。このまま別れるには――封印をし直すには、遅すぎた。
こんなことになるなら、言い訳を考えるのを面倒がらずに、来なければ良かったのだ。
「……ごめん、ね。じゃあ、あたしも帰るから」
長すぎる沈黙を、『ノー』と解釈したのか、深雪が袖を掴んでいた手を離す。
そのまま、彼女を見送れば良かったのかも知れない。しかし、本能は理性を振り切って、その腕を掴み返していた。
***
「元気そうで良かった」
カラオケ店を出た後、二人はその近くにあるショッピングモールの中にある喫茶店に入った。
互いにオーダーした紅茶とコーヒーが運ばれて来て、暫くは無言だったが、先に口を切ったのはやはり深雪だった。
「……そっちもな」
答えるように短く返すと、コーヒーにミルクだけを入れて口に運ぶ。
「……色々、あったみたいだな」
「そっちもね。結婚してたの?」
踏み込んで欲しくないところへ踏み込まれて、拓海は覚えず苦虫を噛み潰した顔になる。
しかし、別れた恋人が相手だと思うからいけないのだと、ふと気付く。深雪もそう思って、わざと無神経に振る舞っているらしい。
「……ああ。とっくに離婚したけどな」
相手は古い、ただの友人だ。
拓海は必死にそう言い聞かせながら、表面上は素っ気なく答えた。
「何年くらい?」
「一年持つか持たないかだったな。そっちは?」
「あたしも」
苦笑と共に、深雪はオーダーした紅茶に、砂糖とミルクをたっぷりと注いだ。
昔から彼女はそうだ。コーヒーでもミルクと半分くらいになるまで割って、砂糖を入れないと飲めないらしい。
拓海に言わせれば、『甘すぎてブラックのコーヒーか渋い日本茶を一緒に出して欲しい』ほどの味になってしまうが、彼女は、それが美味しいのに、と言って頬を膨らませていた。
(……ああ、やっぱりな)
彼女と顔を合わせていると、些細な仕草から芋蔓式に昔を思い出してしまう。
他愛のない会話。ささやかな放課後のデート。テスト期間中は勉強と称して二人で図書館に通った。
けれど、それは最早、彼女の飲む紅茶よりも甘い、毒のような記憶だった。
こんなに近くにいるのに、手を握ることすらもう許されないなんて。
(まあ、手ぐらいなら大丈夫だと思うけど)
触れたら最後だ。今度こそ自制が利かなくなって、行くところまで行ってしまうのは目に見えている。
そうならない為に、別れたのだ。
高校三年の終わり、卒業間近のあの頃に。
『あたし達、出会わなければ良かったのにね』
別れを決めたのは、一方的なことではない。
二人でとことん話し合って決めた。
その時に、彼女が泣き笑いで放った一言が、ふと脳裏をよぎる。
『愛している』も『大好き』も、彼女と別れた時に、涸れ果てた。きっと、彼女との恋愛に使い果たしてしまったのだ。
七年も離れていたのに、会えば切なくて、愛おしくて、抱き締めたくなる。
「ね、鈴木君」
不意に呼ばれて、拓海は改めて深雪を見た。
付き合っていた頃は名前で呼び合っていたが、別れた後は名字で呼ぶようになった。――現実を、忘れない為に。
「結婚したのって、いつ頃だったの?」
「就職してすぐくらいだったかな。二十三の時」
「そう。あたしもそれくらいだった」
離れてから五年後だ。
普通、別れて五年もすれば、古い恋の傷は癒えるだろう。まして、女性の恋路は『曲がり角』だという。
一つの恋が終わったら角を曲がる。曲がった場所から振り向いても、曲がる前の道は見えないから、古い恋を引きずらないという喩えだ。
「でも、無理だった。意外と忘れてないものよね。……どうしても、元夫を受け入れられなくて」
堪り兼ねて、深雪から離婚を申し出たのだと言う。
元夫は誠実な人間で、深雪の気持ちが落ち着くまで何年でも待つからと、そう言ってくれたらしいが、深雪には重荷でしかなかった。
別れた恋人をどうしても忘れられない、だから貴方に気持ちが向くことは絶対に有り得ないと説得を続け、やっと離婚が成立したのは一月前だった。
「……そっか。俺も似たようなもんだ」
クス、と自嘲の笑みが漏れる。
社内政略で結婚した妻を、どうしても女として見られなかった。
こういう時に、相手の機微を察するのは、女性の方が得意らしい。
『貴方の中には、他の女性がいるのね』
元妻は、皮肉っぽく言った。
『お見合いの席の時からそうだった。私に視線は向いていても、貴方の心はそこになかったのは知ってた。でも結婚すれば、いつか私を見てくれるんじゃないかと思ってたのに』
離婚を切り出したのは、元妻の方だった。
『今、三ヶ月なの』
元妻は、下腹部に手を当てて、悪びれもせずにそう言った。
『怒ったりしないよね? 貴方は私に指一本触れるどころか、目もくれなかったんだから』
そうだな、と返した。
相手はどこの誰だか知らないが、仮にも妻を寝取られたというのに、ショックすら受けなかった。これで離婚できると、元妻には悪いが心底ホッとしたものだ。
