第一章 ③
図書室に着くと、まだ誰もいなかった。
急ぎ足で来たはいいけど、天宮がまだ来ていないということを想定していなかった。いつもなら来ていてもおかしくはない時間なのだが……。
それから十五分間、司書室のソファに身を預けながら待っていたのだが、一向に来る気配が無い。流石におかしいと思った俺は一度職員室や天宮のクラス、体育館などを一通り探しに行ってみたが、どこにも見当たらない。携帯電話にも電話を掛けてみたが、無機質な声で〝おかけになった電話は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っていません……〟と返された。
これはちょっとした事件かもしれない。
不意に、司書室を見渡してみた。変わったところは特に無く、ソファとテレビ、大きなテーブルにノートPC、床に落ちているハードカバーの本。いたって普通のはずなのだが……。
「……ん?」ちょっと変じゃないか?
違和感の正体は、間違いなく床に落ちている本だった。昼休みに来たときはこんな本は無かったはずだ。
もし天宮が書架から持ってきたのだとしても、几帳面なあいつが床に置きっぱなしにするなんてあり得ない。だとすると……。
「誰か……図書室に来た人間がいるのか?」
まったく無い話ではない。教師がたまに新聞を読みに来たり、週に何回かくる通称〝図書室のおばちゃん〟が受付を手伝ってくれたり俺たちの様子を見に来てくれたりするからだ。
今日は木曜日なのでおばちゃんは来ないけど、教師が来たという可能性は十分にある。ということは、教師に私的な呼び出しでもくらったのだろうか……。
その可能性が一番高いと考えた俺はそのうちにひょっこり帰ってくるだろうとまたふかふかのソファに身を預けようとしたが、その時初めて気づいた。
テーブルの下に、天宮の鞄がある。
「あいつ……もう来てたんじゃないか」
それだけで少し安心した。そもそも真面目な天宮が図書委員の仕事をサボるわけがない。
あいつも俺と同じ、極度の活字中毒者なのだから。
「つか、何で今まで気づかなかったんだ……俺もまだまだだな」
そう呟いて、床に落ちている本に目を向ける。教師が落としたものなら拾う必要は無いかなとも思ったけど、こんな場面を見たら天宮はきっと俺に向けて本気でキレかねない。
何故キレる対象が俺なのかは全くもって謎なのだが。
そんなことを考えながら落ちていた本に手を伸ばす。表紙には題名と、中心に十字架を置いた魔方陣の絵が描かれている。題名は〝Tale of Geneesis〟と書かれている。〝創世物語〟とでも訳すのだろうか。
結構古い本らしく、読み込まれているのか、または単に保存状態が悪いだけなのか、表紙や本の角はボロボロで、多分この学校の生徒が見たら読みたいと思うような外見ではなかっただろう。しかし俺はその手の意味ありげな本に興味をそそられ、他人の本かもしれないが構わないかと思い、表紙を開く。
最初のページには題名でもなく、あらすじでもなく、こう書いてあった。
『汝、我を使いこなすのならば心の底から我が同胞を愛せ』
意味が分からなかった。最初は小説によくあるメッセージ的な意味合いを持つ前書きかなと思ったけど、この文字を見つめると、不思議とこの本に実際に問いかけられている気がする。
次のページを開くと、何も書かれていない。そのままぱらぱらとページをめくっていくが、どこまでいっても文字は一つも見当たらない。
最後までめくってしまい、もう一度唯一文字の書いてあったページを開くと、先程の文字が消え、新たな文字が浮かび上がった。
『助けて……』
文字が突然浮かび上がったことに驚き、その文字を読んで直感的にまずいことが起こっている気がした。慌てて頭の中で現状を整理してみる。
・ いつもならいるはずの天宮が今日はいつまで経っても現れない。
・ 天宮が来た形跡はあるが、本が無造作に置かれている。普通ならあり得ない。
・ 落ちていた怪しげな本の中から誰かに助けを求められている。
すごく嫌な予感がする。こういう状況が嫌いなわけではないが、まだ心の準備が出来ていない。俺はこういう流れの状況は空想で何度もしたことがある。
もしその通りに事が運ぶとしたら、もうすぐ本から何かしらのメッセージが返ってくるだろう。
俺の予想を裏切らなかった本は、先程のメッセージを消して、新たな文字が生まれる。
『Now Reading (Amamiya Shoko)』
「……マジかよ」
予想は全て現実になってしまった。つまるところ、この本を開いた天宮は先程の文字を見てすぐに返事をしてしまい、どういうわけかこの本の中に入り込んでしまったということだ。
普通なら信じられないだろうが、状況が状況なだけに信じるしかない。だとすると俺が今この状況でしなければならない事は一体何だろうか? ……答えは簡単だ。
一度本を閉じて、再度開く。すると先程と同じく文字が浮かび上がる。
『汝、我を使いこなすのならば心の底から我が同胞を愛せ』
それを見た俺は一度深呼吸をすると、覚悟を決めて〝わかった〟と活字の問いかけに短い返事をする。多分それだけで大丈夫だ。
するとそのページの文字が消え、新たな文字を生み出す。
『その言葉に偽りが無いか、試させて貰う。目を閉じて待たれよ』
その言葉通りに、俺は目をつぶった。これから何が起きるのだろう?
