仲間に囮にされて死にかけた俺を救ったのは、知らない孤独な冒険者だった
――ああ、終わるんだな。
空が、やけに遠く見えた。
視界の端が黒く滲み、世界の輪郭がゆっくりと崩れていく。
胸の奥が冷えていくのが分かった。
血が流れすぎて、もう温度を感じない。
腹を裂かれた傷口から、赤いものが土に吸い込まれていく。
温かいはずなのに、身体はどんどん冷えていく。
まるで、自分という存在が地面に溶けていくようだった。
リースは仲間に裏切られた。
囮にされ、見捨てられた。
その事実を、驚くほど静かに受け止めている自分がいた。
「……俺は……こんなもんか」
声にならない声が喉で震えた。
生まれてから、誰にも期待されなかった。
勉強も運動も、人より劣っていた。
何をしても笑われ、何をしても認められなかった。
あの日、木剣の振り方を間違えて、皆の前で転んだことがあった。
土に顔を打ちつけて、口の中が血の味でいっぱいになった。
「ほらな、やっぱり無理だって」
笑い声が広がる中で、誰かが言った。
「剣より鍬のほうが似合ってるぞ」
その言葉に、何も言い返せなかった。
悔しいはずなのに、ただ頷くことしかできなかった。
「お前には無理だよ」
「どうせ続かない」
「できもしないこと言うなよ」
そんな言葉ばかりを浴びて育った。
だからこそ、変わりたかった。
自分を変えたかった。
冒険者になりたいと言った時、
村の誰もが笑った。
「お前が?」
「冗談だろ」
「死ぬだけだぞ」
反対された。
馬鹿にされた。
それでも意地になった。
――俺だって、何かになれるはずだ。
その思いだけで村を出た。
だが現実は、残酷だった。
一人では依頼をこなせない。
魔物を前にすると足が震える。
剣を握る手は汗で滑り、魔法はまともに発動しない。
生活はすぐに行き詰まり、
街で雑用をして食いつなぐ日々が続いた。
それでも、諦めたくなかった。
そんな時だった。
声をかけられたのは。
「荷物持ちが欲しいんだ。来ないか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
分かっていた。
自分が戦力ではないことくらい。
それでも──
仲間ができたことが嬉しかった。
最初の夜、焚き火を囲んで干し肉を分け合った。
「ほら、お前の分だ」
そう言って無造作に投げられたそれを、リースは少し慌てて受け取った。
名前を呼ばれたわけでもない。
特別な言葉があったわけでもない。
それでも――
自分の分がある、というだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
偽りでも、居場所ができたことが嬉しかった。
あの日の自分は、愚かだったのかもしれない。
でも、あの時の自分を責めることはできなかった。
そして今、ここにいる。
囮にされ、見捨てられ、
魔物に囲まれ、
死が迫っている。
「……俺のせいだ……全部……」
偽りの仲間にすがった自分が悪い。
期待してしまった自分が悪い。
死んでも、誰も悲しまない。
誰も気づかない。
誰も覚えていない。
「……もう……いいか……」
――どうせ、誰も来ない。
そう思ったはずなのに。
心のどこかで、ほんの少しだけ期待している自分がいた。
そんな自分が、ひどく惨めで――腹立たしかった。
そう思った瞬間、
ふと、母親の顔が浮かんだ。
母親は、いつも優しかった。
どんなに出来が悪くても励ましてくれた。
冒険者になりたいと言った時も、
ただ一人だけ、笑って言ってくれた。
「いいよ。やってごらん。
いつでも帰っておいで」
その言葉が、胸を締めつけた。
「……母さん……」
声にならない声が漏れた。
死にたくない。
まだ死ねない。
帰りたい。
母さんのところに。
「……帰りたい……」
その瞬間だった。
草をかき分ける音がした。
「……誰か……いるのか……?」
聞き慣れない声。
だが、敵意はなかった。
足音が近づく。
影がこちらへ駆け寄ってくる。
「……おい……! 大丈夫か……!」
その顔を見た瞬間、
涙が溢れた。
見知らぬ男だった。
だが、その目は自分と同じだった。
孤独を知っている目だった。
男は息を切らしながら、こちらへ膝をついた。
「……ひどい傷だな。よく、生きてた」
その声は荒れていたが、優しかった。
リースは唇を震わせながら、かすれた声を絞り出す。
「……どうして……助けるんだ……
俺なんか……放っておけば……」
男は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに言った。
「……昔、俺も同じ目にあった。
仲間に裏切られて……囮にされて……
死にかけてた時……誰も来なかった」
その言葉は、血よりも深く胸に染みた。
男は続ける。
「だから……お前を見捨てたくなかった。
俺がされて嫌だったことを……
誰かに押しつけたくなかった」
リースの視界が滲む。
涙なのか、血なのか、もう分からなかった。
「……俺なんか……助けても……」
「お前が“なんか”かどうかなんて、関係ない」
