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その事務所、住所不定につき

【あらすじ】

『理不尽な困りごと、相談に乗ります』

 そんな謳い文句に不思議に惹かれ、名もない便利屋に雇って貰うことを決意した、芽依子(めいこ)

 不定期にネットの海に浮き沈みするこの便利屋に、それでも運良く辿り着いた依頼人が今日もやって来る。

 本日の客は、七十過ぎの老婦人。あるアルバムを捜し出して欲しいとの依頼を完了した便利屋の主人・高瀬蒼生(たかせあおい)が彼女に差し出したのは、本当に何の変哲もない普通のアルバムだった。

 疑問に思った芽依子が詳細を訊ねると、真相は本当に理不尽なもので――?


※この作品は、社会風刺のフィクションです。実在の人物・事件・出来事・法律その他と、一切関わりはありません。

※コバルト短編賞('13年12月締切分)応募作品を加筆修正したものです。

「……決まった事務所はないと伺っておりましたが」

「今日は別です。見られたら貴女もご都合が悪いでしょう?」

 眼鏡を掛けた、物腰柔らかな青年は、小ぢんまりとした建物の引き戸を静かに開けて、老齢に差し掛かった婦人を振り返る。その婦人は、見た目、七十過ぎくらいだろうか。年齢の所為もあるかも知れないが、どことなく顔色が悪かった。

 (もっと)も、戦前の状況に絶賛逆行中の日本では、一般人の栄養状態が悪いことなど、珍しくはない。

「どうぞ、こちらへ」

 青年は、出入り口すぐの部屋から、更に奥の間へと老婦人を(いざな)う。奥の間には、あまり豪奢とは言えないが、座り心地は良さそうなソファと背の低い応接テーブルが無造作に置かれていた。

「今お茶と……それから、ご依頼のありましたものをお渡し致しますので」

「はい……」

 勧められるままソファへ腰を下ろした婦人は、期待と不安と申し訳なさが応分に入り交じった表情で青年を見上げた。青年は、軽く会釈すると、一度その部屋から退出していく。

 やがて、青年と入れ替わるように、二十代前半に見える女性が、盆に紅茶と茶菓子を乗せて更に奥の部屋から姿を現した。ソーサーに乗ったティーカップを、婦人の前と、その向かいの席の前に置いて一礼すると、女性は無言のまま奥へと引っ込む。