もしかしたら天宮はこれに引っかかって抜け出せないのではないだろうか……きっとそうだ。あいつの事だから何も考えずに返事して、この本の中で意味も分からず彷徨っているに違いない。
それにしても、〝我が同胞を愛せ〟とはどういうことだろう? 分からなければ俺も天宮の二の舞だ。
そんなことを考えていると、視界が白い光に包まれて、急に体が軽くなった。
ここは何処なのだろう?
俺の身に何が起きたか確認したかったが、目を開けてはいけない気がしたので待ち続けた。すると、地面に足が着き、重力が戻った。
同時に、喉が枯れた男性のような声がどこからともなく聞こえてきた。
『これより、お主が我の所有者になるに相応しい人間かどうか調べさせて貰う』
「調べるって……一体何を調べるつもりだ?」
『適正、だな。我を生かし続けるのに十分な想像力を持っているかを調べるのだ。』
「想像力? 生かし続ける? そもそもなぜそんなものを調べる必要があるんだ?」
『我の名前は知っているだろう? 我は所有者の想像力によって作られた世界を創造することが出来るのだ。我は世界を創造すること糧として存在意義を見出している。
だが所有者が我の糧となる〝世界を生む程の想像力〟を持ち合わせていなければ、我は存在する理由が無くなる。故に、お主の想像力を調べるのだ』
なるほど。つまり、〝我の同胞を愛せ〟ということは、本としての同胞、〝物語〟を愛せということなのだろう。〝物語〟を一つの世界として数えるならば、それは膨大な想像力が必要になるだろう。
逆に言えば、小説家並みの想像力があれば事足りるのではないか?
「理屈は大体分かった。だが、まだ分からない事がある。お前は何故この学校にいるんだ? この学校の生徒以外にも想像力豊かな人間なんてこの世にゴマンといるだろうに」
『いい質問だ。それはな、所有者になるにはもう一つ条件があって、〝想像した世界を何かに記したことが無い事〟なのだ。世界中で豊かな想像力を持つ人間は多い。
だが、それらの多くがそれを自分の中に留めておけず、文や絵にしてしまうのだ。一度世間に己の世界を知らしめてしまった人間は、我に頼らんでも世界を創り出せるのだから、我は必要とされんのだ』
「なるほど……確かにスジは通っている」
彼は、誰にも知られていない純粋な世界を求めているのだ。誰が何の目的でこの本を生み出したのかは分からないけど、これだけは言える。
彼は、恐怖で怯えているのだ。飽くなき想像力によって生み出される世界によって生かされ、それが尽きてしまえばただの意思を持つ紙の塊となって、所有者になるべき人間が現れるまで待つしかない。
ずっと、辛かっただろう……。
『お主は、想像力もさることながら本に対するとても優しい心を持っておる。お主の考えておったことは我には全てお見通しだ。
……そうだ、我はお主やその前に入った少女と出会うまではこの学校の図書室に十年間、誰にも見つけられずにじっと待っておったのだ。
以前の所有者は、想像力は豊かなのだが飽きっぽいやつでな、半年とせずに我を見捨てたよ』
「十年……」
この学校が去年創立五十周年だったから、途中でこの学校に来たことになる。
「じゃあここに来る前は何処に居たんだ? 大体お前はいつ生まれたんだよ?」
『ここに来る前は田舎町の寂れた書店だったかな……そこの店主が亡くなって店と本だけ残されたもんだから、本当は廃棄される運命だったのだよ。
しかしその前に我に気づいた少年が我を貰い受け、十年くらいは我と共に世界を創ってくれたよ。あの時は毎日が楽しかった……しかし少年も交通事故で亡くなり、その親が我をこの学校に送ったのだ。
まぁ送ったといっても、彼が持っていた沢山の本に紛れ込んだだけなのだがな。そうそう、我が生まれたのはかれこれ七十年前かな』
……あっさり付け加えたけど、それってかなり大事なところだぞ!
