第二章: アリシア
きゃーっ!と路地の奥から魂切るような悲鳴が聞こえたかと思うとほっそりした女性が俺のそばを駆け抜けていった。その後からドタドタと下着だけのおっさんが剣を振り回して追いかけてくる。
「待て待てい!わしはもう金を払ったんじゃから黙っていうことを聞け!」とか叫んでいる。
さすがにみっともなさすぎだし、もし剣を振り回しながら大通りに出たら通行人に迷惑である。しかも下着姿である。きっと頭に血が上ってまともな判断力をどこかに置き忘れてきたのだろう。
走ってきたおっさんにヒョイと足をかけると見事に足に引っかかってバランスを崩したおっさんは体勢を維持することができずにスッテーンと見事に転んでしまった。
危ないので振り回していた剣は足でさらに蹴り込んでおっさんの手の届かないところに蹴飛ばしてしまった。
「なっ、なっ!ワシは男爵様、貴族様だぞ!お前みたいな平民など無礼打ちできるのだ!」
「あんた、自分の格好を見てみろ。そんな下着姿で大通りに出たらおっさんの方が捕まるぞ。大恥もいいところだ。」
後ろから追いついてきた執事みたいなひょろっとした男に同じことを言ってこのまま大通りに出て恥をかきたくなかったらとにかくこのまま退散したほうがいいというとその男はこちらに一礼した後、下着姿の男に向かって「さっ、旦那様。もう娘は大通りに逃げてしまいましたよ。そんな下着姿で大通りに出たら大恥もいいところです。さあ、近くに馬車がありますからそこで着替えましょう。」
おっさんはそれを聞くと立派なヒゲに鼻水を垂らして泣き始めた。
なんなんだ?このおっさんは。
けれども、執事らしき人は更に「あの娘は確かに美人ですけれどね。年齢はまだ10歳くらいでしょう。そんな子供を毒牙にかけるのはロ◯ですよ。◯リなんて悪評が立ったらもう夜会で噂話で持ちきりになりますよ。以前、針の筵のようになったアレを覚えていらっしゃらないのですか?」と追い打ちをかける。
「さあ、人目につかないうちにさっさと退散するのが正解ですよ。」
執事も大変である。いい歳をしたおっさんに子供に言い聞かせるようにしてなんとか移動させている。
いくらなんでもあんな仕事は嫌だよなあと二人を見ていると、執事らしき人はもう男爵を引きずるように動かしながら角を曲がって消えていった。
貴族というのもアレだなあ。ジャンは貴族というと、年に一回くらい訪れる公爵夫人しか知らない。彼女は孤児院のパトロンとして財政援助をしている。そのため孤児院の状況を視察するということでやってくるのである。その日ばかりはきちんとノリの効いたブラウスを着せられて公爵夫人の前に並ばせられるのである。そして代表の子が公爵夫人にご挨拶するのである。
公爵夫人も心得たもので子供のご挨拶を聞くとすぐにシスター・エレノアの方に行ってしまう。なので子供たちが必要以上にストレスフルになることはなかった。
そう考えるとジャンの考える貴族というのは大人のイメージだった。けれども件の男爵は子供っぽいのである。
ジャンがそんなことを考えていると、後ろから「ねえ、ありがとう」という声が聞こえた。
振り向くとさっきの女の子がいた。どうやら逃げていたのが戻ってきたようだ。
「助けてくれてありがとう」
「気にしないでいいよ」
「私はアリシアというの。あなたはなんていう人?」
「ああ、俺はジャンだ」
「そ、その、私はそんなふしだらな女じゃないんだからね。」
「誰もそんなことは言っていないよ。」
アリシアはちょっと顔を赤らめて俯いてしまった。
「多分もうあの男爵はいないと思うけれど、心配だったら送ろうか?」
「お、送ろうかって私がどこに住んでいるか知っているの?」
「そりゃ知らないよ。教えてくれる?」
「ば、ばか。だいたい私だってあなたのことは知らないわよ」
「だから俺はジャンだって」
「名前だけ聞いても何もわからないじゃない。」
「他に何が知りたいんだい?」
「そりゃ、どこに住んでるかとか、何してるのか…とかじゃないかな」
