禁忌の魔法
──倒れていた生徒を先輩に預けたアレスは、意を決して青い扉の前に立った。
背後の階段は先ほどの攻撃でほぼ全壊しており、飛行魔法を使わないと扉の前へ行くことすらままならない。下を覗けば、瓦礫と化した階段だったものがそこら中に散乱していた。
──怖くない、と言えば嘘になる。
アレスは、リラやエテルノほど強い力を持っていないし、シャーロットのように身体能力がずば抜けているわけでもない。
またカインのように、誰かを守れるほどの精密な防御魔法が使えるわけでもなかった。
それでも、アレスはこの扉の先に進むことを決意した。今もどこかで頑張っている、大事な仲間たちのために。
──他人を思いやる気持ちを忘れないで。そうすればきっと、優しさは返ってくるはずだから。
記憶の奥で、そんな声が囁いてくる。もうずいぶんと会っていない、大好きな兄の声だった。
「……よし」
アレスは一度深呼吸をすると、右手を扉にあて、ゆっくりと押し開けた。
◆
最初に聞こえたのは、割れんばかりの大きな拍手だった。
「なんだこれ……」
まるでオペラハウスのように中央奥が舞台になっているこの空間は、先ほど通ったどの場所よりもとりわけ異質だった。
高い高い天井からは金色のシャンデリアが吊るされ、柱や壁に施されたきらびやかな装飾をこうこうと照らしている。
アレスが開けた扉はどうやら二階に繋がっていたようで、左右にはいくつもの豪奢な扉が連なり、下を覗けば数えきれないほどの席が並んでいた。
そしてそこに座っていたのは、タキシードやドレスを身に纏った貴族たち──ではなく、大量のリビングデッドだった。
「は……嘘だろ」
アレスの頬がひくり、とひきつる。思わずこぼれた独り言も、かすかに震えが混じっていた。
リビングデッドは禁忌の魔法、つまり黒魔法でしか作れない魔物だ。魔法界では、死者を生き返らせることは本来あってはならないこととされており、掟を破った者には厳しい処罰が下される。
それなのに、何故これほどのリビングデッドが作られているのか。
アレスが知る限り、答えはたった一つしかない。
「ジャヴァウォック……」
先日の合同実習で遭遇した犯罪組織、ジャヴァウォック。その手下が、ガルデニア魔法学校に現れたのだ。
鳴り止まないリビングデッドの拍手が、アレスの耳にわんわんと反響する。彼らはぼろぼろのスーツや色褪せたドレスを身に着けていて、それが余計にアレスの心を抉った。
そのとき、突然ブザーらしき音がホール内に響きわたり、辺りをまぶしいくらいに照らしていた光がふっとかき消えた。それとほぼ同じタイミングで、リビングデッドの拍手もぴたり、と止む。
弾かれたようにアレスが顔を上げると、奥の舞台にかかっていた幕がちょうど上がっていくところだった。
「一体何が──」
そう呟いた瞬間、緞帳が上がりきった舞台の中央に誰かが立っているのを見つけ、アレスは咄嗟に息を呑んだ。
──そこに立っていたのは、真っ黒なドレスに身を包む、銀髪の小柄な少女だった。
なんの飾りもないシンプルなドレスは足を覆い隠すほど長く、その下からは墨色のブーツが覗いている。
腰まである長い髪は艶やかで、頭には黒いバレッタをつけていた。
手には杖が握られており、少女の細い身体を支えている。フリルのついた袖から伸びる手は、まるで死人のように真っ白だった。
そして何より目をひくのが、彼女の顔の左半分を隠している真っ白な仮面だ。その奥にある瞳を拝むことは出来ず、対となる赤い右目だけが照明に照らされ鈍く光っていた。
異様な見た目が不気味だが、分かったことはある。
纏っている魔力からして、彼女こそが、アレスが感じたあの黒い魔力の持ち主──そして、ジャヴァウォックの手下なのだ。
「……なるほどな」
アレスはそばにあった柱に身を隠し、そっと舞台上に立つ少女を眺めた。
おそらく彼女は、ジャヴァウォックの幹部であったティオーノを倒したアレスやリラ、シェイドに復讐するため、なんらかの手を使って学校に入り込んだのだろう。