「七十年前って……どうやって生まれたんだ?」
『我も最初は普通の人間だったよ。それこそ想像力のとても豊かな、読書好きの人間だったさ。幼き頃の我は自分の想像を実現したくて、小説を書こうと思ったのだ。
しかしな……いざ書こうと思ったその日に、大きな地震が来て我を家ごと押しつぶしたのだ。それのせいで我は志半ばで死んでしまったよ。
だが、その思いが我の魂ごと近くにあった本に取り憑いて、いつの間にか我は誕生していたのだよ』なんつー超展開だ……。
「なるほど……とりあえずお前が生まれたきっかけも分かったから、そろそろ本題に入りたい。
天宮は何処にいる? ついでに、俺は所有者として認められたのか?」
『ついでとは失礼な奴だ。……まぁお主も健全な男子だろうから、早く少女を助けて感謝の一つもされたい気持ちも分からんでもないがね』
「そんなんじゃねーよ!」思わず本気でツッコんでしまった。
『冗談だ。彼女はもう一つの試練に挑んでいるところだからすぐ会えるであろう』
「もう一つの試練? どういうことだ?」そんなの聞いてないぞ。
『彼女も我の所有者になるに相応しい適正は持ち合わせておった。
だが、その想像力を思い通りに形に出来なければ、所詮浮かんでいる雲と一緒だ。
そこで、我は適正のあるものにもう一つ試練を課している。まぁすぐにお主も理解するだろうが、な』
「ということは、俺にも適正があるという事でいいんだな?」
『まぁその通りだが、それくらい我に言わせぬか! 楽しみが台無しじゃないか……』
「自分勝手な奴だな……じゃあ言い直すか?」
『もうよいわ。先程も言ったが、我は世界を創造することができる。創造するというのは比喩でも何でもなく、我の中に世界を、〝もう一つの現実〟を創り出すのだ。
今お主が立っている空間も我の力で創り上げた〝現実の空間〟なのだからな。目を開けてみれば分かるだろう』
今更かよ、と思ったけど目を開けてみる。
そこには薄暗く広い空間だった。風景はよく分からないけど、自分の姿だけはくっきり見える。地に足が着いているのは確かだし、多分歩くこともできる。
でもここが実は司書室で、単に周りを薄暗くしているだけかも知れないじゃないか。
『疑わしいなら走ってみると良い。何にもぶつからずに進めるぞ?』
言われたとおりに走ってみた。確かに走っている感覚はあるのだが、壁にぶつかる気配も無い。
つまり、俺の体は実際に本の中に入り込んでいるのだ。
「認める。確かにここはある意味現実の世界だ。だけど、それを証明したところでもう一つの試練とはどういう関係があるんだ?」
『お主は今確かにこの世界を〝現実〟だと受け入れたな?
では、空を飛べと言われたら、お主は空を飛ぶことができると思うか?』
「そんなの無理に決まっているだろう。現実ならば人間は機械を頼らないと空は飛べない」
『そうか……先程の少女とは違う考えだったか。これは実に惜しいな』
「どういう意味だ?」こいつは一体何が言いたいんだ?
『天宮君、と言ったか。彼女はここを〝現実〟と受け入れながらも、先程の質問をしたら迷わずこう答えた。〝飛べると思います! だって、ここがたとえ現実でも私の創る世界なら、私の思い通りになるはずですから!〟とな。我もいきなり核心を突かれて驚いたものだ』
俺は目から鱗が落ちた気分だった。
つまりこいつが言いたいのは、ここは現実あり、同時に己の想像力しだいで思い通りになる世界だということだ。だとすれば……。
「飛べる……のか? 想像さえ出来れば何でも出来るのか?」
『それは我には何とも言えん。何故なら、それは他人に教えられてあっさりと出来ることではない。
大事なのは〝信じること〟だ。己の想像した力を、具体的な形に出来るかどうかは、己がどれだけ強く信じるかによって左右されるからな』
「そういうことか……じゃあもう一つの試練というのは……」
『そうだ。もう一つの試練とは、想像をより具体的に形にすることだ。
そこでお主には我が用意した魔物を倒して貰う』
「魔物だと? まさか天宮もそれと戦っているのか?」
『その通りだ。彼女は信じる気持ちは強いのだが、まだ形には出来ていない。もう少し時間がかかりそうではあるな』
「……ちなみに、魔物ってどんな奴なんだ?」ちょっと嫌な予感がするぞ……。
『最初から強すぎると流石に厳しいと思ったので、ナメクジ型の魔物を用意した』
「そりゃ……形にも出来ないだろうな。あいつ昆虫系統全般ダメな奴だから」
『何と! それはすまない事をしたな……しかし一度始めた試練は本人が諦めない限り強制終了する事は出来ないし、我も干渉することは出来ない。どうしたものか……』
「なら、俺をその試練に送り込んでくれ。それくらいなら出来るだろ?」
『それは構わないが……二人で一つの試練を成功させてしまうと、所有者が二人で一人名義になってしまうのだよ。
試練の時に複数の人間が同時に我に入り込むのは前代未聞なのだ』
「別にいいじゃないか! その分想像力は増えるんだからさ! ……頼むよ」
『……しょうがない奴だ。今回は彼女の可愛さに免じて許してあげよう。行けぃ!』
すると、白い光に包まれながら体が軽くなり、視界が急に真っ白になった。
これが、ワープってやつかぁ~……。