転向の兆し
序章 運命の犬
その言葉で、世界を一つ呪うたび、一つ、運命の犬に成り下がる・・・
1、 転向の兆し
これも又、人生の不思議の一つだろう。・・・ある人間と何ヶ月も、文字通り毎日顔を合わせ、一度は殆ど彼無しには、人生を考えられないまでに親しくなったものが、やがてはっきり別れてしまっても、一向何の痛痒も感じないという。・・・生活は、相も変わらず同じように続き、しかも彼のいないのを、寂しいとさえ思わないのである。<「人間の絆」から>
ーまるで、ガキだ。
紫雨はぎりりと歯を鳴らした。
ー私はまだ、空想の中で力と名声を求めるガキのまま、
ちょっとでも気に入らないことがあるとふてくされて手さえおぼつかない。
紫雨は額の汗を粗い布で出来た袖で拭った。ショリショリと音がする。チッと小さく舌打ちして、こんなことにも苛立つとはどうかしている、と、そう一瞬でも冷静になっている自分が少しおかしかった。
薄暗闇の中、横には鮎が仮眠をとっている。汗ばんだ額に、髪が張り付いて、艶かしいが、この緊迫した空気の中ではただの焦燥しか表していない。
紫雨はこの待つしかない状況に、ただ焦れるのを止めるため、こうなるにいたった経緯を思い出した。空想の中に逃げるのは得意だったので、紫雨はふた呼吸としないうちに過去の中に入っていった。
・・・・・・
ゲームがどうしょうもなく好きなのは、その中に完璧を現すことが出来るからだ。・・・、たばこをふかして、この夕闇の中の散歩を空想とともに味わう。これも完璧の一つだ。仕事を終え、同僚とさして付き合わず、知り合いのいないこの通りを誰にも見られずに歩くのが日課となってもう一年になる。フリーターなんてそんなもんだ。この街で楽しくやっていくためにはそれなりのお金が必要だ、と歌ったのは、尾崎豊だ。で、それなりも持っていないものはゲームに頼るか、ぶらぶらするのにも限度がある街から抜けだして、田舎に帰る。パチンコ、ゲーセン、カラオケ、ソープ、この世は娯楽にあふれているというのに、人々の窮屈は尽きることがない。きっと、そういうふうにできているのだ。つまり、金を使ってもらうために、一方では窮屈に、もう片方では奔放に。ああ、それでもまだ的外れだ。この、頼りない語彙と経験では、おそらく語り尽くせないこの世の退屈の仕組みが、そこら中にはびこっているのだろう。
そう、不完全が蔓延っている。
で、そうでないゲームの画面の中では、本当の私を描くことができるのだ。本当にそうだと信じることができる私。
「夜明けなどないかもしれないのだよ」
そういったのはちょっとどころじゃなく頭のおかしい名前のプレイヤーだった。「狂気という安らぎのもと」 多人数参加型ゲームなのだからぶっ飛んでるにしてもふざけている程度だ。ところがソイツは、堂々とその名前を公開していた。光沢付きの紅色で。
「君はもっと単純に生きた方がいい。この世の偽りに毒されているからね。」
「この世の偽り?」
「努力根性向上心」
フッと息を漏らす。ちょっと爽快だった。部屋は薄暗い。冷めたコーヒーの匂いが舌に転がる・・・。
私は一瞬、まばたきをした。その時にはもう、異世界だった。
異世界、ネット小説で好まれているような典型的な中世魔法と剣の世界・・・だと思われる。握った土は本物で、木に登って見た景色はゲームでみた古代遺跡の塔だ。
景色が同じだからといって、ゲームの中だとは限らない。限らないが・・・「闇よ、私に光の感覚を」・・・魔法「夜目」が成功した。
薄く光る塔だけじゃなく、その他の山の輪郭がはっきりしてくる。すぐそこが崖だった。どうやらここは島の南端、「名誉にすがりし者の断絶」襟塚岬のようだ。ここから北に山脈が続いていて東に肥沃な大地が広がる。西は、人外魔境とされ、ゲームの中では侵入不可能区域だった。行けるか?
