2話 【私】のトラウマ
「……あれ?」
何の前触れもなくパチリと目が覚めます。
おはようございます、イヴです。
いえ、こんばんはですね。
なにせ目の前には満点の星空。
ですが、どうしてでしょう?
なぜ私は外で寝ていたりしたのでしょうか。
今まで外で寝たことなんてなかったのに。
どういう風の吹き回しだったのでしょう。
たしか騎士団の皆で依頼を受け、
村はずれの森へやってきたところまでは覚えています。
ですが、その依頼が何だったのか、
森に来てからどうなったのかが、どうしても思い出せません。
「とにかく、寝転がっていても仕方ありませんね」
ここで仰向けになってうんうん唸っていても、
思い出せないものは思い出せないのです。
人間諦めが肝心。
お父さんもよくそんな感じのことを言っていました。
「まずは家に帰らないと……」
私は仰向けの状態からゆっくり上半身を起こすと、
そこで息を呑んでしまいました。
「こ、ここは……?」
……すみません。
ちょっと驚きすぎて、言葉が出てきません。
一体どこなのでしょう。ここは。
見渡す限りの赤褐色の地面。
その地面からは濛々と、熱そうな湯気が立ち込めています。
すこし離れたところには、高いところから低い所へゆっくり流れる赤く黒いドロドロ。
「うっ……」
突然漂ってくるお父さんのおならみたいな臭いに、たまらず鼻をつまみます。
一言で言えば、そこはまるで絵本に出てくる、
竜族や魔族の方が住んでいるような火山地帯でした。
「い、いつの間に……?」
慌てて振り向き、
今度は自分の目を疑います。
緑。
森です。
森なのです。
草が地面を覆い隠し、
木々の枝葉もまた、空を覆いつくすように伸びています。
耳を澄ますと、微かに虫の声も聞こえてきます。
何なのでしょうか、この場所は。
まるで私の体を境に、
別々の土地が縫い合わされたような、ちぐはぐで奇妙な場所。
なぜ私はそのような場所で寝ていたのでしょうか。
本格的にわけがわからなくなってきます。
『よお』
「ひゃわあ!?」
声。
声です。
今まで人の気配なんて全然しなかったのに。
「ど、どなたでしゅか!?」
舌が痛いですが、今はそんなの関係ありません。
けれど――
「あ、あれ……?」
ぐるりと辺りを見回してみますが、誰もいません。
「空耳……?」
『じゃねえぞ』
「ひゃあ!?」
また声が聞こえてきます。
なんでしょう。
誰かが私を驚かせて、反応を見て、楽しんでいるのでしょうか。
『いちいちビックリするなって……』
その呆れたような物言いに私はすこしムッとしてしまいます。
「こんなの誰だってビックリしますよ」
『べつに大声ってわけじゃなかったろ』
「小さくても急に耳元で虫の羽音とか聞こえたら嫌でしょ?」
『俺は虫と同列かよ……』
正体不明の誰かさんは消え入るよう声で呟きます。
……ちょっと言い過ぎましたかね。
『まあいいや。こっちだよ、こっち』
「……へ?」
こっちなんて言われても方向なんてわかりません。
右から聞こえてくるような気もするし、左から聞こえてくるような感じもします。
せめて私から見て、右か左かは示してほしいものです。
私は立ち上がると、改めて辺りを見回しました。
ですが――
「見えません……けど」
『あー……わるい、そこからだとちょっと見辛かったか』
「そこ?」
私がこの声の主さんを依然見つけられずにいるのに対し、
声の主さんは私の姿や行動を把握しているという状況に怖くなってしまいます。
『今、移動するからな』
「え……」
急に? まだ気持ちの整理が――
なんて断りを入れる間もなく、即座にそれは目の前に現れました。
『よう』
「え? あ、はい」
そのあまりのことに恐怖心はどこかへ消えてしまい、代わりに面食らってしまいます。
それは星……ではなく、炎……でもない。
「ひ、人魂?」
夜。まるで遠くに見える一番星のようにぼんやりで、
淡く光る炎のような金色の物体。
それがユラユラと、フワフワと、メラメラと、
私の目の前を浮遊しています。
そして驚くことに、それには目や口のようなものまで付いています。
キッと吊り上がった目に、キュッと山型に結ばれた口元。
私が抱いた第一印象は〝生意気そうな人魂〟でした。
『あんまり驚かないんだな』
人魂さんが目を丸め、意外そうにしています。
いえ〝話す〟という表現は正しくないかもしれません。
たしかに口みたいなものはパクパクと開閉していますが、
なんというか、声自体は直接頭の中に響いている感じです。
なるほど位置がわからなかったというのも納得です。
『――て、人魂?
