第四章 ①
六月 二十六日 土曜日
九時八分、俺は目を覚ました。
普段なら確実に寝坊だが、今日は土曜日だからどれだけ寝ていても問題は無い。昨日は遅かったし、もう一度寝ても構わないかな……。
そう思った俺はもう一度布団を被り、目を瞑る。
あぁ……土曜日万歳。ゆっくり寝ていても起こされないし、小鳥のさえずりが心地よいし、甘い香りが何処からともなく漂って――
「ん?」
この香りは、一体何処から来ている?
店で扱っている和菓子では、こんなにクリーミーかつ甘ったるい感じの香りのする商品なんて扱っていないはずだ。そもそも店で扱う商品を作っている時に、こんなところまで香りが届くはずがない。
俺は一度迷ってから、体を起こす。この香りの正体を確かめるべく、俺は一番怪しい場所、つまり二階のキッチンに行くことにした。
廊下を歩いていると、先程の香りがどんどん強くなっていく。これは……スポンジケーキでも焼いているのだろうか。甘くて香ばしい香りが俺の鼻腔をくすぐり、同時に空腹感も呼び覚ます。
…………グー。
「そういえば……少し腹減ったな」
キッチンに入ると、思ったとおりオーブンでスポンジケーキを焼いていた。
机の上には苺と生クリームが置いてあり、否応無く何を作るのか予想させる。
「……ショートケーキ?」
全く、母さんは何をしているんだ。今の時間は開店に備えて掃除をしているはずなのに……。
今更ながら、キッチンにいる母に話しかける。エプロンをした後ろ姿はいつも通り。
「母さん、こんな時間に何をしている?」
「あら? 見ての通り、ケーキを作っているの」
「だからなんのために――」
そこまで言いかけて、俺は言葉を失った。
こいつ……母さんじゃねぇ。
「天宮……何故ここにいる?」
「えへへ、気づかなかったでしょ? 坂本君のお母さんからエプロン借りたんだぁ。
ついでに声と髪型も真似してみたけど、騙されたみたいだね~」
「……家宅侵入罪で警察に通報するか」
「わあっ! ちょっと待ってよ~! ちゃんとお母さんには許可貰ってるよ!」
母さん、後で話し合う必要がありそうだな。
「とりあえず質問に答えろ。何故ここにいる?」
「それは~……だって〝幻界〟に行きたいし、昨日の別れ際に〝また明日〟って言ったのに会わないのもどうかと思うし、今日はショートケーキの気分だし……」
天宮よ、最後のは質問に答えたとは言わん。
「はぁ……来る分には構わないから、せめて連絡くらい入れてくれ」
「ゴメンね……あっ! スポンジ焼けたぁ~」うーん、本当に反省しているのだろうか……。
その後は天宮の作業をずっと見ていた。初めて料理しているところを見たけれど、なんていうか……すごく手際が良い。
自宅から持ってきたのであろうミキサーで生クリームを泡立て、三つにスライスしたスポンジに切った苺とクリームを挟み、パレットナイフで手早く周りにクリームを塗り、最後に絞り袋でクリームを飾って苺を乗せたら完成。
「はい、あたし特製ショートケーキの出来上がり~」
見た目はすごく美味しそう。飾り付けのセンスも結構良くて、これなら店頭に置いても十分商品として成立しそうな出来映えだ。
「天宮……すごいな」
「そ、そうかな……」
急に顔を赤らめて俯いてしまう天宮。なんか……反応がすごく可愛い。
基本的に運動とかをやらせるとダメダメな天宮だけど、こういう細かいことに関してはものすごく器用だ。いつもの不器用な天宮とは別人だと思う。
「天宮、大丈夫か?」
「……はっ! うん何でもない大丈夫だよ!」
いきなり顔を上げて首をぶんぶん振る。その拍子に天宮の眼鏡が外れて落ちた。
「あれ? あたしのメガネどこ行った~?」
「ここだ、ここ」
天宮に眼鏡の位置を教えてやる。余談だが、天宮の視力は零・一しかない。
あまりにド近眼すぎて、自分の眼鏡がどこに行ったかも分からないのだ。
「あっ、ありがと~」
眼鏡をかけた天宮は俺に微笑む。うん、一部の男子にそこそこ人気があるわけだ。
「どういたしまして。じゃあ早速食べようぜ」
「そうだね~」
天宮はケーキを四等分にして、そのうち二つを皿にのせる。あとの二つは母と祖母の分だろうか。
その間に俺はフォークと紅茶を準備する。
「なんだか家族みたいだね~」
「そうかもしれないな」
家族、か……俺の家族は女性ばかりだな。そう思いながら大きいケーキを前に一言。
「「いただきます」」
二人で揃って言い、ケーキを一口パクリ。
「うん! 美味しい!」
「確かに……これならお金出してでも食べたいかもしれないな」
クリームの絶妙な甘さと舌触りに、スポンジの柔らかい食感、苺のちょうど良い酸味が合わさって、食べるだけで幸せな気分になる。
これは想像以上に美味すぎる!