その後、拓海は地方の傘下ホテルへ異動になった。政略上の妻を離縁した一般人の男には当然の、事実上の左遷だったが、それすら拓海にはどうでも良かった。
抜け殻のようなこの人生から、もう生涯抜け出すことは出来ないのだ。なら、どこで働こうと、独り身になろうと同じことだった。
「……なあ」
「うん?」
「今からでも駆け落ちしちゃう?」
そう言うと、深雪は弾かれたように瞠目した。
一瞬の沈黙の後、彼女は小さく苦笑する。
「……あの時も同じこと言ってたよね」
「あの時?」
「高三の二月に、たまたま教室で二人きりになった時」
「あー……」
謀った訳でもないのに、締め切った空間で二人きりになった時があった。
あれを最後に、今日まで会うことはなかったのだ。
「よく理性切れなかったよなって自分に感心する」
「切れそうだったじゃない」
拓海は、覚えず顔を歪めた。
あの頃は、今よりも抜け殻具合がひどくて、納得ずくで別れた筈だったのに未練たらたらで、二人きりになれたのをこれ幸いとキスしたら、止まらなくなって。
「廊下の足音に気付かなかったら、最後まで行ってたよね」
「……うるせぇ、言うな」
付け加えるなら、恋人だった間も、二人は高校生に相応しい、今時珍しい『清く正しい交際』で、キス以上のことをしたことはなかった。
彼女の首筋に顔を埋めた途端、複数の人間が廊下を歩く足音に我に返って、気まずい思いをしたのも覚えている。
「そろそろ、帰ろっか」
そう言って立ち上がった深雪のカップは基より、拓海のカップも既に空だった。
これ以上ここにいる理由はない。
『少し話』もした。
拓海も立ち上がって、お互い自分の飲んだものの料金は自分で払って外へ出る。
「……なあ」
「ん」
「本当に、今なら間に合うぞ」
真っ直ぐに深雪の目を見据えて、拓海は口を開く。
「間に合うって何が?」
「お互い、抜け殻人生から抜け出す、最後のチャンスってコト」
深雪は、何とも言えない表情をして、口を引き結んだ。眉根を寄せた、泣き出す直前の瞳に、抱き締めてしまいたくなるが、それこそ理性を総動員して堪える。
彼女の返事のない今は、全部拓海の独りよがりに過ぎないことが、解っていたからだ。
「……全部、捨てることになるよ?」
ようやっと絞り出された彼女の声音は、瞳と同じように、泣き出す直前の震えるそれだった。
「……解ってる」
高校生だった時に、やはり自分は言った。
全部捨てて、駆け落ちしないかと。
あの頃は、彼女も多分そうだったと思うが、幼かった。覚悟などなく、ただ彼女と一緒にいたい気持ちしかなく、その言葉自体に酔っていたことも否定出来ない。
けれど、今は違う。
左遷されたとは言え、この不景気に、運良く就職できた職場を去り、家族や周囲に祝福も受けられず、息を詰めて暮らすことになるだろうと解っている。
「それでも、抜け殻のまま残りの人生を生きるよりマシかと思っただけだ」
「中身を取り戻す代わりに、他を捨てるの?」
「無理強いはしない。お前が嫌だって言うなら、俺も今まで通り抜け殻で生きるよ」
だから、ここで別れたらもう二度と会わない。少なくとも、自分の意思では。
そう言うと、彼女はくしゃりと顔を歪めた。
「ズルい男ね。あたしに全部選択させる気?」
「人聞き悪いな。選択肢を提示したってコトは、俺にだって覚悟はあるよ」
肩を竦めて言うと、深雪が堪り兼ねたように足を踏み出し、拓海の胸に飛び込んで来る。
「深雪」
「……一度だけ、抱いて。そしたら全部終わりにしよ?」
全部を、終わりにする。
その言葉の意味が解らない程、拓海も鈍くはない。
別れても、駆け落ちしても地獄ならば、この世で結ばれない恋人の末路は、古来、たった一つだけだ。
「本当に、いいのか」
しがみついた深雪が、はっきりと頷くのを確認すると、拓海は彼女の細い身体をしっかりと抱き返す。
人目など、気にならなかった。
これから、誰の謗りも受けずに済む場所へ、二人だけで『行く』のだから、俗世の恥は何とやらだ。
「深雪」
取り敢えず、キスさせて。
素早く耳元で囁くと、彼女の返事など待たずに、拓海は欲しくて堪らなかった彼女の唇を、自分のそれで塞いだ。
***
大翔の前には、遺影があった。
その手前で、細く白く立ち上る線香の煙がたゆとうている。
亡くなったのは、幼なじみで親友の、拓海だった。
と言っても、遺体はまだ見つかっていない。彼は、とある岬の断崖から、海へ身を投げたのだけが判っている。
彼からの最後のメールに気付いたのは、同窓会がはねた、翌々日のことだった。
そのメールには、その時彼らのいた場所と、感謝と謝罪だけが手短に綴られていた。