 殆ど直後、青年が戻って来た。

 その手には、縦横五十センチほどの布袋を携えている。

 青年は、助手らしき女性が出した紅茶を、ソーサーごと一旦脇へ退けると、布袋から取り出したものを老婦人の前へ置いた。

「どうぞ。ごゆっくりご確認下さい」

 老婦人は、黙って頭を下げると、青年が差し出したものに手を伸ばす。

 布袋と同じ程の大きさのそれは、赤い無地の表紙が印象的な、古風なアルバムだった。ずっしりと重たいそれを膝の上へ引き寄せると、老婦人は表紙を開く。

 青年は、その様子を、紅茶を片手に見守った。

 アルバムをめくる老女の目に、光るものが滲む。

 青年が、ティーカップの中身を空ける頃、ようやく老婦人はアルバムの裏表紙を閉じた。

「ありがとうございます」

 潤んだ声音で言うと、老婦人はアルバムを大切そうに胸元へ抱き込むようにしながら深々と頭を下げる。

「では、それに間違いないですね?」

「はい……はい。ありがとうございます」

 老婦人は、何度も頷きながら、また礼を述べた。

「では、帰りはお送りします」

「いえ……でも」

 柔らかく微笑む青年に、老婦人は目尻に滲んだ涙を拭いながら、戸惑った声を返す。

「そのアルバム、随分重たいですよ。公安も彷徨(うろつ)いてますし、また取り上げられるようなことになったら、大変ですから」

 端的に事実を告げると、老婦人は感謝と申し訳なさが入り交じった複雑な表情を浮かべて、また頭を下げた。


***


「で、結局あれって何だったんですか?」

 老女を自宅まで送り届けて戻ると、先刻お茶汲みを勤めてくれた女性が、開口一番そう言った。

「何って、見ての通りアルバムだよ?」

 青年は、二十代後半に見える外見(凄まじい童顔なだけで、実年齢は三十代の終わりに差し掛かっている)に似合わぬ可愛らしい仕草で小首を傾げる。

 その動きに釣られて、ゆったりと首の横で束ねられた長い髪が、さらりと彼の肩を滑った。

「そうじゃなくて!」

 ああ、もう! と言わんばかりに女性は、まるで小さな子供がそうするように、足を一つ踏み鳴らした。

「今回の依頼って失せもの探しだったんですよね?」

「探す場所は判ってたから、正確に言うと探して盗むのが仕事だったかな」

 青年がサラリと凄いことを言った気がして、女性の思考は一瞬停止した。

「……今、『盗む』って仰いました?」

 まさか、と思いながら確認すると、青年はあっさりと首肯した。

「うん、だってさ。普通に言って返してくれる人間が相手ならいいんだけどさぁ。最近、警察も日本語通じなくなってるから」

 女性は唖然とした。

 いくら『普通に言って返してくれない人間』が相手だとて、いきなり盗みに訴えるのは随分短絡的ではなかろうか。

 しかし、そんな女性の視線には頓着せずに、青年は仮の事務所として一日だけの契約で借り受けた室内を片付けに掛かっている。

「で、でも、アルバムですよ? 中身、……ちょっとしか見てませんけど、普通のアルバムでしたよね。何で、それがその……警察にあったんですか? つまり……没収っていうか」

 他人のプライバシーに無断で踏み込んだ自覚はあるのだろう。ばつが悪そうに言い訳しながら、女性は掃き掃除に掛かっている青年を覗き込む。

颯姫(さつき)さん。口、動かしながらでいいから手も動かそうよ」

 やんわりと窘められた、颯姫と呼ばれた女性は、「あ、すみません」と短く詫びて、自分も箒を手に取る。

 しかし、その時点で既にほぼ掃除は終了していた。

 ちなみにこの女性、フルネームを『颯姫芽依子(めいこ)』という。

 たまたまとは言え、『さつき』と言えば古語で『五月』を意味し、『メイ(芽依)』は英語でやはり『五月』の意味を持つ。面白がった両親が洒落で名付けたこの名は、中学生の頃は(主に男子からの)格好の揶揄(からか)いの的だった。

「で、何だっけ?」

「所長!」

 青年――所長こと高瀬蒼生(たかせあおい)は、「あはは、ごめん」と言って軽い笑い声を立てる。

 蒼生は、忘れ物がないかを確認すると、芽依子を伴って建物の外へ出て、鍵を掛けた。

「不動産に(これ)返してから、君を家まで送るよ。それでいい?」

「え、別にそんな……」

 自分で帰れます、と言おうとした芽依子を、蒼生がにこやかに遮る。

「さっき藤田さんにも言ったけどね。結構最近公安がその辺フツーに彷徨いてるんだよ。このご時世あんまり人に吹聴できる商売じゃないから、用心し過ぎてし過ぎるってコトはないんだ」

 藤田さん、というのは、先刻の老婦人の名前だ。

「それに、君も聞きたいコトがあるんじゃないの?」

「はあ……」

 どちらとも付かない返答をする間にも、蒼生はズンズンと先を歩いていく。

「かと言って、その辺の喫茶店で迂闊にできる話でもないしね。落ち着いて話ができる密室って言うと、結局自宅だけだよ、今日日(きょうび)は」

 冗談めかしているが、冗談では済まない現実だった。

 指定機密漏洩防止法が、大半の国民の反対を完全無視する形で成立・施行されてからは、喫茶店で世間話をすることすら出来なくなっている。

 うっかりすると、個人的な今日の昼食のメニューまで機密に指定されていそうな世の中だ。オープンスペースでの会話は、最近は全て記録されているのは、芽依子も知っていた。

 防犯カメラに集音マイクと録音機能が装備されて、気軽な話など出来ないのだ。

 今のところ、自宅内と、公的施設ではトイレと銭湯だけが、辛うじてプライバシーの守られる場所ではあるが、これもいつ録音機能付きの監視カメラ設置が義務化されるのかと、国民は皆怯えている。

