第三章 ③
俺の通う道場は、家から歩いて十数分程で着く。大人は毎週金曜日の午後九時から午後十一時までの二時間、相手を見つけて稽古を行う。
現在午後八時六分、やることも無いので早めに道場に向かうことにした。
胴着と袴を入れた手提げ、竹刀袋を持って家を出た俺はゆっくり歩いて道場に向かう。
今日は新月なので、星がよく見える。そういえばもうすぐ七夕だな……。
そんなことを考えながら歩いていると、近くで誰かが言い合いをしていた。時間に余裕があるので、少し様子を見に行くことにした。
少し歩くと、薄暗い路地で一人の女性を二人の男性が囲んでいた。俺は路地の曲がり角に隠れて様子を見る。
「じぶんら、一体ウチに何の用なん?」
「おっと、俺たちにそんな態度をとってもいいのかな?」
「このナイフが、うっかり君の可愛い顔を傷つけちゃうかもなぁ」
男の一人が、手に持った果物ナイフをちらつかせながらニヤニヤしていた。
このような光景を、一度見たことがある……そう、天宮の時と一緒だ。
相手は二人、あの時と比べればなんてことはなさそうだが、一人はナイフを持っている。下手に怒らせたら命が危ない。
やっぱり警察に通報したほうがいいよな……。
そう思って携帯電話を手に――出来なかった。
こんなときに携帯電話を忘れるなんて、俺はなんて間抜けなんだ……そうしているうちに話はどんどん進んでいく。
「離してぇや! ウチは金持ちでも何でもあらへんで!」
「知ったこっちゃねぇなぁ。金が無くても体があるだろ?」
「こうなったら、俺たちをしっかり楽しませてくれよ? ふひひひ!」
展開は以前と同じ。俺は武器を持っているが、相手はそれ以上の武器を持っている。しかも人通りの無い路地なので助けも期待できない。
だったら行動すべきは以前と一緒――。
いや、そんな訳無いだろう。俺はあの女性を助けるべきかもしれないが、あいつらと対等に戦う必要は無い。
とりあえずあの場から女性を助け出すことだけ考えればいい。一番確実な方法は……これならいけるか?
俺は近くに落ちていた手のひらサイズのコンクリート片を手に取り、ナイフを持っている男に向かって勢いよく投げた。
頭に向かって真っ直ぐ飛んで行き――。
「痛ッ!」
ヒット・ブルズアイ! 心の中で叫んだ。幸いコンクリート片は、上手いこと命中した。
男はきょろきょろと辺りを見回し、何処から飛んできたのか探している。これで相手の気は引けたはずだ。
次にこちらに向かわせるべく、俺の隠れている塀をゴンゴン叩いた。あまり音はしなかったけど、こちらに意識が向いているので流石に気付く。
「誰だ!」
思惑通り、ナイフの男が俺に向かって歩いてくる。俺は少し距離を置き、竹刀袋からいつも振っている木刀を取り出し、いつ来てもいいように身構える。
足音がだんだん近づくにつれ、俺の鼓動も早くなる。上手くいってくれ……。
男が角から出てきた途端、俺は木刀の切っ先を男の喉下につけた。
「ひいっ」
男が小さく悲鳴をあげる。俺は睨み付けながら、出来るだけ声のトーンを落として呟く。
「お前、あの女に手を出したら肋骨数本ヘシ折るぞ」
男は明らかに萎縮し、足を震わせている。思ったとおり、こいつはナイフだけに頼っているチキン野郎だ。
これなら何とかなるかもしれない……俺はさらに続ける。
「逃げるのなら許してやる。もう一人を連れて、さっさと失せろ」
我ながらすごく偉そうな台詞だったけど、ビビッている男には効果覿面。
早足で男のほうへ向かい、逃げるように説得し――殴り飛ばされた。
「ぐえ」
短く呻いてその場に倒れる。腹部を殴って一撃で落とすなんて……もう片方は意外と強いのかもしれない。
殴った当人は、女性を連れて俺の下へ向かってくる。そこで離れて女性が逃げたら、俺も逃げる作戦 だったのに……どうやら逃げられないみたいだ。
覚悟を決めて、俺が先に路地に飛び出す。やっぱり、もう一人もナイフを持っていた。
「テメェか……ん? お前、坂本だな?」
「な、何で俺の名前……って、まさか……」
「そうだ。俺はあの時テメェらに少年院送りにされた一人だよ。まさかテメェの方から来てくれるとは思わなかったけどな」
このしゃべり方……間違いない、あのリーダー格の男だ。
予想外の展開に俺は一歩後ずさる。同時にあの時の記憶が蘇り、俺の呼吸が乱れる。
「おっと、今更ビビッてンのか? 今回はお前が売った喧嘩だからなぁ……俺も本気でかからないと失礼ってモンだよなぁ!」
「ちょっと! ウチのことはええからはよ逃げ! コイツ刃物持ってんで!」
そんなことを言われても、対峙してしまった以上逃げられないし、逃げたら彼女が酷い目に遭うのは目に見えていた。だったら戦うしかないだろう。
相手は俺と同じくらいの身長、図体は俺より少し大きい感じ。
こうなったら、あの時と違うということを見せてやる。ついでに、あの時とれなかった天宮の仇だ!
