第一話:観浄
一筋の涙が、頬をついと流れた。
観浄はそれをついとすくい上げ、太陽に照らしてみせる。
濡れた手の甲はきらきらと煌めき、まるで目の前に広がる大海原の水面のようである。
観浄はその場にすっくと立ちあがると、地面についていた衣をぱたぱたと叩き土ぼこりを落とした。
大海原の手前に広がる市を見やる。
母は今日もその中にあって客引きをしているに違いない。
今年で十六になる観浄も、最近ではそんな母の手伝いをするようになった。
母を想い、今日の売り上げを思い、観浄は町はずれの丘をくだってゆく。
ここ、加賀国にも、ようやっと春が巡ってきた。
あたたかな日差しを受けて各地の市は、いまや大賑わいである。
「おい、そこの牙儈女ども」
観浄と母は、自分たちが呼び止められたのだと思い振り返った。
見ると旅人と思われる小荷物を抱えた男が一人、道の真ん中に立っていた。
「はい、私たちのことで」
観浄は母にならってで男にうやうやしく頭を下げた。
「おう、この辺りで旨い海苔を売る店を知らんか。教えてくれたら礼ははずむぞ」
男の言を聞き、母の目がぎらりと光った。
「まぁ旦那様、海苔の一番おいしいお店ときたら、市の北にあります越田屋と相場が決まってございます。ささ、こちらでございます」
母は手慣れた様子で男を案内しはじめた。
観浄は母の無言の指示により、男の小荷物を預かると、二人の後について静かにその場を後にした。
言葉の通り、この辺りの商売にしては、男の払った金は比較的多いものであった。
小屋に戻り懐に袋を開き、音をたてて銭を数える母を見やって、今日の稼ぎはまずまずであると観浄は見当をつけた。
「さ、お前の取り分だ。とっときな」
母はそう言い、びた銭5枚を、観浄に投げて寄越した。
それを受け取りながら、観浄は、「母さん、銭とは面白いのぅ」と、こぼした。
実際、面白いのだ。
誰かが母に、往来で店の紹介を頼む。
母が例によって店を選び案内する。
すると銭が手に入る。
手に入った銭で、我ら母子は衣食住を賄う。
銭は巷をぐるぐると巡っている。
まるで幼いころ寺で聞いた「輪廻」のようじゃ。
観浄はそんなことを思った。
「銭は――有難いものだけれど、恐ろしいものでもあるね」
と母は言った。
その言い方がどこか投げやりだったので、母も若い頃に色々あったのかもしれない、などと観浄は思った。
しばらく母と小屋でのんびりしていると、一人の初老の男が、一頭の馬を引き連れて店の前までやってきた。
男が言うことには、
「自分は近江から来た馬借である。この町を見て回りたいが、案内人を探している。礼ははずむのでいい店を教えて欲しい」
とのことだった。
母は、今日はもう疲れた様子だった。
仕事内容も簡単であったし、こういう場合の暗黙の了解で、母の代わりに観浄が案内することになった。
「そのお仕事、この観浄が請け負いました。して、爺様、お名前は?」
観浄は客引き用にこしらえた満面の笑みをたたえて男に尋ねた。
「ああ、私の名前は鳥絵という。羽ばたく鳥に、絵空事の絵と書く」
そう言うと、鳥絵はにっと、くしゃくしゃの笑みを返してくれた。
その笑顔が本当に素敵だったので、観浄はとっさに、この爺様、只者ではない――と感じたのだった。
引き連れていた馬を母のいる小屋につなぎ、観浄と鳥絵は、加賀の市をぶらぶらと散策することにした。
まず見えてきたのは、越前焼という焼き物がずらりと並ぶ店だった。
店先や棚には、大小の壺やかめなどが所狭しと並んでいる。
「これは圧巻」
「越前焼はな、割れにくい赤い土を使っているからな、独特のいい音がするのよ。水漏れの心配もいらねぇ、丈夫な器をご所望のお客様にはもってこいでございますよ」と、店先で客引きの若い男が呼びかけている。
鳥絵は懐から書くものを取り出すと、さらさらと何やら走り書きをし始めた。
案外、商売熱心な老人なのかもしれない。
鳥絵のそんな様子を傍目に見ながら、観浄はそんなことを思うのだった。
市は、実に様々な人でにぎわっていた。
往来では、「國嶋屋」という看板を引っさげた麴売りが威勢のいい声を張り上げており、道の反対側では枕売り、笠売り、鉢叩きなどがずらりと並んで同じように客を呼び込んでいた。
観浄にはいつもの風景であったが、鳥絵にとっては物珍しかったようで、あちこちの店や売人に声をかけては、やはり何やらさらさらと走り書きのようなものをしていた。
一通り市の案内が済んだ頃には、もう日が暮れかけており、観浄と鳥絵は、町のはずれの社の石垣に腰掛け一休みをとることにした。
「観浄、おぬし、女子にしては目端がきくな。将来は母親の後を継いで牙儈になるのか」
鳥絵が、腰に提げていた竹筒を口にやりながらそんなことを言った。
「それしか生きる道を知らないからね、そうなるだろうね」
と、観浄は関心がなさそうに答えた。
「そうか。それでは、今後の商売の助けにもなるかもしれぬし、私の若かった時の話をしてやろう」
そう言うと、鳥絵は昔話を始めた。