 芽依子を車に乗せて、不動産屋へ向かう間、蒼生はずっと無言だった。その車はレンタカーだからだ。

 今時は、これまた信じ(がた)い話だが、自分の車でない以上、盗聴機が仕掛けられている可能性は限りなく高いと思わねばならない。やはり、迂闊な話は出来ない。

「僕の家でいいよね」

 不動産屋に鍵を返却して、車に乗る直前、蒼生はそう訊いた。話をするのに、芽依子の賃貸ではやはり、レンタカーと同じ理由から、具合が宜しくないからだろう。

 芽依子は無言で頷いた。


***


 都心から車で一時間ほど走ると、東京都内とは思えないほど緑の多い風景の場所に出る。

 レンタカー会社に車を返すと、徒歩五分の場所にある蒼生の自宅まで、連れ立って歩いた。ちなみに、芽依子の方の自宅は、その駅から一駅向こうにある。

 帰りはちゃんと送るから、という蒼生に甘えて――と言うより押し切られて、芽依子は引き摺られるように彼の自宅へ足を運んだ。

 蒼生の自宅は一戸建てで、彼は今一人暮らしだ。

 独身男性の家に、独身の女性が上がり込んで、男女が密室に二人きりというシチュエーションが出来上がるのは、古来褒められたものではない。しかし、相手が蒼生であれば、絶対に妙なコトにはならないと言い切れるくらいには、芽依子は彼を信頼していた。

 その辺り、彼は歳の割に自分を厳しく律している男性だからだ。

 中には、年齢が行くほど、家庭を持っていてさえ、その辺りの線引きがうまく出来ず、電車内での痴漢に走る男性が多い中、彼は本当に希有な存在であると芽依子は思っている。

 黒縁眼鏡で殆ど顔が隠れてしまっているので解りにくいが、彼はかなりの美形だ。視力は悪くないので、うっかり眼鏡を掛け忘れると、すれ違う女性の視線が彼の顔に吸い寄せられるのは、一緒に歩いていればすぐに解る。

 中にはトツゲキしてくる勇敢な女性もいるにはいたが、彼はいつもやんわりと断っていた。

 何故、彼が四十近いこの年まで独身でいるのか、一度訊ねてみたことがある。

 すると、「こんな商売だからね」と、短く端的な答えが返って来ただけだった。

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「じゃあ、紅茶で」

 答えながらダイニングのテーブル前に腰を下ろすと、蒼生は「了解」と言って、ポットからティーポットへ湯を注いだ。

 コポコポ、と湯が零れ落ちる音が、耳に心地よい。

「それで? 今日の依頼の話だっけ」

「あ……はい」

 ティーバックを、湯を注いだティーポットへ無造作に突っ込むと、蒼生は所定の場所に置いてあった砂時計を引っ操り返した。

 彼は、いつもここだけは妙に拘るのだ。

 茶葉を蒸らす三分の間に、ティーカップと茶菓子を用意するのを忘れない。

「あの……あの老婦人にお渡ししたのは、本当にごく普通のアルバムでしたよね? なのに、どうして公安を警戒するんですか?」

 藤田婦人の依頼が完了する時に感じた疑問を、芽依子は捻りもなく蒼生にぶつける。

 芽依子が、蒼生の営む便利屋に助手として雇われたのは、かれこれ三年ほど前のことだ。雇われたと言っても、実務を受け持つのはいつも蒼生で、しかも、定期的に仕事がある訳ではない。

