発見
目の前の情報のすべてを捨てている。
机の上に開いた教科書。奥まで並ぶ人の髪。黒板の文字。教室を照らす照明。すべてを見て聞いて、そのそばから捨てている。視覚、聴覚、触覚、自分の感覚でさえも、いま、捨てている。
まるで目が覚めたかのように、捨てていた感覚を急激に取り戻し、まわりを見ると、いつの間にか授業は終わり、さらには下校時間になっていた。自分の時間感覚に少し戸惑いつつも、すぐに荷物をまとめて席を立つ。
人の声と足音がそこらじゅうに広がっている。自分の足音もその一部で、他より特に速い音の一つだった。階段を降りるのも、下駄箱から靴を取るのも、それを履き替えるのも、まったく意識をせずに行えている。まだ感覚を捨てたままなんだろう。まるで工場で稼働している機械みたいだ。
流れる人混みをうまく避けて外に出ると、昨日の雨が遺したものか、降ってもいない雨の薫りが体にまとわりつく。もう、六月か。宙に浮かぶ湿っぽさをかきわけることもできずに歩いていく。鞄と接している背中に、じわりじわりと汗があつまる。その不快さをわかりながら、それでも歩みをゆるめず、同じように学校から出ていく人たちとは、ほとんど真逆の方向へ進む。
住宅街を抜けると、次第に景色が開けていく。風に揺れる草木の声が聞こえる。粗いアスファルトの舗装から、石の敷き詰められたより粗い道へと姿が変わる。この先どこまでも続く田んぼの、まるでその邪魔をするかのように隣接している小山、その頂上が、僕の目的地だ。
まだ乾ききっていない土を眺めて、木もれ日に愛でられながら、なだらかに上を目指す。暗い土の色と、枯れ葉を踏み歩くざくざくとした音と感触が、気分を妙に落ちつかせる。
登って五分とかからず頂上にたどり着いた。正面に見える自然の一体が、窓枠のようにして風景を閉じ込めている。そばには、古木のベンチがさみしそうに置かれているので、いつものように腰かける。鞄をベンチに置いて、ふう、と息を吹く。そのまま目を閉じて、風に揺られて、太陽にあたためられて、ゆっくり、意識をなくしていく。思考だけは、残せるようにして。
突然、後ろからざくっ、という大きな枯れ葉を踏み抜いたような足音が聞こえ、意識を呼び戻して、人が来るのはめずらしい、と思い、つい振り返ってしまった。
「は?」
裸の女性が虚ろに歩いていた。頭のてっぺんからつま先まで、何もかもが生まれたままの姿で、それもなぜか、意識すら希薄のような虚ろな目をして歩いていた。
「はあ?」
再度声が出る。あまりの出来事に、それだけの反応しかできなかった。
「え?」
こんどは露出狂の女性がこちらの反応に気づいた様子で声を漏らす。すると虚ろだった目を一気に輝かせて、晴れやかな笑みを浮かべながらこちらへ近づいてくる。
「え〜!! 君、わたしの姿が見えるの!!」
「見えるも何も、見せてるのはそちらでしょう!?」
「いや違うの! 違うんだよ!!」
「何が違うんですか! 警察呼びますからね!」
家族との連絡用にスマホを持ってきていてよかった。動揺する体を制御しながら、急いで鞄からスマホを取り出し緊急通報を起動させる。
「え! ちょちょ、ちょっとまって! わたしホントに違うの! わ、わたしずっと透明人間で、だれにも気づいてもらえなくてそれで——」
「何をわけのわからない言い訳してるんですか! もう聞きませんよ! 警察に電話かけますからね!」
「あ〜! ま、まってよ! ホントにちょっとだけでいいから話聞いてよ!」
「あっ、もしもし——」
「あ〜もうこうなったら……!」
えいっ、という掛け声とともに耳に当てていたスマホを強奪された。動揺と油断から警戒をゆるめてしまっていた。まさか罪を重ねるとは思えなかった。窮鼠猫を噛むとはこのことか。一瞬何が起こっているのかの理解が遅れ、事態を把握したときにはすでに距離を離されてしまっていた。
「すいませ〜ん! 間違い電話です!」
堂々と虚偽を報告している声が聞こえる。こちらも慌てて後を追う。走りなれていないこの体が憎くなってくる。目に見えた距離こそ離されないが、十秒、二十秒と重ねるたびに、だんだんと背中が小さくなるのを感じる。おまけに体力差もあるようで、露出狂は常に笑顔で、ときおり後ろを振り向き楽しげな笑い声を撒いて余裕そうにしているのに、こちらはもう息絶え絶えになってしまっている。気を抜けば立ち止まってしまいそうだ。
二分と経っているころには、追走劇の舞台は住宅街へと移っていた。通行人からの視線を感じる。特に、怪訝そうな顔もちをこちらに向けているのを感じる。誰か代わりに通報してくれていたらいいのだが、その様子は見られなかった。