「それならそこのカフェにでも入る?何か飲みながら話そうか?」
「うん」
二人は近くにあったカフェに入って空いているテーブルに座った。
店主は無愛想なオヤジだったけれど、出してきたチョコトルテと紅茶は美味しいものだった。
「さて、何が聞きたいの?」
「まずはあなたが何しているかよね。」
「冒険者だよ。ただし、うちのパーティは薬草採集がメインだからモンスターや魔獣とは戦わないけれどね」
「戦ったら強そうなのに」
「最初から戦わないっていう約束でパーティに入ったわけだから」
「へえ、面白いね。最近は勇者パーティがどんどん魔獣を狩って有名になっているんじゃないの?」
「彼らとは住む世界が違うからね」
「いろいろあるのね。そういえば勇者パーティの勇者って孤児院出身だというけれど冒険者って孤児の人が多いの?」
「ああ。そのあたりはよくわからないね。冒険者のプライベートは詮索しないのがマナーだから。」
実際には俺の冒険者人脈って孤児院のものだから知り合いは孤児がほとんどである。だけれどもそれを軽々に明かす必要もない。
「あら、じゃああなたのことも聞かないほうが良かったのかしら」
「本来はね。でも今は俺が誘ったわけだから。」
「今後は気をつけるわ」
「で、孤児についてはトゥラニア辺境伯領の問題がある。王家はスタンピードで魔獣の犠牲になって親が殺されてできてしまった孤児たちを支援しているというよ。」
「ああ、だから孤児が勇者になったり聖女になったりしたのね。ギフトの検査って普通は貴族とか裕福な平民だけが行うものだから」
「まあ、そうだね。もしかしたらあの勇者も普通の村人ならばギフト検査を受けることもなくそのまま一人の村人としてその人生を過ごしたのかもしれない」
「あの聖女もただの村娘で終わっていたかもしれなかったっていうならばあの勇者パーティは国王に感謝すべきなのかもね。」
「それはもう神の配剤というしかないね」
ジャンは自分のギフトが「なし」もしくは「不明」というのも皮肉な神のいたずらなのかもしれないと思いながら会話を続けたのである。
「でね、私は聖女見習いなの。それで街に出る仕事もあるのだけれど、今日みたいに暴漢にあうなんて怖いじゃない。」
「そりゃそうだ。」
「で、またあんな卑劣漢に会うのは怖いから護衛をしてほしいかな、なんて。あ、そうそう、報酬は大神殿から出るので間違いはないわよ」
「うーん、一日とかの単発であれば可能かな。長期間の護衛ならばパーティの仕事と重なるから無理なこともある。」
「大丈夫。基本は一日とか半日だと思うわ。」
「それならば冒険者ギルドの方に依頼を送ってくれれば返事できると思う。」
「じゃあ今後よろしくね。」
アリシアはチョコトルテを堪能した後、俺に護衛されて神殿まで帰ることになった。
神殿に着くと神官がお出迎えしてきた。やはりホンモノの聖女見習いといったところか。
アリシアは「怪しい男爵に襲われかけたのでこの冒険者さんに助けてもらったの。」とちょっとイケメンの神官に言っている。
「で、今後、外出する時にはこの人を護衛に雇うからギルドに依頼を出してちょうだいね!」
神官はやや困った顔をして俺に「今なら神聖騎士団の下働きを募集しているのですが、そちらに来ませんか?」と聞いてくる。
「いや、俺って今パーティ組んでるので勝手に抜けるわけにはいかないんです。」
神官はやや困ったように眉尻を下げて「そうですよね。私は神官のマルコと申します。もしかすると冒険者ギルドに依頼をかけるかもしれませんがその時はよろしくお願いします。」と丁寧な口調で語りかけてきた。
後ろでアリシアが「じゃあジャン、今後ともよろしくね。」と挨拶して奥の方に廊下を去っていった。
俺も「じゃ、俺も引き上げます。」と誰にともなく挨拶をして引き上げることにした。
♢♢♢
その後はニールやヘンリエッタたちと薬草採集のクエストをこなしたり、たまにアリシアの護衛任務についたりした。
アリシアの護衛は報酬はそれほど良くなかったが、主に王都の中の仕事だったし、あの◯リ男爵も現れなかったので気楽な小遣い稼ぎだった。