 芽依子がやることと言えば、依頼受理の際に、待ち合わせ場所へ行って依頼人を蒼生の元へ案内することくらいだ。

 ごく稀に、今日のようにお茶汲みをしたりもするが、決まった事務所のない便利屋のことで、そんな仕事は本当に『ごく稀』だ。

「二〇一三年くらいだったかなぁ。未成年ポルノ法改正案の騒ぎがあったの、知ってる?」

「……いえ」

 未成年ポルノの取り締まりと、今回のアルバムが結び付かず、芽依子は歯切れ悪く答えて首を振る。

 二〇一三年と言えば、芽生子はまだ中学生だった。

 その頃は、何も知らなかった。

 政治家が勝手な暴走をしまくり、主権者である筈の国民の意思を無視し、迷惑を掛けまくっていたことなど、何も(尤も、国民に迷惑が掛かっているのは現在進行形だが)。

「改正って言っても、僕は改悪の間違いだと思ってるけどね」

 簡単に言えば、『未成年ポルノ』とされた『モノ』の『単純所持』を取り締まる法律案だ。

 これだけ聞けば、何も問題はないように思える。未成年を変態から守る、良い法律じゃないか、何がいけないのかと。だが、騙されてはいけない。

 個人的に『創作物(つまり架空の物語)』でさえ、『ただ持っているだけ』で逮捕されてしまうのだ。その判断基準は警察に委ねられている。

 この当時は、架空の話だけは辛うじて付帯決議が付いたが、そんなモノは、突進してくる車に対して、紙で出来た盾で立ち向かう程度の効果しか生まない。

 ネット社会であることも反映され、間違ってクリックしたというキャッシュさえ取り沙汰されご用となる事例があるのは、些か――いや、非常に頂けない。

 加えて、この法律で言うところの『未成年ポルノ』は、所謂(いわゆる)『未成年(特に児童)を相手としたエロ本』に限られないところがまた曲者なのだ。

 法案が可決・制定されてから、続々と逮捕者が上がっているらしいが、逮捕基準は『機密漏洩防止法』に守られ、決してニュースにはならない。

「で、今日の依頼人は逮捕こそされなかったけど、その法律に照らしてあのアルバムを没収されてたんだ。それを取り返して欲しいって依頼だった訳」

「どういうコトですか?」

 芽依子はまだ理解できず、首を傾げた。

 その目の前に、カチャン、という音を立てて、ソーサーに乗ったティーカップが置かれる。

 「良かったら、お菓子もどうぞ」という言葉と共に、大きめの皿に盛られたマドレーヌを勧められる。

 礼の意味で軽く会釈して、遠慮なくマドレーヌに手を伸ばしながら、芽依子は目線で先を促した。

「あのアルバム、颯姫さんも中身見たんでしょ?」

「……はい、あの」

「あ、別にそのコトを責めてるんじゃないんだ」

 蒼生は、自分もマドレーヌに手を伸ばしながら、言葉を接ぐ。

「あの中にさ、小さい女の子が水着姿でいる写真が何枚かあったの、覚えてる?」

「覚えてますけど」

 それが何か、と言おうとして、芽依子は息を飲んだ。

「……待って、下さいよ。まさか」

「そう。(まさ)しくその『まさか』。他にも、赤ちゃんをお風呂に入れてる写真があったよね」

「って、冗談でしょう!? だって、あんなの、フツーの家族写真じゃないですかっっ!!」

 思わずテーブルに拳を振り下ろしてしまい、ティーカップとソーサーがガシャンと硬質な悲鳴を上げる。

「あ、すみません」

「いいよ。言いたい気持ちは解る。僕も全く同意見だからね」

 わずかに零れた紅茶を、蒼生から受け取った台布巾で拭う。