人魂って、俺のこと言ってんだよな? 状況的に』
「あ、はい……」
『人魂……ねぇ……』
人魂さんはそう呟くと、目を閉じ、
そのまま静かになってしまいました。
「……はっ!」
その瞬間気づいてしまいました。
もしかしてこの人魂さんは、
自分がお亡くなりになっていることに気づいていなかったのではないでしょうか。
ほんのり聞いた事があります。
なぜかはわかりませんが、火山地帯で命を落とす時はほんの一瞬だと。
なのでこの人魂さんも、何が何だかわからないうちにお亡くなりになられたのでしょう。
なんということでしょう。
もしそうだったら、私が現実を突きつけてしまったことになります。
〝イヴ、この世にはね、知らないほうがいい事もあるのよ〟
善かれと思って蒔いた肥料が、結果として、
大量の害虫を呼び寄せてしまった時のお母さんの言葉が脳裏に浮かびます。
それを今痛感しました。
私は意図せず人魂さんを傷つけ、その心を弄んでしまったのかもしれません。
「あれ?」
でももしそうだとすると、なぜ私は今生きているのでしょうか?
人魂さんはここで亡くなられていました。
けど、私はこの通りピンピンしています。
……いえ、今私がするべきことはこの現状を憂うよりも同情。
人魂さんの心に寄り添って、慰めるべきではないでしょうか。
「あの、人魂さん」
『……ん? ああ、俺か。どうした?』
「元気、出してくださいね」
『いや、べつにへこんでないが?』
健気にも気丈に振舞われる人魂さん。
なんということでしょう。
この期に及んでこの人魂さんは私に心配をかけまいとしてくれています。
「どんなに後悔しても、過去は変わりませんから」
『急にどうした』
「大事なのはこれからどうするか、ですよ!」
『……お、おう。胸に刻むわ』
この人魂さんのキョトンとした反応……刻んでませんね。胸に。
ひょっとして狙い過ぎたのかもしれません。
弱りました。
私なりに頑張ってひねり出した激励の言葉なのですが……。
「す、すみません。
つまり私が言いたいのは、あまり落ち込まないでほしいなと……」
『だから落ち込んでねえって。そもそも落ち込むような事ねえだろ』
「え? 死んだのに?」
『死んでねえ』
「強がりとかではなく?」
『強がってどうすんだよ』
「たしかに」
『つか、面と向かってよく死んだのにとか訊けるよな』
「……すみませんでした」
『ともかくだ。
俺は死んでねえし、人魂なのは元からこういう形なだけだ』
「そうなんですか?」
『厳密に言えば違うけどな』
「では、その姿でいるのはなにか事情があるから……と」
『そういうこと』
「人魂と聞いてすこし考えていたのは、自分の姿がわからなかったから……と?」
『お、話せるじゃねえか』
「……それ、やっぱり死んでいるのでは?」
『だから……まあいいやそれで。話が進まねえ』
とうとう呆れられてしまいましたが、
要するに、そこらへんはあまり気にしなくていいようです。
『そういえば自己紹介がまだだったよな』
「あ、そういえば」
『俺の名はヨシフジアタルっていうんだ。よろしくな』
「ヨシフジ……アタル……さん」
どこかで聞き覚えのある声でしたので、
てっきり知っている名前が出てくると思っていました。
が、知らない名前でした。
そして、それと同時に、聞き慣れない名前に戸惑ってしまいます。
私と同じ種族の方だとは思うのですが、
そのお名前だけでは、男性か女性かもわかりません。
ああ、でも声からして大人の女性のような気がします。
喋り方はすこし乱暴ですけどね。
出身は……名前からして、ここ、スラットの方ではないのでしょう。
どちらかというと、私の憧れの騎士であるシノさんの出身地、
ヴァイン領の方々の音に近いような気がします。
シノノメシノ。
ヨシフジアタル。
うーん、なんとも同系列(希望)っぽい。
『あー……言いにくかったら、
アタルでも、ワタルでも、ヨシフジでもなんでもいいからな』
俯き、考え事をしていた私に気を遣ってくれたのでしょう。
人魂さんがいくつかの呼び名を提案してくれます。
余計な心配をさせてしまいましたかね。
「いえ、すみません。考え事をしていて……」
『考えごと?』
「はい。この辺りでは珍しいお名前だな、と」
『なるほどな。……で、君の名前は?』
「私はイヴ。ヘイフォーク村のイヴ・ウィリアムスと申します」
『イヴ・ウィリアムス……くんだな』
「え、あ、はい……」
くん?
