第三章 ②
後日、天宮を襲った先輩は全員、校長による特別指導を受けていた。先輩の顔を天宮がしっかりと覚えていたので、犯人はすぐに割り出せたのだ。以前も同じようなことを繰り返していたらしく、このままでは危険と判断し、結局彼らは少年院に送られた。
こうして、事件は幕を閉じた。
確かに事件は解決した。しかし、あのときの出来事は俺の心に大きな傷を残した。
弱い、無力、そんなレッテルを貼られるのは嫌だった。
そんな自分を克服するために俺が取った行動は、剣道を始めることだった。祖父がいつも稽古していた道場に自分で向かい、数年ぶりに竹刀を振ってみる。
久しぶりに振った竹刀は重く、剣道をやめる前の自分を思い出させた。あの時は打たれることも打つことも怖くて、いつも恐る恐る振っていた。
あれから五年近くの月日が流れたが、その感覚はとうに消え失せていた。
理由は簡単。俺が成長したから、そして祖父がいなくなってしまったからだ。
俺はひたすら振った。今までの自分の弱さを忘れるために、がむしゃらに振り続けた。
形は汚く、剣先は乱暴に音を立てていた。今は形なんて関係ない。ただ力強く、己の弱さをこの竹刀で叩き壊すかのように……。
「おや、虎さんのお孫さんじゃないか。また剣道を始めたのかい?」
そう言って近づいてきたのは、俺より頭一個分くらい高い身長で、白髪が目立つ五十歳くらいの男性。
祖父の友達で俺も顔は覚えている……名前は確か原田竜也(はらだ たつや)と言っていた気がする。祖父と同じくらい強く、段位も同じ五段だ。
「……はい」
「そうか……虎さんも喜ぶと思うよ。しかし、君の振りは力が入り過ぎだ。
竹刀を振るときは左手の小指、薬指、中指の三本で軽く握り、肩を中心に力を抜いて振るのがいいんだよ」
そんなことを以前祖父も言っていた気がする。でも、そんなに気楽に振れる程俺の心に余裕は見当たらない。
誰かを守れるように、もっと強く、もっと速く……。
「何か、悩みでもあるのかな?」
「っ! それは……」
表情に出ていたのだろうか……原田さんに悟られてしまった。
少し悩んだが、祖父の親しい人だということもあって、これまでの経緯と俺の心境を話した。すると原田さんは立ち上がり、竹刀を中段に構えた。
「強くなりたいから力を込めて振る……か。それは間違っているよ」
原田さんは振り始めた。綺麗な姿勢で体を押し出し、竹刀を上段に振り上げる。左足を引き付けると共に、振り上げたスピードの倍以上の速さで振り下ろした。
それを前後に五往復繰り返す。振る度に、俺が振ったときとは違う、風を切る音が聞こえた。
「ほらね。私は力をほとんど入れていないが、君より強く、そして速く振ることが出来る。
私の言いたいことが分かってもらえるかな?」
確かに俺より強く、そして速かった。
「言いたいことは分かりました。でも、力を抜くことは〝手を抜いている〟感じがします」
「うーん……君の言いたいことも分からなくはない。
でもね、私は力を抜いていても一生懸命に振っている。意識の違いで剣道は大きく変わるんだ」
力を抜いているのに、一生懸命? 俺にはよく分からなかった。
「君は、強くなるためには強く振らないといけないと思って、力を込めて強く振っている。
だが、実はそれは思い込みだ。それを教えてあげるから、面を着けて私のところへ来るといい」
言われたとおり、面を着けて原田さんの所へ向かった。五年ぶりに面を着けたので少し手間取ってしまい、俺が行く頃には既に原田さんは立っていた。
「さて、では君に一から面打ちを教えてあげよう。
さっきも言ったけど、強く速く振るためには〝力を抜くこと〟が大切なんだ。試しに君が私に〝力強く〟打ってごらん」
力強く、か。言われたとおり、俺が力強いと思うように打った。
つまり、力任せに打った。
ガン! と鈍い音を立てて面に当たる。
「……それが、君の思う〝力強い〟打突かい?」
初めて面を打って分かったが、俺の想像したのとは全然違う。
俺は、祖父が打っていたような面打ちがしたいのだ。それなのに……。
「今の打突で分かったはずだ。力任せに振っても強くはないし、速くもない。
だったらどうすればいいか……こうすればいいのさ」
原田さんは、先程と同じ動きで俺の面を打った。
パカーン! と甲高い音を立てて面に当たった。スピードは速いし、打ちも強い。
しかし、強くても極端に痛いと感じなかった。
「……今の打ちが、正しい打突なんですか?」
