よるのなまえ
私は今夜、名前を失くした――
夜行列車に揺られる身体を、気怠く持ち上げる。
周りの客の寝息が、遠くまで波のように続いている。
車窓に広がる街の灯りは、少しずつ形を崩しながら、確かに私の身体を運んでいることを報せる。
遠出には似つかわしくない小ぶりなリュックから、携帯電話を取り出す。
画面の中には、数えきれないほどの通知が並んでいる。
指先でひとつ、またひとつと確かめるようになぞりながら、しばらくそれを見つめていた。
もう二度と出会わないと決めた名前たちを、ひとつ、またひとつと愛撫した。
自分の身体が、少し軽くなった気がする。
色々なものを脱ぎ捨てたからか、それとも、ただ空になっただけなのか。
違いはよくわからないけれど、ただ、胸の奥にあった渋みだけが、いつの間にか和らいでいた。
列車がトンネルに入り、闇の中に自分の顔が浮かぶ。
窓に映る輪郭は、オレンジの照明と重なりながら、どこまでが自分なのか判然としない。
私という存在が、小気味良い反響音の中へと消えていく。
見つめているうちに、過去の名前も、これからの名前も、同じ濃度で曖昧になっていく。
私という形もまた、その中に溶け込んでしまっただけなのかもしれない。
静かなアナウンスが、この列車の行程を告げる。
聞き取れたはずの言葉は、硬い繭に包まれたように、意味だけを残して通り過ぎていく。
誰かに背中を触れられたような気がして、私は小さく息を整えた。
肌に残る様々な指先の感触が、痣のように浮かび上がる。
知らない街で、知らない自分を演じる。
そう思っただけで、胸の奥がわずかに震える。
とっくに慣れたはずなのに、それでもなお、原始的な嫌悪に吐き気がする。
窓の外では、まだ名も知らない灯りが、いくつも瞬いていた。
硬い座席に身を預ける。
弾力のないシートに、今の自分を重ねたりする。
何故だか愛着の湧く、不思議な感覚。
――私は今夜、名前を失くした。
【※この先は、作者による作品解説です。
自己解析・自己考察を含みます。
読後の余韻を大切にされたい方は、ここで読むのをお止めください】
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まず率直に、この作品の主人公は、風俗嬢です。
事実ベースで、風俗を生業とする子の中には、街(県)を渡り歩く子がよくいます。
連絡先を消し、今までの自分を消し、名前を変え、新たな街に移る。
救いなどあるはずなく、そこにあるのは、ほんの小さな幸せと、他人より多くのお金、そして、新たな不幸を抱きしめる覚悟です。
そういった人間の、孤独や心情を、思い描いていただければと思います。