「ほらほら! 全然追いついてないよ!」
スマホを持っている手を高く挙げ、振り向いて挑発をしてくる。意味がわからない。なぜ笑顔でいられるんだ。
前方に注目すると、交差点にさしかかり、ちょうど赤信号になったところだが、露出狂は以前として振り向いたまま、前に注意を向けていない。
「ちょっ……赤信号……!」
警告はむなしく空を切り。
「ぎゃん!!」
初めて人のはねられた音を聞いた。周囲の時間が明らかに止まった。
「いや〜興奮しちゃっててまわり見てなかった……ごめんなさ〜い……」
露出狂は何もぶつかっていなかったかのようにむくりと立ち上がった。それほど速度は出ていない車だったが、その程度で済むとは思えない事故だった。まして服すら着てもいない始末だ。
そのままとぼとぼと近づいてきてスマホを差し出してきた。
「スマホとっちゃってごめんね……一応傷はついてないみたい」
「いや、そういう問題ではなくて……」
「そのスマホ、あんたのかい?」
露出狂を轢いた車の運転手が降りて話しかけてきた。
「え? いやまあそうですけど……それより人が……」
「あ? 人? 俺はあんたのそのスマホを轢いちまったと思ったんだが」
「はい?」
「それよりあんた、魔術師かなにかかい? あんな浮いたスマホなんて初めて見たぞ」
「いえ……ただの一般人です……」
「魔術師はわたしなんだよねえ……」
言っている場合ではないだろう。
「浮いたスマホが飛び出してくるかもしれない運転なんて、できっこねえよなあ。あんた、スマンな。スマホも無事なようだし、許しくれんか?」
「え、ええ、いいですけど……」
「おう、ありがとな。魔術師くん」
そういうと運転手は車に乗りなおし、何事もなかったかのように発進した。ちょうどよく信号も元の色に戻っており、周りの車も続くように動き出した。
「ホントにごめんね。ちょっとゆっくり話したいから、さっきの山に戻ろっか」
露出狂に話しかけられ、言われるがままについていった。そういえば、あそこに鞄も置いたままなので、都合がいいか。
特に会話もないまま、先ほど出会った小山の頂上まで移動した。着いてまもなく、先に話を始めたのは露出狂からだった。
「さて、さっきも言ったと思うんだけど、わたし、透明人間なの」
「いや、透明人間ってだけじゃ説明つかないことも起こってましたよね」
「あ〜……はは、そ、そうだね……いや〜あれはその、なんというか、透明人間であると同時に、不死身? というか? 怪我しない体になったんだよね〜……」
「それ、透明人間の範疇におさまってるんですか……?」
「おさまってるよ、たぶん。そ、それでね、わたし透明人間になってから、人に認識されなくなっちゃって、今日君と会うまでだれともおはなしできなかったの」
「認識されない、ってなんですか」
「言葉のとおり、服を着てても人ってわかってもらえないし、なんなら『透明人間です』って書いた紙を持っててもだれも人だって認識しないの。だからだれとも話せないし、服着てるとみんな驚いちゃうから、服着てなかったの」
「さっきのスマホみたいに、服が浮いてるって認識されるってことですか」
「そう! だから、ずっとさみしくって、だれかわたしのこと見える人いないかな〜って歩いてたら、君に見つけてもらったの! それでつい興奮しちゃって、あんなことになっちゃいました……すいません……」
なるほど、露出狂ではなかったのか。それにしたって、透明人間ということは信じがたい。運転手や、通行人の反応からも、本当にこの人の姿が見えていないというのはわかったが、小山までの道中、僕がスマホを持っていたから、誰もこちらに視線を向けなかったから、とそんなことを考えていたら、また女性が話を始めた。
「あの、もしよかったら……これからずっと、君についていってもいいですか……? もう、ひとりは嫌なので……」
逡巡もせず、答えた。
「まあ、いいですよ」
「え、ホントに!? やったあ!! ありがとうございます!!」
別に、僕の日常に、人がひとり増えたからといって、さして影響もないだろう。それなら、断る理由もない。
「あ! そういえば名前も聞いてなかった! わたし水模! 君は?」
「あ、包否、光矢です」
「じゃあ、光矢くんって呼んでいい?」
「いいですよ」
「ありがとう! 光矢くん高校生? それ制服だよね!」
「あ、高校二年生です」
「え! じゃあ何歳?」
「十七歳です」
「じゃあ同い年だ!」
そう言うと、水模さんは手を差し出した。僕もそれに応えて、握手をする。
「これからよろしくね! 光矢くん!」
「……よろしくお願いします」
小山から、太陽の落ちる瞬間がよく見えた。