「なんで天宮はこんなに上手く作れるんだ?」
「うーん……あたしとしては、自分の好きな物くらい自分で作れたらいいな~と思って練習して、いつの間にか上手くなってた感じかな。自己満足かもしれないけど……」
「そんなことないさ。これなら店で売っても文句ないだろ」
「それは言い過ぎだよ~。でも、坂本君が喜んでくれたなら、作った甲斐があったよ」
えっへん、と胸を張る天宮。やることが子供だなぁ……。
「朝早くからありがとう……そういえば、天宮は何時にここに来てたんだ?」
「えーと……だいたい朝の七時半くらいだね~」
「ちょっと待て、俺の家にそんな朝早くに来るって……家は何時に出たんだ?」
「……朝の六時半くらいかな?」サラリと言いやがった。
「天宮、この際言わせてもらうぞ……朝七時半にいきなり人ん家におしかけてケーキを作るのは、常識から考えて根本的に間違っとるわぁっ!」
「ええっ? だって、朝のニュース番組ではいきなり家を訪ねたりするよ?」
それはテレビだから許されるのだよ、天宮君。
「とにかく、もう少し時間を考えてくれ……昼間とかだったら、俺も母さんも喜んで天宮を招待するのに」特に母さんが、だけど。
「うぅ……気をつけます」
しょぼくれてしまう天宮だったが、言うべき事はきちんと言わねばならない。俺は気を取り直して、ケーキについての会話を続ける。
「よろしい。しかし、こんなに美味いケーキの作り方誰から教わったんだ?」
「それ、あたしが独学で作ったんだよ?」
「独学って……じゃあ誰の手ほどきも受けずに作ったのか。すごいな」
「まぁ本を読んで、それを実践したら出来ちゃった、みたいな?」
「軽く言うけど、それってかなりケーキ作りのセンスあるんじゃないか? 将来パティスリーとか開けばいいのに……商品名くらいなら俺が知恵を貸してやるぜ?」
ニヤリと笑いながら冗談交じりに言ってみたけど、本気で学べばもしかしたらパティシエールにだってなれるかもしれない。こんなに美味いケーキを作れるなら、他のものも作れたっておかしくはないだろう。
「うーん、考えておこうかなぁ……そうだっ! せっかく坂本君が知恵を貸してくれるんだから、このケーキに名前をつけてもらおうかな~」
「うっ、いきなりですか……」
確かにこのケーキは美味しい。しかし……今この場ですぐにケーキの名前を考えろというのは、少しばかり無茶振りじゃないだろうか。
天宮が期待を込めた視線を送ってくるから、断ろうにも断れない。
くっ、どうすれば……。
俺は頭をフル回転させる。見た目は普通のショートケーキ、味はものすごく美味い。
でも、飾りっ気があるわけでもないし……〝ショートケーキ〟と言ったら怒られるだろうか?
……いや、一つ浮かんだ。
でも……これは自殺行為かもしれない。頭の中に浮かんだ案を、勇気を出して言葉にしてみる。
「じゃあ……天宮聖子が作ったケーキだから、〝ショーコケーキ〟とか……どうかな?」
待っていたのは――静寂。
恥ずかしい! 穴があったら入りたい! これじゃ売れない芸人より酷いスベリ方だよ!
