1話 【俺】の異世界デビュー
「うぐッ……!?」
何が起きたのか。
俺の脳がそれを理解する前に勝手に声が漏れる。
痛み?
……痛みだ。
じくじくと腹部から全身へ耐えがたい痛みが広がる。
腹の底から何か生暖かいものが口内へと逆流し、満たされる。
不快で、鉄臭くてヌルリとした液体。
それが血液であると理解するよりも早く――
「ガハッ……!」
俺はそれを吐き捨て、目を開けた。
寝ぼけ眼に光がカッと差し込む。
真っ暗だった視界が一気に広がっていく。
全身西洋甲冑の大男。
それが、俺の目が捉えた最初の映像だった。
顔は見えないが、西洋兜から僅かに覗く目が俺を捉えている。
「一体なんなん――ぐッ!?」
言葉を噛み潰すように、
本日二度目の激痛が俺を襲う。
顔が歪む。
息が漏れる。
腕が痙攣する。
なんだ、これは。
俺の身に一体何が起きているんだ。
原因を確認すべく、
すぐさま痛みの原因である腹部へと視線を落とし――
「――――――――――――ッ!?」
ゴボゴボと声にならない叫び声を上げた。
槍。
槍である。
いや、正確に言うと刃の部分が確認できない為、槍かどうか定かではない。
ともかく、棒状のようなものが深々と腹部に突き刺さっている。
さらによく見ると、
俺の体は浮いており、男は青鹿毛の大きな馬に跨っていた。
つまり男は槍一本、腕一本で俺の体を支えているのだ。
なんというか、
焚火で焼かれるマシュマロにでもなった気分だ。
なんだ……、
なんなんだ、この状況は……!?
目を覚ますと腹を刺し貫かれ、全身の激痛に苛まれ、
あらゆる場所から出血をしている。
その姿はさながらスプリンクラーが如し。
出血大サービスとはまさにこの事である。
……まずい。
血を流し過ぎた。
本格的に思考がおかしくなってきている。
マシュマロのくだりから色々とおかしくなっている。
「ヌゥ……!?」
皮肉にも俺の意識を引き戻したのは、
おそらく俺がこうなってしまった元凶と思しき大男だった。
「貴様、未だ意識があるのか……!」
男から発せられた野太い声が、耳から槍から伝わってくる。
そうだ。
とりあえず、この槍をなんとかしないと死んでしまう。
いやまぁ、
既にいつ死んでもおかしくない傷に出血量だが、
そんなことを考えるのは後だ。
相変わらず血が足りず薄ぼんやりとしている頭だが、
意識だけははっきりとしている。
こんな痛みがずっと続くなんて、それこそ気がどうにかなってしまう。
だけど、どうすればいい?
いっそのこと、力づくで槍をひっこ抜いてしまおうか。
ズボッと、景気よく?
いやいや、無理無理。
ただでさえ痛いのに、そんなことできるわけがない。
そんなことやろうとも思わない。
そんなこと出来る勇気なんてない。
そんなこと……そんなこと……!