男はリースの腕を肩に回し、ゆっくりと立ち上がる。
「生きたいんだろ。
だったら……生きろ。
俺が連れていく」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
男はリースを背負い、森の中を走り出した。
魔物の咆哮が背後から響く。
枝が折れ、地面が揺れる。
「……っ、くそ……追ってきやがる……!」
男の息は荒い。
足取りは重い。
それでも止まらない。
リースは背中に揺られながら、
朦朧とした意識の中で思った。
――どうして、この人はここまでしてくれるんだ。
自分は誰にも期待されなかった。
誰にも必要とされなかった。
誰にも受け入れられなかった。
なのに。
「……なんで……俺なんか……」
弱々しい声が漏れる。
男は走りながら答えた。
「俺も……誰かに助けてほしかったからだよ。
あの時……誰かが来てくれたら……
俺の人生は……少しは違ったかもしれない」
その声は震えていた。
痛みを抱えた者の声だった。
「だから……お前だけは……見捨てない」
リースの胸に、熱いものが込み上げた。
――俺は……一人じゃなかったんだ。
森を抜けた頃には、空が赤く染まり始めていた。
男は膝をつき、荒い息を吐く。
「……はぁ……はぁ……
ここまで来れば……追ってこない……」
リースはかすれた声で言った。
「……ありがとう……
本当に……ありがとう……」
男は照れくさそうに笑った。
「礼なんていらないさ。
俺は……ただ、昔の自分を助けたかっただけだ」
その言葉に、リースの胸が締めつけられた。
「……帰れよ。
お前には……帰る場所があるんだろ?」
リースは目を見開いた。
男は静かに続ける。
「さっき……うわ言みたいに言ってた。
“家に帰りたい”って」
リースの喉が震えた。
「……帰りたい……
母さんに……会いたい……」
男は優しく頷いた。
「なら、生きろ。
生きて……帰れ」
その言葉は、
リースの人生で初めて“自分のために向けられた言葉”だった。
男に支えられながら、リースはゆっくりと歩いた。
足は震え、視界は揺れ、呼吸は浅い。
それでも──もう倒れなかった。
「……この道を抜ければ、村が見えるはずだ」
男がそう言う声は、疲れ切っていた。
だが、その背中は揺るがなかった。
リースは、ふと呟いた。
「……ありがとう……
本当に……ありがとう……」
男は少しだけ笑った。
「礼なんていらないさ。
俺は……ただ、昔の俺を助けたかっただけだ」
その言葉が、胸に深く刺さった。
森を抜けた瞬間、懐かしい土の匂いがした。
遠くに、小さな畑と、低い屋根の家が見える。
リースの足が止まった。
「……あれが……俺の家だ……」
声が震えた。
涙が勝手に溢れた。
男は静かに頷いた。
「行けよ。
お前の帰る場所だ」
リースは一歩、また一歩と進む。
足は重いのに、心は軽かった。
家の前で、母親が畑の道具を片付けていた。
夕陽が差し込み、彼女の背中を金色に染めている。
「……母さん……」
その声は、風に溶けるほど小さかった。
だが、母親は振り返った。
目を見開き、道具を落とし、
震える手で口元を押さえた。
「……え……?
……リース……?」
リースは笑おうとしたが、
涙が先にこぼれた。
「……ただいま……母さん……」
母親は駆け寄り、
倒れそうな主人公を抱きしめた。
「おかえり……!
生きて……生きて帰ってきてくれて……
ありがとう……!」
リースは母親の肩に顔を埋め、
子どものように泣いた。
「……帰りたかった……
ずっと……帰りたかったんだ……」
母親は何度も頷きながら、
背中を優しく撫で続けた。
ふと、リースは振り返った。
助けてくれた男が、少し離れた場所で立っていた。
夕陽に照らされたその姿は、
どこか寂しげで、どこか誇らしげだった。
リースは涙を拭い、声を張った。
「……ありがとう……!
あなたが……助けてくれたから……
俺は……帰ってこられた……!」
男は小さく手を振った。
「よかったな。
お前には……帰る場所がある」
リースは胸が締めつけられた。
「あなたは……?
あなたは……どこへ帰るんだ……?」
男は少しだけ笑った。
その笑顔は、どこか痛かった。
「俺は……まだ探してる。
いつか……見つかるといいんだけどな」
そう言って、男は背を向けた。
夕陽の中へ、静かに歩き出す。
リースはその背中を見つめながら、
胸の奥でそっと呟いた。
――あなたも、いつか帰れますように。
その夜、リースは家の布団で眠った。
痛みはまだ残っていたが、
心は不思議なほど静かだった。
孤独だった人生。
誰にも期待されなかった日々。
裏切られ、捨てられ、死にかけた。
それでも──
自分を助けてくれた人がいた。
帰る場所があった。
自分を待ってくれる人がいた。
たったそれだけで、
世界は少しだけ優しく見えた。
リースは目を閉じ、
静かに息を吐いた。
「……生きてて……よかった……」
その言葉は、
誰に向けたものでもなかった。
ただ、自分自身への
小さな、小さな救いだった。