頭の中で機関銃のように叫んで、恐る恐る天宮を見てみると、何故か俯いている。
もはや目も合わせたくないのか? 流石に心配になって声をかける。
「……ごめん、今のナシで」
すると、天宮の体が震え出す。
もしかして……笑っている? そう思った途端、天宮は声を上げて笑い出した。
「あははははっ! 坂本君、ダジャレって……くっ、ははははっ!」
「なんでそんなに笑うんだよ!」地味に傷つくわ。
「あははっ、ゴメンね。坂本君が一生懸命考えてくれたんだもんね。でも……くふふっ!」
天宮がこんなに笑うところ、初めて見た気がする。意外に笑い上戸だったのな……。
「で、名前としては合格なのか?」
「うんっ! このケーキの名前は〝ショーコケーキ〟で決定! ……ぷっ」名前出すたびに笑われるのがだいたい想像出来るけどな!
そんな他愛も無い話をしているうちに、二人ともケーキを完食。そして一言。
「「ごちそうさまでした」」
その後は台所の後片付け。食器を洗うのは天宮で、片付けるのが俺。天宮がジャブジャブとクリームを泡立てたボウルを洗いながら、話題を切り出す。
「そういえば……今日初めて坂本君に名前で呼ばれた気がするなぁ~」
なんだか照れくさそうにしている。ケーキの名前に使っただけですが。
「そうだっけ? 確かに口に出して名前を呼んだのは初めてかもしれないな。
そういう天宮こそ、俺の名前呼んだことあったか?」
天宮と出逢ったのが中学一年の中盤なので、そろそろ四年の月日が経つ。
言われてみれば、今まで俺が名前で呼んだことも無ければ、天宮に名前で呼ばれたことも無い……たぶん。
「そーいえば呼んだこと無いねぇ~。……これから呼んであげようか? 龍馬君っ」
「なんかこそばゆい感じがするな。でも、天宮が呼びたければ呼んでも構わないぜ?」
「もう四年の付き合いだしね~……じゃあこれからは名前で呼ぶよ? その代わり、龍馬君もあたしのことは名前で呼んでね」
「えぇ~……」
「ちょっと! 何でイヤそうな顔するの!」
「だって、呼び慣れないし」というか恥ずかしいです。
「だったらこれから慣れればいいでしょ?
あたしは多分大丈夫だから、龍馬君もあたしの名前に早く慣れてよね~」
「……気が向いたらな」
「むぅ~……分かったよ~」
そう言いながら少しむくれていた天宮は、手早く食器洗いを終わらせた。
俺はというと、話している間に手が止まっていたらしく、食器が溜まりに溜まっていた。急いで片付けないと……。
数分後、結局天宮の手を借りて食器を全て棚に片付けた。せっかく来てもらった客(?)に食器洗いを任せるどころか、片付けも手伝ってもらうとは……情けない。
「よし、終わり! お疲れ様~」
「なんか悪いな。朝食の食器まで片付けてもらって……」
「別にいいよぉ~。あたしこういう仕事結構好きだし。
……そうだ、朝ご飯も食べ終わったことだし、そろそろ〝幻界〟に行かない?」
「もちろんそうするつもりだが、朝ご飯って……俺は確かに朝食だったけど、天宮は朝から何も食べてなかったのか?」
「……うん。流石にお母さんを朝早くから起こしてまで朝ご飯を作ってもらうのもアレだったし……どうせなら龍馬君の家で食べようかな、と思って」
「ふーん。しかし朝食にケーキが出るとは、なんとも贅沢だ」
栄養面ではバランス最悪だと思いますが。そもそも朝食にデザートってどうなんだ?
「でしょ~? あたし一人暮らししたら毎日朝食をケーキにする!」
「……栄養失調になるし、確実に太るぞ?」
「うっ、やっぱり止めとくね。あははは……はぁ」
なんだかしょんぼりしてしまった。
そんなに朝からケーキを食べたいのだろうか……女の子というのはよく分からん。
「まぁいいや。気を取り直して〝幻界〟に行きますか」
「うん! じゃあミカドを持ってくるから待っててね」
そう言って階段を下りていく。しばらくすると、相変わらず古ぼけた表紙の本を一冊抱えて二階へ上がってきた。
俺と天宮は隣の和室へ行き、昨日のようにミカドの前に座る。最初のページを開くと、昨日と同じく文字が浮かび上がる。
『我らの世界を、その身を以って確かめたいか?』
俺たちは迷わず答える。
「「はい」」
すると、ミカドが文章で返答した。
『では、行くがよい』
これでこの世界に入るのは三度目か……そんなことを考えていると、俺と天宮の体が想創光に包まれた。
そして、俺たちは光となって本の中へ入り込む。




