第三章 ①
今日は、週一回の稽古の日だ。
俺は小学校の一年生の頃から祖父に勧められて剣道を習っている。
理由は祖父曰く、〝男は皆強くなくてはならん。男とは、女や子供を守るものだ。将来のためにも、今のうちから男として強くなるのだ!〟とのこと。
祖父も剣道を子供の頃から高校生までやっていたらしく、四十を過ぎてからまた始めたらしい。とても強かったし、体力もあった。
子供の頃は何度泣かされたことか……。
しかしその頃の俺は心も体も弱く、何かと厳しい祖父から技を教わる時は、いつもビクビクしながら話を聞いていた。正直、剣道が嫌いだった。
一年後、それを見た祖父は、〝今の時代は男が無理に強くならんでもいいのかも知れないな……辛いのだろう?〟と言ったのを最後に、稽古をつけてくれなくなった。
その時は辛い稽古から抜け出せて嬉しかったけど、それがなんだか後ろめたくて祖父とは言葉を交わしづらくなった。祖父は気にしていないようだったが、この出来事はその後の俺の心に大きなしこりを残すことになった。
俺が中学に上がるのを見る事無く、祖父は他界してしまった。原因は末期の大腸癌だった。
俺はどうしていいか分からなかった。剣道をやめてから五年。俺が勝手に距離を置いて、中学に上がったら少しでも話をしてみようと思った矢先に、この世を去ってしまったのだ。
心に残るのは〝後悔〟の二文字だけだった。
もしもあの時、俺が剣道をやめていなかったら祖父とはもっと仲良く出来ただろうか?
もっと長く稽古を続けることが出来ただろうか?
もっと思い出を作ることが出来ただろうか?
祖父の葬式の後の一週間くらいは、そんなことばかりを考えていた。
後日、祖母から祖父について色々と聞いた。最後の最期まで俺のことを気にかけていたということ、剣道をやめてからは距離を置かれて寂しがっていたということ、願わくは、強く育ってほしいと願っていたこと……それらを聞いた俺は涙が止まらなかった。
月日が経って中学校に入学。俺はなるべく他人と関わらないようにしていた。
もとからそういう性格だったし、今更友達を作れるほど俺の心は強くなかったから……。
一学期が終わり、周りから気にかける人もいなくなった頃、俺は天宮と知り合い、友達になった。このときは毎日が楽しく、人生の中で最も輝いていた。
しかし、その輝きはある事件で色褪せてしまった。
ある日、俺は図書室で天宮と待ち合わせをしていた。しかし時間になっても一向に現れないので、一度学校中を探してみることにした。
意外とすぐに見つかった。そこは体育館の裏だった。
探し始めて約五分、体育館を探したが見つからず、ついでに裏も見ておこうと思い、体育館の裏に向かった。
そこで天宮は男三人に囲まれていた。ただ事じゃなさそうだったので、俺は影で様子を伺うことにした。
「そう――よぉ。おれた―――ょにあそ―――ていっ――だけだろ?」
「――だ。べつに――らなくて―――よくさせ―――んだよ」
「こい――いからな。ほか―――れるまえに―――がすじ――んだぜ」
「……助けて」
明らかに天宮は泣いている。話はかすかにしか聞こえなかったけど、平和な話ではない。
これは先生を呼んだほうがいいのだろうか……そんなことを考えているときだった。
「さて、じゃあそろそろ見せてもらいますかぁ」
「やっ……やめてっ!」
男二人が天宮を押さえた。残りの一人は、天宮のブラウスに手をかけている。そして、ボタンを一つずつ外す。
……確信した。天宮は襲われている。
どうしてこうなったのか理由は分からない。でも、このままでは天宮は危ない!
先生を呼ぶ? ……否。今から呼んだのでは天宮に被害が及んでいるはずだ。
だったら出来ることは一つしかない!
「止めろっ!」
俺は勢い良く飛び出した。しかし、この行動が結果的に大きなミスだということを思い知ることになる。
彼らは全員三年生だった。
「……アァ? ンだこのガキは」
「お前、一年生じゃねぇか。もしかしてこの子の彼氏か?」
「よく俺たちの前に出てこられたな。お前、無事で帰れると思うなよ?」
しまった、と思ったけどもう遅い。先輩三人を前にどうやって戦えというんだ。
これなら先生を呼んだほうがマシだったかもしれない。
「その子は……友達なんです……やめて……下さい」
足を震わせながら言った言葉も震えていた。それを聞いた三人は大笑い。
「おいおい、本気で言ってンのか? 足震えてンじゃねぇか!」
「君はおバカさんかな~? そんなこと言って、俺たちが返すとでも思ったのか?」
「笑わせるぜ! ……こんなガキ一人でも十分だ」
背の高い一人の先輩が俺に向かってくる。俺は胸倉を捕まれると、あっさり持ち上げられてしまった。
ジタバタと足掻いてみるけど、抜け出せない。
「どーした? もっと抵抗してみろ……よっ!」
気合を入れると、大きく振りかぶって投げた。
この頃はまだ背が百四十センチにも満たなかったので、思い切り飛ばされる。壁にぶつかった衝撃で息が詰まる。
「がはぁ!」
しばらく立てなかった。こうしている間にも、天宮は他の二人の手によって服を脱がされている。すぐに、白い腕と肌着が露になった。
「坂本君! きゃっ!」
「テメェは黙ってろ!」
そう言ったリーダー格の先輩は、天宮の肌着に触れる。もう止めてくれ!