「でも、そんな冗談みたいな理由がまかり通っちゃうところが、あの法律の怖いところでねぇ」

 しみじみと、まるで昔話をするような口調で言いながら、蒼生は手にしたマドレーヌにかじり付いた。

「ちなみに、あの写真、誰を映した写真か分かる?」

「誰って……藤田さんのお孫さんとか?」

「ううん。彼女本人だってさ」

 芽依子は危うく、紅茶を吹き出しそうになった。

「な、何……っ」

 自分が幼い頃の写真を貼ったアルバム。

 親としては、赤ん坊の時の写真くらい記録しておきたいだろう。プールに行けば、水着姿で映っていたって当たり前だ。

 あの老婦人にとっては、どれも幼い頃の、中には記憶がない頃の大切な思い出も映った写真だったに違いない。

 親が、残しておきたいと思って撮った大切な写真。『ポルノ』なんて意識で撮った訳ではないであろうそれを、没収される? 未成年ポルノとして?

「……有り得ない。マジで有り得ないわ」

「だよねぇ。僕もそう思うよ。映ってるのが彼女自身なんだから。自分の小さい頃の写真に欲情する女性はそういないでしょ」

 真面目な話、いたら変態だしねぇ、という合いの手を挟んで、蒼生は続ける。

「しかも、デジタルで保存する人も増えてるから、それを今度は『ポルノ写真として売るつもりだったんだろー』なんて言い掛かりでお縄になっちゃった話も聞くしね」

「……聞くんですか?」

 やっぱり、恐ろしいことをサラリと言われて、芽依子は思わず聞き返している。

「うん、聞くよ? 何故かこんなコトも指定機密だから民間には流れないけど」

「そーいうの、調べ回るのもヤバいんじゃないですか?」

 いずれ捕まりますよ? と冗談めかして言うと、蒼生は妙に真剣な顔で、そうだね、と呟く。

「でも、覚悟の上でやってるから。僕はね」

「覚悟の上……ですか?」

「うん。だって理不尽じゃない。ちょっと前の世の中では罪にならなかったコトや普通だったコトが、お上の都合で犯罪になるって」

 柔らかな笑みを浮かべている筈のその表情は、どこか獰猛に見えて、芽依子は口に持って行き掛けたマドレーヌを胸の前辺りで停止させた。

 蒼生は、芽依子の視線を感じているのかいないのか、そっと伊達眼鏡を外す。その下から現れる素顔は、何度見てもうっとりしてしまう。

「時には今回みたいに、大切な思い出をポルノ扱いされて取り上げられる。指定機密漏洩防止法にしたってそうだよ。まるきりかつての『治安維持法』そのものでしょ。もう世間話も、外じゃ気軽に出来ないってところが何かおかしいって気付いても良さそうなのに」

 政府は、それは強制していないと言うだろう。

 勝手にこちらが萎縮して、世間話をしないだけだと。でも、それは違うのだ、とその点は芽依子も蒼生に同意見だった。

「君は知らないかも知れないけど、機密漏洩防止法ってね。審議中にあった反対デモを、テロ扱いした議員もいたんだ」

「嘘!」

「ホントに。それをわざわざブログで『テロだ』って言い放ったんだから、相当頭イカレてるよね」

 新憲法になってからは、そんなデモさえ出来なくなっている。どんな内容であれ、政府に反対するようなものは、『公の秩序と公益に反する』という理由を付けられ、問答無用で逮捕されてしまうのだ。

 しかし、デモをすることが出来た時期も、確かに存在した。その事実は、昔はどんなに日本は住みやすい自由な国だったかが想像出来るもので、芽依子は急に泣きたくなって来る。