「そんな……こと……ッ!」
毒を食らわば皿まで。
濡れぬ先こそ露をも厭え。
腹を槍で貫かれているのなら、
そいつごとぶん殴ればいい。
「そんな……はぁっ……はぁっ……すぅっ……こと……!」
息を短く吐き、鋭く吸う。
腹がスカスカなので呼吸すら満足にできない。
だけど、うだうだ悩むのはもう終いだ。
俺は覚悟を決めると、
腕に力を込め、柄を思い切り握りしめた。
「言うとる……!」
四の五の思考する時間などない。
躊躇している余裕もない。
「場合……!」
やれ。
やるんだ。
ここで本気を出さないで、いつ出すつもりだ。
「くゎぁあああああああああああああああああああ……ッ!!」
俺はやけに甲高い叫び声をあげながら、前へ、前へ。
不快な水音と意識が飛びそうなほどの激痛に耐えながら、前へ、前へ。
とにかく男のいる方向へと移動していった。
もうすこし。
もうすこしでヤツをぶん殴れる。
だが――
「ぐふ……ごめ……やっぱ無理……でふゅ……」
痛すぎる。
もうほんと泣けてくるほどに。
なんて情けないんだ俺は。
たかが1センチ。
されど1センチ。
ほんの少し動くだけで、意識が持っていかれそうになる。
普通ならこういう場面で、明るいBGMが鳴り始めたりするのだろう。
周囲で俺を見守っている仲間たちが、
『頑張れ』とか『負けるな』とか言って、鼓舞してくれたりするのだろう。
それを力に変えたりするのだろう。
それで今まで関わった人たちが、
現在進行形で頑張っている姿をモンタージュで流し、
遠くから見守っている的なシーンを挿れたりするのだろう。
そして、最終的に根性なり、機転を利かせるなりして、
窮地を脱し、巨悪を滅ぼしたりするのだろう。
でも、
これが俺の現実だ。
明るいBGMなんて流れないし、仲間なんてのも存在しない。
気まぐれに一念発起したからといって痛みは消えないし、
血が止まるわけでもない。
目の前の男が巨悪どころか、悪人かどうかもわからない。
小さじ一杯程度の根性では、現実は変えられないのだ。
ここが俺の限界だったのだろう。
なに、俺にしては十分頑張ったほうだ。
いきなり腹を刺し貫かれて、数秒間持ち堪えただけでも称賛に値する。
だけど、
やっぱり、
欲を言えば、
もうすこしだけ生きていたかった。
〝――我が掌より発せられる炎熱の刃よ対象を悉く灼き切れ〟
突如、
脳内に何者かの声が響く。
「ぶれいず……いぐにっしょん……?」
疑問形。
俺の口が自然に開き、喉が勝手に震える。
脳でその言葉を反芻するよりも先に、俺の手が熱くなる。
そして次の瞬間――
シュボッ!!
まるでフリー素材のようなベタベタな着火音。
目も眩むような閃光。
気が付くと俺は地面に投げ出され、
「ぐえっ」
と蝦蟇のような声をあげていた。
「貴様……! 何をした……!」
「へ、ヘンリー殿! 槍が……!」
相変わらず野太い男の声に、今度は別の男の声。
それからすこし遅れて、どよめきが聞こえてくる。
なんだ?
他にも人間がいるのか?
そんな疑問が沸き、咄嗟に辺りを見回してみたくなる。
が、俺にはその前にやらなければならないことがある。
今こそ最大のチャンスだ。
「すぅっ……! はぁっ……! すぅっ……! はぁっ……!」
俺は小刻みに呼吸をして息を整えると――
「ぐぅぅぅぅにぃぃぃぃぃ~ッ……!!」
いつの間にか短くなっていた槍を前から後ろへ。
そして情けない声とともに――
「でゃぁ……っ!!」
一気に抜き取った。
腹部にあった異物感が一気に消え失せる。
痛みはない。
俺は勢いそのまま、手近なところへそれを放り投げた。
ガランガラン!
ガラァァ……ン!
重い鉄製の棒が転がる音。
見ると穂には刃が付いており、
柄は高温で焼き切られたように溶けていた。
〝――底なしの王よ。未だ堕ちる運命に無い者の命を還し給え〟
まただ。
声が脳内で反響する。
「レヴェルテレ……アブ……インフェルノ……!」
まるでその動作を何百、何千と繰り返してきたかのように、
俺は自然と腹に手を当てていた。
がらんどうだった腹に感触が戻ってくる。
穴が、傷が、みるみるうちに塞がっていく。
暖かい。
大量に血を失い、冷めきっていた体に体温が戻ってくるのがわかる。
やがて、ある程度余裕が出来た俺は、
そこで初めて辺りを見回してみた。
……人。人。人。
視界に映るのは相当数の人影。
かなりの人数だ。
ひー……ふー……みー……――
30を超えたあたりで俺は億劫になり、数えるのを止めた。
それにしても、なんとも不気味な格好だ。
皆一様に、赤い蛇の紋様が入ったローブのようなものを着ている。
顔を確認しようにも、フードを深くかぶっている為、よく見えない。
唯一確認できるのは、袖口から伸びる手のみ。
大きくてゴツい手。
繊細そうでしなやかな手。
皺が深く刻まれた手。
性別や年齢はバラバラ。
体格や身長もバラバラ。
持っている武器もバラバラ。
ただひとつ共通していたのは、
全員が粘度の高い、脂混じりの返り血を浴びていたこと。
ふと連中の足元を見てみると、
そこには潰れた人間の頭や、刻まれた肉片や臓物が散乱していた。
鼻をひくりと動かすと、
今まで感知できなかったのが不思議なほど、
異臭と腐臭とが鼻をついた。
俺は一瞬だけ口元を手で覆いかけるが、すぐにそれを止める。
なんなんだ、これは……!