俺は天宮を逃がすのが先決だと思い、背の高い先輩が目を離した隙に天宮の下へダッシュ。
天宮を二人から引き離すことには成功した。
「坂本君!」
「天宮は早く逃げろ!」
言ってみたものの、俺たちは体育館と倉庫の間、つまり角に追い込まれているので、逃げようとすればすぐに捕まる。万事休すだ。
「チッ、やっぱ邪魔だわコイツ……さっさとボコすぞ」
リーダー格の男が言うと、三人が一斉に襲い掛かってきた。対処することも出来ず、一方的に殴られ、蹴られた。
こんなにも痛く、そして辛いのは初めてだ。
数分間、その状態が続いた。彼らが攻撃を止めたときには、俺は傷だらけになって気を失っていた。
どうやら、俺は天宮を助けられなかった……守れなかったみたいだ。
ふと、昔の記憶が蘇る。
祖父の言葉、飛んでくる竹刀、面に当たる衝撃……そして、最後の稽古の日に見せた祖父の悲しげな顔。
爺ちゃん……俺、強くなることをやめたから、友達を守れなかった。
爺ちゃんの言うとおりにしていれば、俺は守れたのかな?
ごめんよ……爺ちゃん
「坂本君! 坂本君っ!」
「さっきからうるせぇな……イテッ!」
天宮はリーダー格の先輩に思い切り噛み付いた。噛み付かれた本人は怯む。
その隙を逃さずに、天宮はその場から……逃げなかった。
「誰か! 助けてぇぇぇぇっ!」
大声で叫ぶと、先輩たちは焦り出す。
「ヤベ……さっさとズラかるぞ!」
三人の先輩はすぐに立ち去った。
それから数分後、体育教官室で声を聞いた体育の先生が駆けつけ、俺をすぐさま保健室へ運んだ。先生の声はかすかに聞こえたけど、そこから先はほとんど覚えていない……。
その後目を覚ましたのは、夕焼けが差し込む保健室だった。
最初に目に入ったのは、養護教員の顔と、泣きそうな天宮の顔。
「坂本君! よかった……気がついたんだね」
そう言った天宮は、俺の手を握りながら泣き出す。
天宮だって怖い思いをしたはずなのに……結局助けられてしまった。
「天宮……ごめん。俺、助けられなかった。お前を、守れなかった」
それだけ言うと、俺は静かに涙した。それを聞いた天宮は、首を大きく振って否定した。
「そんなことない! もしも坂本君が探しに来てくれなかったら、あたしは今頃、あの人たちにもっと乱暴されていたはず。坂本君は、あたしを守ってくれたんだよ?」
「でも……結果的に天宮に助けられた。俺は、無力だ」
体の傷よりも、心のほうが痛んだ。
友達を助けられなかった情けなさ、祖父の言うとおりにすればよかったという後悔、無力な自分への失望……様々な負の感情が渦巻いていた。
そんな俺を見ていた天宮は、ベッドに横たわる俺に体を預けた。そして呟く。
「ううん。坂本君は無力なんかじゃないよ?
だって、あたしが囲まれているのを見て、先輩たちの前に飛び出してきた……それって、すごく勇気のいることなんだよ?」
「違う……あれは後先考えずに飛び出しただけだ。勇気じゃなくて、無謀だ」
「無謀だって構わない! ……あたしは、坂本君が来てくれて本当に嬉しかった。
それだけで、十分だよ……」
強いな、と思った。俺なんかよりもずっと強い。
俺だったら、あんな事件のあとにこんなに優しくはなれないだろう。その優しさが、俺の心を締め付けた。
「ありがとう……天宮がそう言ってくれるなら、飛び出たことも後悔しないで済むよ」
「そうだよ……だから、元気出して」
そう言って、天宮は布団の上から俺を抱きしめた。恥ずかしさを感じるよりも、天宮の優しさが胸に痛かった。
俺も、こんな風に強い心が欲しい……強く思った。
しばらくすると養護教員がやってきて、天宮を帰らせた。その数分後には母が迎えに来た。
後で母に聞いた話だと、俺の怪我は幸い打撲と内出血だけで、全治一週間と診断された。
母は大泣きし、帰ってからも寝ている俺の横でずっと見守っていたらしい。