 何故、今はこんなに窮屈なんだろうか。下手をすると、ただの挨拶でさえ取り締まられそうなこんな世の中に、何故なってしまったのか。

「でも、世の中、そんな理不尽を許しておく人間ばかりじゃない。政府の横暴に泣く人を、少しでも手助けできればと思って、僕はこの仕事を続けてるんだ」

 だから、いつでも捕まる覚悟は出来ているのだ、と。穏やかに笑って悲壮な決意を語る蒼生は、元々の容姿と相俟って、ひどく綺麗に見えた。

 けれど、それが今日は儚いようにも思える。出し抜けに沸いた不吉な思考を、芽依子は必死で追い払おうとした。

「ところで、所長。次のお仕事はもう決まってるんですか?」

 嫌な予感をただ払拭したくて、次の約束を取り付けようとしていることに、敢えて気付かない振りをしながら、芽依子は口を開いた。

「残念ながら、まだ何も」

 蒼生は、苦笑して肩を竦める。

「いつも言ってるでしょ。この仕事は、このご時世、大看板立ててお客を集められる商売じゃないって」

 それは、ここに雇って貰った時にも言われたことで、芽依子は何も言えずに冷えた紅茶に視線を落とす。

 定期的な収入を望んだ訳じゃない。生活に必要な最低限の財源はある。ただ、この理不尽な世の中をどうにか出来るものなら何かしたいと思っただけだ。

 そんな時、まるで神が啓示したかのように、蒼生が営む便利屋のサイトを見つけたのだ。

 その頃、指定機密漏洩防止法に照らして、颯姫家は審査を受けていた。父親の仕事に際して受けた審査は、父一人だけでなく、家族のプライバシーを丸裸にするものだった。

 例えば、家族の仕事、趣味、過去にどういった人生を送っていたか、などを(つぶさ)に調べる。

 結果、父は仕事を失った。

 仕事をする資格なしと判断された理由は、母が十年前、他でもない指定機密漏洩防止法に反対するデモに加わっていたことが最たる理由だった。

 それをきっかけに、両親はぎくしゃくし始め、離婚が成立したのがつい去年のことだ。

 何で皆、こんな理不尽に耐えられるんだろう。

 そう思い始めた頃、たまたま見つけたのが、蒼生の営む便利屋の携帯サイトだった。

『理不尽な困りごと、相談に乗ります』

 その売り文句に惹かれるようにアクセスして、蒼生とコンタクトを取った。

 具体的に何をしてくれるのか、と訊ねると、理不尽な理由で警察に言い掛かりを付けられたとか、冤罪で逮捕されたりした時に、依頼に来る被害者の家族に手を貸しているという。

 その内容を聞くや、芽依子は、助手として雇ってくれないかと頼み込んだのだ。

 蒼生は、流石に驚いたようだった。

 しかし、目を丸くした次の瞬間には、淡々と注意事項の説明に移っていた。

 雇ったとしても定収入はないし、このご時世だからいつどんな難癖を付けられて廃業に追い込まれるか判らないこと。廃業に追い込まれるだけなら儲けモノで、下手をすれば逮捕も免れないこと。

 これらの点を留意点として挙げた上で、それでもやるのか、と問われた芽依子は、一も二もなく頷いていた。

 当時、両親はまだ離婚していなかったが、家の中の空気は既に最悪だった。

 父は、仕事を失ったのは、母が余計なことをしたからだと責め立て、母は、自分達の生活が圧迫されるような法案の通過を黙って見過ごせなかったと応酬する。

 当初のそんなやり取りを経て、両親の間は、その頃冷戦状態だった。

 そうなったのは、全てあの機密漏洩防止法の所為なのだと思うと、もう猛烈に政府が憎かった。何故、そんな法律を作ったのか。

 当時のことを調べても、勿論納得出来る筈もなかった。主に、デモ隊に加わったという母に話を聞いただけだが、母も納得出来なかったという。

 『何が機密なのかも機密って言う、笑えない冗談みたいなところがねぇ』というのは、母の弁だ。

 それでなくとも、日頃から理不尽な政府の圧政に不満を感じていた芽依子は、この仕事に、飛び付かずにはいられない魅力を感じたのだ。

 けれど、実際のところ、この仕事をするようになったからと言って、幼い頃見ていた漫画やアニメ、小説に出てくるヒーローのように、胸の空くような活躍が出来る訳ではなかった。逆に、政府のすることの理不尽さを再確認して苛立つことの方が多い。