虐殺現場か?
「ば、馬鹿な……!」
馬上からの声。
西洋甲冑の男だ。
置かれている状況から推察するに、
この薄気味の悪い一団の長が、コイツなのだろう。
「確かに貴様は、我が槍で刺し貫いたはず……」
ああ、やっぱりこいつか。
俺の腹に槍を突き立てた、けしからん野郎は。
「だのに、なぜ貴様は未だ我の前に、平然と立ち塞がっておるのだ……!」
知らん。
そもそも平然じゃないうえに、立ってもいないし、塞がってもいない。
じゃあなぜ槍の柄を焼き切れたのか、と聞かれると――うん。返答に困る。
なぜ腹の傷を綺麗に塞ぐことが出来たのかも、もちろんわからん。
まったくなんだってんだ。
疑問が増えていくばかりじゃな――
ズギン……ッ!!
なん……だ……ッ?
腹痛の次は……頭痛か……?
それで痛みが和らぐわけじゃないのに、咄嗟に両手で頭をおさえる俺。
うめき声を発する暇もないほどの頭痛。
「……好機! 怯むなァ!!」
怒号。
男のものだ。
それが追い打ちをかけるように俺の脳髄にまで響き、頭を揺らす。
「彼奴は苦しんでおる! この機を逃すな! 者共かかれええッ!!」
ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!
怒号に対し、周りにいた人間が即座に呼応する。
それらはまるで波濤のようにうねりを上げながら、
俺の脳をガンガン浸食していく。
うるさい!
黙れ!
静かにしろ!
必死にそう叫ぼうとしてみたものの、
それらの言葉は俺の口から発せられることはなかった。
一難去ってまた一難。
このままではあそこに転がっている人たちみたいに殺される。
……そう思った瞬間、
また俺の頭の中から声が聞こえてきた。
〝――大地よ、隆起せよ。隔壁よ、分断せよ。其なる守護は絶対にして不壊也〟
ああ、そうかと。
一瞬で理解する。思い出す。
この魔法は――
「土壁!」
俺は地面に膝をつき、
右手のひらをピッタリと地面につける。
割れんばかりの頭痛はどこへやら、
今度は俺の意志で魔法を唱えていた。
魔法名はムルス・テラエ。
地面を隆起させ、分厚く高い壁を生成する魔法。
そうだ。
何を忘れていたんだ、俺は。
あんなに必死こいて習得した魔法を忘れるやつがあるか。
直後、地鳴りとともに、
広範囲に渡って地面が壁のようにせり上がってくる。
高さ五メートル。
厚さおよそ二メートル。
そしてその長さは二百メートル弱。
巨大な土壁だ。
時間を稼ぐには持ってこいの魔法だ。
俺は急いで立ち上がると、そのまま踵を返して走り出した。
なんだ?
体が軽い。
まるで俺の体じゃないみたいだ。
腕の振りも、足運びも軽快だ。
けどなんだかよく見てみると、地面が近いような……?
いや、今はそんな事はいい。
「よし! 今のうちに逃げ――」
「ぬゥん! 大地穿ちィ!!」
ボゴォッ!
轟音とともに、
背後から不可視の何かが俺の横を通過する。
振り返ると壁には大穴。
人一人が楽に通り抜けられる大きさにくり抜かれていた。
男は巧みに馬を操り、壁の穴をくぐる。
「童と油断したか……」
「わらし?」
「貴様、同盟国に雇われた術師か!」
同盟国……? 術師……?
なにいってんだこいつ。
俺が驚く暇もなく、
男はよくわからない単語でまくし立ててくる。
「フン、抜かったわ。
よもや貴様らが、此処よりの攻めを予見出来ていたとはな……」
「な、なに言ってんだ……おっさん……」
「だがしかし!
