第87話~過去の出来事~
今では『神楽』という立派な苗字がついているが、昔はそんなものはついてなかった。
ただ名前だけしかなかった。
両親の顔なんて知らないし、そもそもいたかどうかすら分からない。
気がつけば、小さな孤児院の中の隅っこに一人ぼっちでいた。
過去の記憶もなかった。
早い話が、孤児だ。
ある日、『神楽』と名乗る謎の中年の男性が孤児院に訪れ、俺を引き取りたいと言ったそうだ。
なんでも、女の子しか生まれなかったので、男の子が欲しかったらしい。
それも、『龍』と名のつく者を。
『神楽』は代々、『龍』と名のつく男子を次期当主とするらしいのだが、女の子しか生まれず、これ以上子供をつくるは体力的に辛い年なっていたらしく、それで養子を探していたらしい。
『おお、素晴らしい・・・・・・この子こそ、我が神楽家を継ぐのに相応しい・・・・・・!』
俺を見た『神楽』の者は、そう叫んだらしい。
俺の意見なんて誰も聞かず、あれよあれよという間に養子にされ、気がつけば大きな屋敷のような所に来ていた。
その日から、俺を当主とするための訓練の日々が続いた。
『龍稀よ、よく見ておきなさい。これがお前の継ぐ、我ら神楽家のみに伝わった秘伝の剣術だ――――――』
顔に当たる、冷たい何かで目が覚めた。
景色が傾いている。どうやら横に倒れているらしい。
上体を起こし、辺りを見回す。
空は真っ黒で、激しい雨が降っている。
周りは、灰色のコンクリートの壁しかなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
ここは行き止まりらしく、道が一本しかない。
・・・・・・ここを進めという事か。
他に道がないのなら、進むしかないだろう。
灰色の一本道を、歩く。
景色は変わらず、ただひたすらに灰色のコンクリート。
変わらない景色の中、ただずっと歩く。
ピチャリ。
「ん・・・・・・?」
変わらない景色の中を歩いていると、ふと、足元から音がする。
水溜りを踏んだような音だ。
下を向いてみれば、そこにあったのは。
「・・・・・・何だよ、こりゃ・・・・・・」
そこにあったのは、赤い水溜り。
灰色の地面を塗り替えるように、赤色がじわじわと流れていた。
そして、そこから香る、鉄のにおい。
・・・・・・これは、血か・・・・・・?
「・・・・・・この先に、何があるんだ・・・・・・?」
血が流れている、という事は・・・・・・。
この先に進む事に、少し躊躇いが出た。
今なら引き返せるかもしれない。
ここが『アイツ』の見せた夢の世界ならば、頬をつねれば、元の世界に帰れるかもしれない。
・・・・・・それでも、行かなくてはならない気がした。
「行くしかない、ってか・・・・・・」
息を深く吸い――――――鉄のにおいに少しむせた――――――瞳を閉じる。
少し間をおいた後、吸った息を吐きながら、閉じた瞳を開く。
「・・・・・・よっしゃ。じゃ行ってみるか・・・・・・」
ピチャリ、ピチャリと血溜まりを歩く。
真っ赤な液体が、流れてくる方に。
やがて、最も生臭く、そして最も血の量が多い場所にたどり着いた。
そこは、公園のように広かったが、土管がいくつかあるだけで、他に何もなかった。。いわゆる空き地というやつだろう。
そこだけ灰色のコンクリートではなく、茶色い土の色をしていた。
・・・・・・ただ、流れる血のせいで中途半端に赤く染まっているが。
土の少し上を見れば、山と積まれた柄の悪い男たちがいた。
遠くから見れば死んでいるように見えたかもしれない。
何せ、流れる血は、その男たちから流れていたのだから。
ただ、近寄ってよくよく見てみれば、微かに呼吸をしていることから、一応生きてはいるらしい。
そして。
その男たちから少し離れた所で、座りうずくまる、見覚えのある人がいた。
『ソイツ』は。
腰まで伸びた長い黒髪を、うなじ付近で紐で結っていて。
真っ白な肌をしていて。
どこまでも、俺にそっくりな奴だった。
・・・・・・いや、この場合、俺か?
『ソイツ』は、まるで現実を見たくないと言わんばかりに頭を抱え、うずくまっていた。
その姿は、殻に閉じこもっている様を思い浮かばせる。
分かりたくもないが、状況から察するに、この男たちを傷つけたのは俺だろう。
といっても、過去の俺か。
小声で何かを呟いているが、あまりにも小さい声なので聞き取れない。
微かに聞こえるのは、『どうして』『俺は悪くない』。
この現実が受け入れられないのだろう。
まあ、誰だってそうだろう。
無数の男たちに死ぬかもしれない傷を負わせたのだ。受け入れられるはずがない。
そんな事を考えていると、ふと、誰かが近づいてくるのが分かった。
何故かは分からないが、俺は近くにおいてあった土管の影に隠れる。
何故か、これからここへ現れる人に見つかってはいけないと。
そんな気がした。
しばらく待っていると、誰かの足音が近づいてきた。
見つからないように注意しつつ顔の位置をずらし、足音の正体を探る。
やって来たのは、少女。
幼い顔つきから、年齢は若いらしい。
『――――――!―――!―――!!』
少女が、過去の俺に向かって何かを叫んでいる。
普通に聞き取れる距離のはずなのに、何故か聞こえなかった。
自分自身が、声を聞くのを拒絶しているような錯覚が起きた。
『・・・・・・。・・・・・・、・・・・・・』
過去の俺が、何かを呟いている。
やはりそれも、聞き取れない。
ただ、唯一聞き取れた言葉があった。
『人殺し・・・・・・!』
少女は、そう言った。
過去の俺の肩が、ビクリと跳ねた。
本当は誰も死んでいない。
ただ、重症なだけだ。
無性に少女に説明したくなったが、身体が動かない。
『ひとごろ、し・・・・・・?』
過去の俺が、搾り出すように呟く。
『――――――!――――――、――――――!』
そして、再び、少女の声が聞き取れなくなる。
過去の俺が勢いよく立ち上がり、何かを叫んでいる。
それも、聞き取れない。
少女が叫びながら過去の俺に歩み寄る。
過去の俺は、目を大きく見開きつつも、少女に反論するかのように叫ぶ。
聞き取れない。
少女が叫び、過去の俺が叫び、また少女が叫ぶ。
ずっと、このまま続くのかと思っていた。
その叫びは、突然途切れた。
『あ、かっ・・・・・・はっ・・・・・・!』
少女の、苦しそうなうめき声で。
過去の俺が、少女の首を絞めていた。
その眼は、酷く無機質で。
その表情は、酷く機械のようで。
少女が苦しむ姿を、ただ眺め続ける。
感情の無い顔で。
やがて、少女の首が、力なく傾く。
それと同時に、過去の俺の瞳に、色が戻る。
少女の首を絞めていた手が、かたかたと震えだす。
と同時に、力が弱まったせいか、少女の身体が地面に倒れる。
顔は青く、今にも死んでしまいそうだ。
そんな少女の姿を見て、過去の俺は、自分の身体を抱きしめるように腕をまわす。
その身体は、震えていた。
『・・・・・・ん、で・・・・・・』
小さく呟く、過去の俺。
『・・・・・・なん、で・・・・・・!?』
徐々に大きくなる、叫び。
『――――――!!』
叫びを聞いたかと思うと、俺の意識は再び闇の底へ沈んでいった。