メールに気付いた大翔は、大慌てで拓海の住むアパートへ赴いた。しかし、当然誰も出なかった。アパートの大家に掛け合い、合い鍵でドアを開けて貰ったものの、蛻の殻だった。その場で拓海の実家へ連絡したが、やはり戻っていないという返事だった。
拓海のメールに記されていた岬へは、半日もあれば辿り着ける距離だったが、手遅れだった。
これから死のうという人間が、わざわざ靴を断崖に置いたり、何か手掛かりになるものを残したりは架空の物語の中だけのことかと思っていたが、そうでもないらしい、と大翔は思った。少なくとも、拓海の場合は。
岬のパーキングエリアに停まっていた拓海の車からは、遺書が発見された。
中身は、拓海の筆跡で、家族や友人知人に対する諸々の詫びと、死を選ばざるを得なかった経緯が書かれており、最後は謝意で締められていた。
「大翔君」
背後から声を掛けられて振り向くと、拓海の母親が盆を持って立っていた。
「ありがとうね。わざわざ来てくれて」
彼女は、大翔という来客の手前笑顔を浮かべてはいたが、その笑顔には隠し切れない憔悴と、陰があった。
「いえ……」
仏壇から離れて、大翔は茶が置かれた卓袱台の前に腰を下ろす。
「申し訳ありません。拓海が死んだのは、多分俺の所為です」
取り返しの付かないことをしたと知ったのは、拓海の遺書を見た時だった。
「俺……知りませんでした。あの二人が……姉弟だったなんて」
付き合い始めた片桐深雪と拓海と、大翔と佳世子の四人でダブルデートをしたのは、近いようで遠い、懐かしい記憶だ。あんなに仲が良かった二人なのに、どうして突然別れたのか、大翔にはどうしても納得出来なかった。
佳世子に話を聞いたところ、深雪も別れを選んだことについては納得ずくだったが、想いがなくなった訳ではないらしかった。拓海も同様なだけに、尚更、どうして別れねばならなかったのかと思った。
しかし、拓海も深雪も、理由を決して口にしなかった。
『仕方がないんだ』
苦しげに笑っていた拓海の顔を、昨日のことのように思い出せる。
「その理由が……こんなことになって、漸く判るなんて」
大翔は、膝の上に突いた拳を、グッと握り締めた。
拓海の母の手が、そっとその拳に重ねられて、大翔はハッとしたように彼女の方を見る。
「……気にしないで、とは正直言えない。どうして、あの子達を放っておいてくれなかったのって思わないと言えば嘘になるわ。でもね……元はと言えば、私達が悪かったの」
泣き出しそうな笑顔を浮かべて、拓海の母は続ける。
「あの子は……拓海はね。拓海の父親と別居して少ししてからお腹にいるのが判ったの。あの子が産まれてからDNA鑑定もしたから、あの子の父親は間違いなくあの人よ。あの人は養育費は出してくれたけど、結局離婚してね。久し振りに偶然会った時にはお互い年を取っていたし、わだかまりも消えていて……今度、食事をしようかって話になって、お互いの子も連れて行ったわ。あの人は、離婚の原因になった元愛人……その時には籍を入れて奥さんだった女性の子を連れて来てね。かなり複雑ではあったけど、その子に罪はないし、その時には愛人さんは既に亡くなっていたの。彼女との間に出来た娘さんは、拓海と同い年で、二ヶ月くらい誕生日が早いって聞いて、やっぱりちょっと複雑だったけど、そうしたら腹違いの姉弟ってコトになるのね……なんて言いながら約束したレストランに行ったわ」
「そこで会ったのが……片桐……深雪さんだった?」
「そう。二人とも事前に腹違いの姉弟が一緒に来るってコトは知ってたから、真っ青になってたわ。よくよく聞いてみたら、付き合ってるって言うじゃない。もう会わないようにって言ったって、同じクラスじゃ難しいし、でももう高校卒業も間近だったから、卒業して会わないようにすれば、自然と心も離れるだろうって……」
しかし、それは不可能だったのだ。
もし、拓海と深雪の親の思惑通り心が離れていたなら、拓海が七年もの間、あんなに抜け殻のような目をしていた筈がない。大翔に解っていたのに、母親である彼女が解らない筈がないと思う。
だからこそ、大翔は拓海にもう一度生気を取り戻して欲しくて、深雪ともう一度話をする機会を、無理矢理にでも作ろうとしたのだ。
しかし、それは決して、こんな結末を望んだからではない。
けれど、それを言っても、最早何もかもが遅すぎる。
静けさが戻った室内には、拓海の母が嗚咽する声が、途切れ途切れに落ちた。
それを聞きながら、大翔は、もう一度拓海の遺影を振り返る。
急過ぎる死に、咄嗟に準備できなかったのか、その遺影は高校の卒業アルバムから引っ張り出して来たように見える、ブレザー姿の写真だった。
『後悔はしていないんだ。産んでくれた母さんには本当に申し訳ないけど……生きている限り、どちらを選んでも地獄なら、生きている意味はないから』
その写真の中の笑顔が、遺書の一節を語っているかのように、大翔には思えた。
【了】