貴様をここで葬れば! 何も問題はなかろうて!」
そう言って男は馬上で槍を構える。
さきほど俺が焼き切ったのとは、また別の槍。
おそらくスペアか何かだろう。
それにしても、
聞く耳を持たないとはまさにこの事だ。
俺の意志が介在していない問答がとんとん拍子に進んでいく。
迷惑極まりない。
「やるしか……ないのか……!」
「元七国騎士団が一角、ヘンリー・フィッツロイ……参る!」
名乗りと同時に馬が嘶く。
男は槍を構えたまま、旋風が如き突進をしてくる。
「激槍! 風流れ心砕き!」
肌がピリつく。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。
同意も、事前準備すらもない戦闘。
遠慮のない殺意を持った敵が、猛然と立ち向かってくる。
俺は震える右腕を、
同じように震える左手で掴んだ。
恐怖……?
いや、違う。これは――
なるほど。
これが異世界。
これが俺の初戦というわけか。
「ならこの戦! ド派手にかましてやろうじゃねえか!」
そう言って我に返る。
なんだ俺。
言ってて恥ずかしくならんのか。
完全に空気に呑まれて調子に乗ってるな。
負けたら死ぬってわかってんのか。
「其の心意気や良し! では派手に散れィ! 不遜なる術師よ!」
お、おお……!
なんか知らんが、相手はノってくれている……!
「ば、バカめ! 散るのはおま……き、貴様だ!」
慣れない言葉遣いに噛みまくる。
が、そんな事を気にしてる暇はない。
「〝大地よ、隆起せよ。隔壁よ、分断せよ。其なる守護は絶対にして不壊也〟」
俺はその場に片膝をつき、
地面に右手のひらをあてた。
地面が揺れ、
魔法発動の予兆に入る。
「また土壁とは芸がない! その壁ごと心臓をえぐり抜いてくれるわ!」
「誰が壁として使うって言ったよ」
「なにッ!?」
「土壁!」
ズン!
隆起した地面が馬ごとヘンリーをかち押し上げる。
「ぐぬ……ッ!?」
空中で完全に身動きが取れなくなったヤツを尻目に、
俺は右手を掲げた。
「雷雲招来」
ゴロゴロゴロ……!
雷鳴が轟き、
上空に物凄い勢いで雨雲が集まっていく。
そして――
ビシャアアアアアアアアアアン!!
轟音とともに、
迸る稲妻がヘンリーを焼き貫いた。
「ぐぬぅぅ……おぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉお!?」
浮力を失ったヘンリーはそのまま地面に叩きつけられた。
体からは黒煙が上がっており、甲冑は時折バチバチという音を立てている。
勝った……んだよな?
よっしゃあああ! 勝ったああああ!!
なんて飛び跳ねて喜びたいけど、
もしかして俺、殺っちまったか?
「まだ……まだァ……!」
見るとヘンリーはまだ起き上がろうとしていた。
なんてやつだ。
雷に焼かれ、
高所から叩きつけられ、
それでもまだ戦意を喪失していない。
この男の執念が凄いのか、はたまたこの世界の人間が頑丈なのか。
どちらにせよ、
まだ立ち向かってくるというのなら手加減は出来ない。
「これは無暗に使うなと言われているが――とっておきだ」
俺は再度片膝をつき、
今度は地面に両手のひらをつけた。
意識を頭から肩、肩から腕、腕から手、さらには指先まで集中させる。
地中の砂、土、泥、石などをドロドロに溶かしていくようなイメージ。
「〝――炉心溶融〟」
「める……!? まさかそれは……その魔法は――」
ヘンリーは魔法名を聞いた途端、その目を見開いた。
直後、大地震のような凄まじい揺れが起こり――
「は……れ……?」
ぐらぁん。
呂律が回らなくなり視界が90度傾く。
なんだ?
急に地面がせり上がってきたのか?
いや、違う。
俺はぶっ倒れたのだ。
だが、俺はその事実を理解するよりも先に、
自身の意識がどっぷりと地の底へ落ちていくのを感じた。