「来いよ。俺は逃げない」
「テメェは少年院どころか、地獄に送ってやるから覚悟しろやァ!」
男は女性を離し、ナイフを腰の位置に構えて突進してくる。
安直な動きだったので、行動が読みやすい。剣道で培った瞬発力で男の懐に入り込むと、木刀を手放し、掌底で顎を突き上げた。
こんな奴ごときに、木刀なんて振るいたくない。
「ぐっ」
思い切り脳を揺さぶられて脳震盪を起こしかけたが、まだ意識がある。俺はすかさず女性に向かって叫ぶ。
「早く! 今のうちに警察を!」
「わ、わかったで!」
女性はすぐに携帯電話を取り出し、警察に通報する。
「テメェ……何のつもりだ」
「俺は〝逃げない〟とは言ったが、誰も〝警察を呼ばない〟なんて言ってないぜ?
それに、犯罪者と正々堂々戦うほど、俺はお人好しじゃないんでね」
「けっ、やってらンねぇな」
元リーダー格の男はそう言うと女性の下へ歩み寄り、先程の男と同じようにナイフを首筋に当てる。
くそ、さっきナイフだけでも奪っておけばよかった!
「テメェが俺に大人しく殺られンなら、コイツを解放してやってもいい。もし断ったり妙なマネしたりすれば……コイツは永遠に眠ることになるけどな」
「ウチの事は構わんでえぇ! はよ逃げぇや!」
「逃げたらあんたが死ぬんだぞ! 見過ごせないだろ!」
「じぶんに命張って助けてもろうて……ウチが気分よぅなると思ぅとるの!
えぇ加減にせえや! ウチかてそんなに甘くないわ!」
「威勢のいい女だな……別に嫌いじゃない――おぶっ!」
言い終わる前に、女性は油断している男の腹部に肘撃ちを一発お見舞いし、振り返るとともに急所を蹴り上げた。
アレは……すごく痛そうだ。
男がうずくまると、すぐに女性はこちらに向かってきた。そして――。
ツカツカ……バシィ!
いい音と共に俺にビンタを浴びせた。めちゃくちゃ痛い!
「な、何するんですか!」
「何するんですか、じゃないわこのタワケ! じぶんがアホな事抜かすから、一発ビンタくれてやったんや! 少しはウチが心配しとるとか考えんの?」
「うっ……すみません」
今思い返してみれば、勝手に首を突っ込んでいったのは俺だ。そりゃ怒られて当然か。
「分かればえぇ。そろそろ警察も来る頃やから、じぶんもはよ逃げたほうが面倒ないで?」
「そうですね……てか、あなたは夢見ヶ丘高校の生徒なんですか?」
今更気付いたけど、この人高校生だ。しかも、見慣れた母校の制服だし。
「え? そうやけど……もしかしてじぶんも同じ学校なん?」
「そうです……二年の坂本といいます」
「そりゃ奇遇やね~。ウチは三年の佐藤、佐藤萌(さとう もえ)や。
ちなみに夢見ヶ丘の生徒会長な」
ふーん……そうなんだ~。
「って、ちょっと待て! それはちなみに言うことじゃないですよ!」
「おぉ! ええツッコミしよるなぁ~。ウチ、そういう人好きやで」
うーん……この人のペースは今一つ掴めないな。関西人の知り合いがいないから、関西弁も初めて触れるのだけど、話しづらいことこの上ない。
「ツッコミとかどうでもいいですから……先輩はこれからどうするんですか?」
「決まっとるやん。こいつらを警察に突き出すんや」
「任せても大丈夫ですか? 何なら俺も手伝いますけど……」
「別にえぇよ。ウチが絡まれて、そこに偶然居合わせたのがじぶん。
だったら、じぶんはこの件に何も関係あらへんやん」
「……分かりました。じゃあ後はお願いします……えっと、佐藤先輩」
「なんか他人行儀やなぁ。別に〝萌〟でえぇのに」
知り合ったばかりで他人行儀なのは当たり前だと思うのですが。
「そうですか……じゃあ萌先輩、後はお願いします」
「任せとき! ……そや、もし学校で会ったら気軽に声掛けてな。じぶんは一応、ウチの命の恩人かも知らんからなぁ。礼の一つもせんとバチが当たるっちゅうもんや」
「先輩こそ他人行儀ですよ……俺には坂本龍馬っていう名前があります」
「ん? 何やじぶん、偉人の生まれ変わりか?」その手のことを言われると思ったよ!
「違います! ただの偶然です!」まぁ母さんは意図的にやったのだろうが。
「そうなんか……ま、えぇわ。ご縁があったらまた今度な、龍馬」
「そうですね。ではまたいつか」
別れを告げると、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。面倒なことになる前に、俺は足早に退散することにした。
あの先輩は結構口数が多そうだけど、話していて不思議と楽しかった。他人にこんな感想を抱いたのは、おそらく天宮以来だろう。
……また会う日は来るのだろうか?
時間は午後八時三十九分、俺は急いで道場へ向かった。