 それでも、手を引こうとは思えなかった。

 この仕事を続けていれば、自分のように理不尽な思いに泣く人間を救えていると、錯覚出来たからかも知れない。

「颯姫さん?」

 俯いて、紅茶に視線を落としていた時間が余りにも長かったのか、蒼生が不意に名を呼んだ。

「あ、はい?」

「紅茶、冷めちゃったんじゃない? 淹れ直す?」

 何を言われるのかと思えば、まるで明後日の方向からの台詞が返って来て、芽依子は微苦笑を浮かべた。


***


 (さかき)と名乗る刑事が芽依子を訪ねて来たのは、藤田婦人の依頼完了から五日後のことだった。

 多少まずい(あくまで今の社会基準で『まずい』という意味で、人間としてまずいことはしていない)ことをしているという自覚はあるものの、唐突に警察が訪ねて来た真意を測り兼ねた芽依子の表情は、自然硬くなる。

 そんな芽依子の反応をどう思っているのか、刑事は懐から一枚の写真を取り出した。

「現在、我々はこの男の捜索をしておりましてね」

 反射的に受け取った写真に映っていたのは、芽依子の上司である高瀬蒼生その人だった。

「お心当たりがおありですか?」

 咄嗟に、何と答えるべきか迷った芽依子は、結果的に沈黙した。同時に、彼の(もと)に雇って貰った時、彼に提示された『条件』が頭を()ぎる。


『何しろ、こんな商売だからね。いつお縄になるか判ったもんじゃない。だから、もし捕まりそうになったら、僕はとっととここからいなくなるつもりなんだ。勿論、君にも誰にも何も言わずにね』

 そんな、と言いそうになった芽依子を、蒼生は制して話を続けた。

『潔く捕まる気なんて、更々ないんだよね。だって、政府の理不尽に対抗する為にやってる仕事だし』

 口調はおどけるようだったが、その瞳は恐ろしいほど真剣だった。

 これでやっている内容が、例えば官僚を殺すとか、国会議事堂を爆破するとか、明らかに人道的に外れたことをやっているのなら、思い上がりも甚だしいが、蒼生の場合は全く違う。

『その時は、君の所にも多分警察が訪ねて行くと思う。僕との関わりを調べ上げるくらい、日本語の通じない警察にだって造作もない。でも、もしそうなったら、遠慮しないで僕と関わってたと正直に言ってくれていいよ。但し、仕事の内容は一切知らなかったコトにするんだ。それだけは約束して』


 覚えず、苦笑が漏れた。

 あの言葉通り、彼は本当に消えたのだ。芽依子にも、誰にも何も言わずに、前触れもなく。

 一方、不意に苦笑を漏らした芽依子を訝ったのか、榊が更に「何か知っているのか」と問うた。しかし、こちらも給料を払って貰っていないので困ったと返すと、意外にもその俗物的な言葉が彼の信用を買ったらしい。

 「また何かありましたらご協力を」という言葉を残し、無表情で頭を下げる榊を見送って扉を閉めると、芽依子はホッと息を吐いた。

 遂にこの時が来たか、と思う。

(……ホントに薄情なんだから)

 もしかしたら、自分にだけは事前に何か言っていってくれるのかと思っていたのに。

(でも、独身でいる理由が、これで本当に解った気がする)

 万が一、こういう時の為に、身動きが取り易いようにだ。

 手配中ということは、本当に何かの容疑で逃げ回っているのだろう。案外、指定機密漏洩防止法違反だったりしたら、芽依子への追及も当分は終わるまい。

 そうしたら、また、あの便利屋のサイトでも探して、今度は依頼人として会いに行こうか。

(覚悟しといてよね)

 あたしの依頼は難題なんだから。

 窓から空を見上げると、抜けるようなその青が、()の人を思い出させる。再会の時を思い描いた芽依子の唇に、笑みが浮かんだ。


【了】

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