獣道にそって西に警戒をしながら歩く。っと、その前に、「闇よ、私に音の感覚を」
木札が掛けられている岩から先は、もういけないはずだ。が、あっさりと乗り越えて、私はしばらく立ち尽くした。
私はすぐさま引き返し、岬からそう離れていない木の上に体を固定し、朝までじっとすることにした。サバイバルの知識は一つとして持ち合わせていない。もしかしたら動いたほうが生存率を高めるのかもしれない。が、もしこれが、本当に私の知っているゲームの通りだとすると、闇の中でむやみに動く先には死しか待っていない。「闇よ、私に静かなる夜を」 私の設定した合言葉に従い、空気の多少の孔が開いた壁が私を包み音を獣達から隠してくれる。下半分は全く孔が開いていないので、匂いはかなり抑えられるが・・・それでも不安なことに変わりなかった。私は、じっと目を閉じて明日に備えることにする。もちろん眠れない。奥歯がカチカチなるのが聴こえる。
寝る前の空想は、私の得意分野のはずだ。こういう時こそ、瞼の裏で、自分の創りだした物語の英雄になりきるのだ。超人的な能力を手に入れ、ほとんど考えられないくらい良い縁をつかみ、艱難辛苦に鍛えられて、それから、それから、なんだったか? ・・・無理だ、現実逃避の度合いもあまりにひどすぎる場合、体がそれを拒絶してしまうらしい。私は朝までうすい眠りの中にしか入ることができなかった。
・・・・・・
は、っと紫雨が目覚めるとまだうす闇の中だった。
「鮎」
「何だ」
彼女が目を瞑ったまま、端的に答えた。
「東に変わった。第二案だ」
鮎が、すっと目を開ける。三秒ほどせわしなく手を動かした。「覚醒」の獣術を使用しているのだろう。トロンとした目が数回瞬きしたうちに狩人のそれへと変わる。
それからは、彼女とは一言もかわさなかった。鮎が回りこんで西に待機、紫雨は東から赤熊の群れを細い獣道に誘導し、縦に並ばせる。彼女が後ろから一体ずつ毒槍で殺していく。紫雨は魔法で空間把握と高速移動。付かず離れずを貫く。
「あっけないものだな」
鮎はあっさりとしている。
「いや、死ぬかと思ったぞ」
「ふん、どうせ、間違った所で、森に死体がひとつ増えるだけだ。追い詰められ続けるか、一瞬の痛みを取るか」
「くそ、いっそいま死んでしまったほうが断然、楽だな。」
「違いない」
鮎が苦笑する。紫雨が異世界に来てから3日ほど経っている。彼はその殆どをあの赤熊の群れに追い回されていた。エルフの体から漏れる魔力光は、今持ち合わせの魔法では防ぎようがない。森の中ではかなり抑えられるのだが、島の南端にはその痕跡を嗅ぎつける事のできる「赤爪の異形」という魔物がいて、一度嗅ぎつけられてしまえば逃げ切ることはほぼ不可能だった。初日に偽装工作をしていなかったことが大きい。仕方なく、彼は幾つもの偽の痕跡を残し、感知罠を仕掛け、ジグザグに東を目指していた。
二日目に思念が飛ばされてきた。「一度、北に進め。十分ほど歩け。私もそちらに向かっている」・・・今思えば疑がってしかるべき情報だが、焦っていた彼は一も二もなく、ようやく見え始めた光明に駆け込んだ。
地面からがさごそと身を捩り、体を出した彼女は、金色の耳が印象的な狐の獣人だった。獣人であるはずの彼女がどうやって思念を合わせられたのかは、謎だったが、そんなことは彼にとって些細な事だった。
この、やりこんだ者でも3日生き残ればいい方といわれた南端の森で、鮎は優秀な相棒となり得る。急に、生きることに気力がみなぎってきている自分に、紫雨はなんとなく可笑しさを感じて目を細めた。何が、充実の要素なのか、その一片を掴めそうな予感が、彼の頭のなかに微かに残り、森を抜ける一月の間に彼は時たま取り留めもなく考え事に浸った。鮎はそのことに何も言わなかった。
お互いの身の上は、いつ死ぬともしれぬ森の中にいるうちは止そうという暗黙の了解があり、互いに一切触れなかった。実際、片方が足止めになるなら、躊躇なく見捨てるという取り決めを行っていたし、いざとなれば実行しただろう