その間に色々話をして俺が孤児院出産であることはバレてしまった。というより神殿も俺を護衛に雇って大丈夫なのか調査した結果をアリシアも知っていたということだろう。
一方でアリシアも自分の身の上を話してくれた。家名は明かしてくれなかったが、彼女はさる子爵家の十番目の娘さんなのだそうである。
「だからね、子爵家の財力ではとても私には結婚の持参金を用意できないんだって。」
彼女はギフト検査で白魔術があったということで神殿に送られたそうである。
「体のいい口減しよね。でも家に残っても厄介者扱いなのはわかっていたし新しい世界に挑戦することにしたんだ」
アリシアはちょっと寂しそうに微笑んでそう言った。
あのロ◯男爵はアリシアを神殿で見かけて一目惚れしたか何かで横恋慕していたようである。多分、神官の誰かに賄賂を渡して男爵に襲わせて拉致させるように仕組まれたらしい。
「もうフリーダが聖女認定されちゃったから神殿も今の聖女見習いはいらないんだよね。」
アリシアはちょっと悔しさを滲ませながら言う。
「もう聖女が決まっている後の私たちならそうやっていなくなっても適当に『逃げた』とか言って闇から闇に処理されても神殿もまともに調べようともしないってたかを括っていたのでしょう。」
「そういうこともあるのかなあ。神殿だから正義の信奉者だと思っていたよ。」
「そりゃいくら神殿と言っても動かしているのは人だから。でもあんな変態じみた脂ギッシュなおっさんの後妻に売られるなんて嫌よ。私にだって相手を選ぶ権利があるわ。もう神殿に移った私にとっては貴族同士の政略結婚じゃないんだから。」
「そ、そうだね」
アリシアって結構ズバズバいうタイプであるようである。俺なんて恋人いない歴=年齢(まだ11歳だからね)なんだからそんな大人の階段はまだ登っていないんだ。だからそんなこと全然わからないよって言いたくなる。いかん、ちょっと話を変えよう、
「あの、アリシア?俺の剣の師匠が最近、全身に激痛があって体が動かせずに寝込んでいるんだけれどそんな病気って誰に聞いたら治せるかな。」
「へえ、私は医師や薬師じゃないけれど治療もしているから診てあげられるわよ。」
「そ、それはありがたいけれどそんなにお金がないから神殿の規定料金が払えるかどうか。」
「もう、水臭いわね。そんなの私とジャンの仲でしょう。代金なんて取らないわよ。」
「それは助かる。」
「じゃあ、今日の仕事は終わったから、今からいきましょう。」
「え、今から。」
「そうよ。私も私なりに忙しいのよ。今からなら時間あるから都合がいいわ。じゃあジャン、ちゃんとエスコートしてね。」
アリシアは俺の腕を取ってもう鼻歌交じりで歩いてゆく。
アリシアはなんだかもうデート気分だよな。
チャーチワード孤児院はここからはそんなに遠くない。上機嫌のアリシアと腕を組んで十数分歩くと見慣れた孤児院の建物が見えてきた。
門を潜ると俺をみつけたガキどもがやって来る。
「ジャン、その女の人誰?」
「もしかして彼女?」
「えっ?結婚するの?」
なんて口さがなく聞いて来る。
「えっとお、この人は俺が護衛している雇い主だから」としどろもどろに言い訳しているとアリシアが「そうなのよ。私ジャンの恋人なのよ」とか煽るようなことを言う。
「おいっ、聖女見習い様が恋人とか言うな。」
ガキどもでもちょっとませた女子たちが「きゃーっ」って黄色い声をあげる。
「ジャンってね。ちょっとヘタレだけれど剣も強いし結構お値打ち品だよ!」って別の女の子が叫ぶように言う。
おいっヘタレってなんだよ。
当然口には出さない。心の中だけで毒づくしかない。
「そうよねえ。この人、だから護衛にお願いしているのよ。」
アリシアは嬉しそうに喋っている。
「どうしたのですか?」
騒ぎを聞きつけたシスターたちがやって来る。