慣れない敬称にすこし戸惑ってしまいますが、
気にしている場合じゃないですよね。
「よろしくお願いいたします、アタルさん」
『こちらこそよろしく』
「あ、でも私の事はただのイヴでいいですよ。敬称は不要です」
『わかった。じゃあ、改めてよろしくなイヴ。
俺にもべつに〝さん〟とかつけなくていいから』
「わかりました。アタルさん」
おそらく……というか十中八九アタルさんは私よりも年上の方。
〝目上の人はきちんと敬うように〟
と言われているので、もちろん敬称を省くなんてことはしません。
『いや、だから敬称は……まぁいいか、敬称くらい』
どうでしょう。
本来ならここで握手でもするのでしょうが、
握手どころかどこを握ればいいのかもわかりません。
というか触れるのでしょうか?
どんな感触なのでしょうか?
一見、炎のような形をされているので、
あまり触りたくはなかったのですが、
ここまで近づいてみてもとくに熱さは感じません。
もしかすると、案外、
モチモチとした気持ちのいい触感かもしれません。
『……それで、さっそくだが、イヴ』
アタルさんに呼ばれ、
私は出しかけていた手を引っ込めました。
「あ、はい。なんでしょう」
『ここがどこだかわかるか?』
「……どこ?」
はて。
それについては逆に私がお尋ねしたいところだったのですが、
アタルさんにもわからないとなると、これは本格的に困ってしまいますね。
どうやってお家に帰ったらいいものか……。
『その様子だと……期待はできなさそうだな』
「は、はい……」
『ここらへんの地形とか詳しそうだったんだけどな……』
アタルさんは落胆したように言い放ちました。
なんということでしょう。
落胆したいのは私のほうなのに。
ですが今は後ろを向いている暇はありません。
とにかく話せることは話しておきましょう。
〝困った時はなるべく多くの情報を共有しておいたほうがいい。
自分が不要だと思っていた情報も、
他人から見れば必要だったという場合もあるんだ〟
害虫を呼び寄せてしまったお母さんを、
お父さんが諭す時に使っていた言葉が脳裏に浮かびます。
「あ、あの、アタルさん」
『どうした』
「そういえば私、気が付いたらこんなところにいたんです」
『気が付いたら? ……それ、もっと詳しく話せるか』
おや?
本当にただの思いつきで話しただけなのに、意外と食いついてきました。
やはりお父さんは正しかったようです。
そして私は、私がかろうじて覚えている記憶を、
団で依頼を受け、近くの森へ移動していたことを話しました。
『なるほどな。事情は大体わかった』
「本当ですか?」
『ああ。俺からもいくつかイヴに情報を提供できるかもしれない』
「私、お家に帰れるのでしょうか?」
『たぶんな。ただ――』
それだけ言うとアタルさんは口を一直線に結び、
何か考えるように黙り込んでしまいました。
『イヴ……イヴ・ウィリアムス』
「あ、はいっ!」
急にフルネームで名前を呼ばれ、背筋が伸びます。
『もう一度訊くけど、気を失う直前の出来事は覚えてないんだよな?』
何に対しての念押しでしょうか。
アタルさんは真剣な眼差しで私に問いかけます。
私はその雰囲気に気圧されてしまい、言葉は発せずに頷いて答えを返します。
『……なら、俺がこれからイヴにする話は、
イヴにとってすこしツラいものになるかもしれない』
ズキン……!
