婚約の条件・消えた足音
次の朝までに一つの記録が動いた。真夜中、南の廊下で扉が一度だけ鳴った。見回りの名簿に欠けはなく、翌朝には机の位置だけがわずかに変わっていた。
父公爵ギヨームは家名と娘の両方を守ろうとして、結局どちらにも明瞭な言葉を与えなかった。曖昧な沈黙は宮廷にとって都合のよい余白になった。
二人の母は違っても、幼いころ同じ温室へ隠れ、同じ教師から叱られた。宮廷が血筋を細かく分けても、姉妹の記憶に境目はなかった。
空席だったはずの礼拝堂で、誰かが寄付箱の錠を新しいものへ替えていた。管理人は王宮の指示だと信じ、王宮側は何も命じていない。
ノエラは晩餐で姉の話題が出ても視線を上げなかった。無関心に見えるほど静かで、その静けさを疑う者はまだいない。
レティシアは鏡の前で口元だけを整えた。笑えば余裕、笑わなければ怒りと書かれる。それでも明日の席へ出ないという選択はなかった。
オスカーは確認できた時刻を欄外へ書いた。記憶は後から整えられるが、鐘の音と受領印は別々の場所に残る。二つが重なるまで事実とは呼ばない。
姉妹のあいだには、幼いころからの合図があった。言葉にすれば他人にも奪われるため、指先やカップの向きだけで、今は話さないという意思を確かめる。
王都の新聞はまだ王家の名を出さず、「ある高位令嬢」とだけ書いた。名を伏せても誰を指すかは明らかで、曖昧さだけが責任を負わずに残った。
反論の機会は与えられているように見えた。ただし期限は短く、必要な資料は王宮が預かり、証人は面会を禁じられている。形式の公平と実際の公平は別だった。
レティシアは人の心を断定しなかった。利害で動く者にも恐れがあり、善意を語る者にも守りたい立場がある。単純な敵を作れば、見落とすものが増えるだけだった。
(本文実測:726字)