シスターたちがガキどもに「今は綴り方の時間じゃないのですか?」と言うと、子供たちは「わー逃げろー」とか騒ぎながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
教育係のシスターが「はいさっさと教室に集まる!」と声を枯らして子供達を誘導している。
俺はシスターに「この方は聖女見習いのアリシア様です。イアンの病気について診てもらおうと思いまして。」と説明する。
シスターは「ああ、そうですね。私も心配していたのですが孤児院には医師や医師に診せるお金がなくて」と嘆くように言う。
アリシアは「大丈夫です。いつもジャンには護衛をお願いしてお世話になっています。今回は無料で見ることにしています。」とシスターに言う。
シスターは「ああ、神に感謝します。アリシア様にもイアンにも神の恵みがありますように。」と祈りの言葉を捧げてくれた。
アリシアは「さあ、イアン様を診察しましょう。案内してください。」と俺を促す。
さすがに聖女見習いである。その凛とした佇まいには思わず土下座したくなる人の気持ちがよくわかる。
イアンの部屋でアリシアはイアンの様子を見て少し硬い顔で「これはクーデルゲル病ですね。痛み止めのお薬が必要でしょう。」と告げて薬を調合し始めた。
「クーデルゲル病…」
俺が呟くとアリシアは言った。
「そうです。勇猛なよく訓練された騎士たちがかかる病気です。多くの騎士たちはその自制心から痛みを我慢し続けますが、痛みを抑える薬はこの病気に侵された騎士たちに取っては救いになるでしょう。」
「治るのですか?」
俺はアリシアに聞いたが彼女は黙って微笑むだけである。
「エドワード様。大丈夫ですよ。私の尊敬する多くの騎士たちも痛みを堪えながら神のみもとに旅立ったのです。私も同じように神のみもとに逝ける日が今から楽しみなのです。」
「イアン、そんなこと言うな。またよくなって剣の指導をしてくれよ」
「ああ、聖女様のお薬はよく効く。痛みがずいぶんと楽になりました。」
「薬が効く時間は限られていますが、それでも痛みが和らいだようでよかったです。」
「エドワード様。もう私はあなたを守ることはできません。なので王家に連絡を入れてあなた様を保護してくださるようにお願いしています。それと、お父上の弟君が法衣貴族として王宮にお仕えしていらっしゃいます。その方にも連絡を差し上げていますのでいざという時にはご助力いただけると思います。」
「イアン、俺にはエドワードの記憶はないんだ。いきなり王家って話がデカすぎる。」
「聖女様にもエドワード様にご助力の程をよろしくお願いします。エドワード様はトゥラン辺境伯のご嫡子の証であるペンダントをしっかりとお持ちになっておられましたので疑う余地はございません。」
そう言うと、イアンは疲れたのか目を閉じてしまった。
「ジャン、イアンは疲れたみたいだから別の部屋に行きましょう」
アリシアは俺の肩を抱くようにして言った。
「あなたの本当の名前はエドワードっていうのね。」
「イアンはそう言っている。俺には名前の記憶がないから本当のところはわからん。ジャンはここのシスターがつけてくれた名前だ。」
「どちらも素敵な名前よ。大事にすべきだと思うわ。」
「ありがとう。」
「イアンはさっき言ったけれども、高名な騎士だったのでしょう。メチャクチャに鍛え上げた騎士たちはクーデルゲル病に罹って亡くなる人が多いと言われているわ。彼らは痛みを訴えないけれど、身体中に激痛が走っているから痛み止めで苦痛を緩和するしかない。今の所、直す方法は見つかっていない病気なの。だから騎士たちはそれほど長生きできないことが多いって言われているわ。」
「ああ。彼にはずっと世話になった。最後まで看取るのが俺の役目だと思っている。」
「辛い時にはちゃんと私に相談してね。一人で悩んでいちゃダメだよ。」
「うんわかった。ありがとう。」
「じゃあ私は神殿に帰るから護衛よろしくね。」
それから二人で神殿まで歩いた。
ほとんど何も話さなかったけれど、俺はアリシアがいるということだけでずいぶん救われたような気がしたのであった。