「いや、これが一概に正しいとは私もはっきり言えない。人によって打ち方は様々だから、他人の打ちを否定は出来ない。
だけど、少なくとも私のほうが君の打突より強く、速かったはずだ」
「その通りです。でも、打突は痛くありませんでした。何故ですか?」
「……君はやはり虎さんとそっくりだな。虎さんがこの道場にやってきて、君のような打突をした。
だから私も彼に教えてあげたら、同じような疑問を抱いたよ」
「爺ちゃんも俺と同じ感じだったのですか?」
「あぁ。彼もすごく荒削りでね、癖を治すのが大変だったよ。
まぁ、一ヶ月で振りはすごく良くなったんだけどね。学生時代の感覚を思い出したのかな?」
たった一ヶ月でこの振りが出来るようになったのか……やっぱり爺ちゃんはすごいな。
「それで、何故そんなに痛くないのですか?」
「そうだったね。理由はもちろん力を抜いているから、そして〝斬っている〟からだよ」
「斬っている……」
俺は、ずっと竹刀で〝叩く〟と思っていた。
竹刀は刀、そんな当たり前のことも俺は忘れて面に〝叩きつけて〟いたのだ。
「そうだ、君は両手に力を込めて私の面を〝叩いて〟いるから、鈍い音しかしないし、打たれるほうはとても痛い。
でも、私は力を抜いて君の面を〝斬って〟いたんだ。だから、澄んだ音が出るし、叩くほど痛みを感じない」
そう言い、原田さんはさらに続ける。
「君はさっき〝手を抜いている〟感じがすると言ったね。それに対して私は〝一生懸命〟に振っていると答えた。
……剣道は、いわば殺し合いなんだ。一生懸命戦わなければ、相手に負ける、つまり斬り殺されてしまう。だから私は勝つためにやるべきこと、〝力を抜く〟ことを心がけているのさ」
剣道は殺し合い、今までそんなこと考えたことも無かった。
俺は少し剣道を甘く見ていたのかもしれない。
「試合では気・剣・体の一致で一本が決まる。これは知っているよね?」
「はい」
気は精神面での作用、つまり掛け声や打ちに行く気持ち、残心などを指す。
剣は竹刀の作用、つまり当たりの良さや強さ、速さを指す。
体は身体面の作用、つまり打突前の体の動きや、打突後の体の動きを指す。
「どれか一つでも欠けていたら一本にはならない。つまり、君の打突は試合で打っても剣が欠けているから一本にはならない。
だから、試合で勝つためには力を抜くことが大切なんだ」
そうだったのか……俺は深く納得した。
「いいかい、君の打突は広い意味の〝強い〟では間違っていない。
でも、たとえ強くてもただ相手を〝傷つける〟だけの強さは、間違っていると私は思う。君の打突の強さはこっちだ。
私は、強さとは〝守る〟ことだと思う。だからこそ、私の打突は君の面に当たって一本決まっても、痛みをあまり感じさせなかったはずだ」
俺は今まで力任せに打っていた。でもそれは、誰かを傷つける力にしかならないのだ。
あの先輩達が俺にしたことと同じように。
「君は、本当は人を傷つけたいとは思っていないだろう?」
「そうです。俺は、さっき話した友達を守りたくて、強くなりたいんです」
「だったら、自分の弱さを嘆く前にやるべきことがあるはずだ」
そうだ、俺は大事なことを忘れていた。爺ちゃんだって〝男とは、女や子供を守るものだ〟と言っていたじゃないか。
俺がやるべきことは――。
「守るべき人のことを考えること……自分や友達、家族のことを想うこと」
「そうだ。君には守るべき人がいる。だったらその人のために強くなればいい。
虎さんだって言っていたよ。〝わしには守るべき家族がいる〟とね」
なんだか、爺ちゃんらしいな。今なら、爺ちゃんが俺に剣道をやらせたかった気持ちが分かる気がする。
爺ちゃんが教えたかったことを、今初めて知った。
「爺ちゃん……ごめんよ」
「虎さんは君を責めてはいない。それでも君が虎さんの気持ちに応えたいのなら、これから強くなればいい。
なに、君の人生はまだ始まったばかりじゃないか」
「うっ、うわぁぁぁぁ!」
俺は泣いた。泣きながら爺ちゃんに心から謝り、同時に強くなることを誓った。
天宮のために、家族のために……。
それからは原田さんに剣道を一から教え直してもらった。最初こそは形も悪く原田さんのようには打てなかった。挫けそうにもなったけど、その度に〝守るべき人〟のことを考えた。
一ヵ月後、剣道の形はだいぶ原田さんに近づいてきて、道場での試合も少しずつ勝てるようになってきた。
これも全て、原田さんの教えのおかげだ。原田さんには返しても返しきれない恩がある。
こうして、今に至る――。