アタルさんのその言葉を聞いた途端、
私の心臓が痛いくらいに跳ねます。
突然どうしてしまったのでしょうか。
『わるい、脅すつもりはなかったんだ』
私、そんなに狼狽えていたのでしょうか。
アタルさんが申し訳なさそうに目を伏せます。
『ただの確認というか……要するにだな、俺が今から話す事は、
イヴ自身が意図せず、その記憶に蓋をした可能性がある事かもしれないんだ』
「それはどういう……?」
私がそう尋ねると、アタルさんは何か確信めいたように力強く頷きました。
『そうだな……もっと噛み砕いて言うと、それはイヴの脳が、頭が、
イヴを守る為に、心が壊れない為に無理やり忘れさせた事だ』
「そうなんですか……?」
『だろうな。あの記憶だけがすっぽり抜け落ちてるってのは』
あの記憶。
まるで実際に見聞きしたような、体験したかのような物言いです。
いえ、実際にアタルさんは見て、知っているのでしょう。
だからこそ、慎重に言葉を選んでいるのだと思います。
私の……私が知らないうちに、私の奥底に閉じ込めた記憶を刺激しない為に。
『まあ……で、だ。その上であえて尋ねるけど、どうする?』
トクン……トクン……!
「どうするって……」
ドクン……ドクン……!
『それについて今、ここで聞いとくか?』
ドッ……ドッ……ドッ……!
心臓の鼓動がだんだん早くなっていきます。
しかし私はアタルさんの言うようにその正体についての心当たりはありません。
ただただ嫌な予感だけが、煙のように私の中に充満していきます。
……煙?
そうだ……たしか……あの時も赤い煙が――
『勘違いしないでほしいんだが、
俺もべつに嫌がらせとかでこんなことを言ってるわけじゃないんだ』
「わ、わかって……ます……もちろん……」
『イヴが聞きたくないってんなら、もちろん話さない。
時間はかかるかもしれないけど、たぶんイヴの家もそのうち見つかると思う。
だが、その記憶が何と紐づけられてるのかは俺にもわからん。
ふとした拍子に、その記憶が思い起こされることがあるかもしれない。
だから――』
「覚悟ができている今のうちに……」
私が呟き、アタルさんが頷きます。
一旦、冷静になりましょう。
私はいつの間にか額から噴出していた大量の汗を拭い、
次に、深呼吸をして乱れていた息を整えようと試みます。
……大丈夫。
考えることは可能です。
正直言うと私は、全く、これっぽっちも、その話を聞きたいとは思いません。
ですがアタルさんの言う通り、なんの事前通告もなしに、
アタルさんの言うそれを受け止められるとも思えません。
それに私がそれから目を逸らしていては、逃げていてはダメな気もします。
心臓が張り裂けそうです。
一定の間隔で呼吸すら出来ません。
拭ったそばから汗が滝のように噴き出してきます。
けれど、聞かなければいけません。
私の中の煙が次第に赤く染まり、象られ、強烈な鉄の臭いを放ちます。
もう、すぐそこまで。
あとほんの一押しでそれは堰を切ったように流れ込んでくるでしょう。
だからこそ、今、ここで、聞くべきなのです。
風化しないうちに、褪せてしまわないうちに、
私はそれについて対処しなければならないのです。
「……お願いします」
『わかった』
うまく言葉が紡げたのかはわかりませんが、
アタルさんは静かに承諾してくれました。
『今からする話は、イヴ……おまえが一度死んだ話だ』
「……死んだ?」
その瞬間――
それを告げられた瞬間、
忘れていた光景が、
忘れようとしていた光景が、
まるで噴水のように、
滾々と、鮮明に、
私の中に溢れてきました。
死んだ。
しんだ。
シンダ。
「死ん……だ……?」
そうだ。
私は、森で、皆と、槍で、おなかを――
「う……っ」
感触、臭い、音、声、光景が一気に溢れてきます。
私は私の中の感情を、記憶を、
私の中に押しとどめることが出来ず、
気が付くと、そのまま――