考えたくはないが、校内に協力者の存在があったのかもしれない。
となると、今一番危ないのはアレスたちの命だ。彼女はきっと、彼らを殺すためならどんな手でも使ってくる。
そうなってしまえば、次に危険なのは教師や生徒たちだ。
──ここはなんとしてでも生き延びて、彼女を学校から遠ざけなければ。
アレスは杖を顕現させると、柱に背を預けたまま、彼女をじっと見つめていた。
少女は数歩前進し、観客席に座るリビングデッドを見回すと、仰々しくドレスの裾を持ち上げてお辞儀をした。
「──昔々、あるところに、ひとりの女の子がおりました」
そうして、彼女は静かな口調で語り始めた。
「女の子はごく普通の娘であり、家族とともに楽しく暮らしていました」
コツ、と少女が杖で地面を突く。
すると、彼女の左隣に人の姿をとった影のようなものが現れた。長く美しい髪を持った影は少女と同じくらいの身長で、ぽつん、とその場に佇んでいる。
「あるとき、女の子は隣町の男の子に恋をしました。男の子の美しい容姿と心優しい性格に、女の子は心を奪われたのです」
瞬間、今度は右隣の空気が揺らぎ、影がもう一体姿を現した。背はもう片方の影より高く、口らしきところが弧を描いている。アレスにはそれが、にっこりと笑っているように見えた。
「女の子は毎日男の子のもとへ通い、その心を彼に捧げていました。といっても、彼女に話しかけるという勇気はなく、いつも陰から見ているだけでしたが、女の子はそれでも充分でした」
少女が言い終わると、右の影の周囲に同じような影がいくつも現れた。それらはまるで会話しているかのように手や頭を動かしていて、時折肩を震わせて笑う素振りを見せた。
一方、左の影の周りには何もなく、影は伺うような視線を右側に向けていた。それが物語に出てくる女の子の様子を表しているようで、アレスは敵の話だと分かってはいたが、思わず彼女を応援したくなってしまった。
「あるとき、女の子は男の子へ想いを告げようと決心しました」
精一杯のおめかしをして、庭に咲いている一番綺麗な花を持って。
大好きな彼に、喜んでもらえるように。
「けれど──男の子には、親に決められた婚約者がいたのです」
右側にたくさん集まっていた影が消え、今度は細身の影が一つだけ顕現する。二人はぎこちなく、でも楽しそうに何かを話していた。
「結局、女の子の想いは男の子には届くことなく砕け散ってしまいました。女の子は泣いて、泣いて、泣いて……泣き続けたある日、女の子に転機が訪れました」
左にあった女の子の影が、顔を手で覆いながら崩れ落ちる。
かと思うと、その背中から黒い何かが現れた。それは鋭い鉤爪を持ち、頭らしきところには捻れた二つの角が生えている。
アレスは思わず息を呑んだ。見間違えるはずがない。
あれは──悪魔だ。
「怪物は悲しみに暮れる女の子に言いました。そんなにあの子が好きなら、二人の婚約をなかったことにすれば良い、と」
悪魔の姿をとった影が、泣き崩れる女の子に囁きかける。
トン、と杖で再び床を突き、顔を半分覆い隠した少女は話を続けた。
「怪物は女の子に強い力を与えました。女の子には身の余る力でしたが、女の子はその力を使って……男の子の婚約者を、殺したのです」
「……は」
アレスは絶句した。見下ろした先、少女の表情は先ほどと全く変わらず、血のように赤い隻眼を観客席の方に向けている。
感情の乗らないその顔が、アレスにはまさに悪魔のように見えた。
「婚約者を殺した後、女の子はついに男の子へ告白をしました。ですが、女の子の力を恐れた男の子は、彼女の想いを拒みました」
そして少女は言った。
告白を拒否された女の子は、男の子をも殺した、と。
「大切な人を自分の手で殺した女の子は、家族にすら見放され、ひとりぼっちになりました」
舞台上には、語り手の少女と女の子、そして悪魔だけが取り残された。
アレスは想像を絶する展開に呆然とし、ただ杖を持った手を震わせていた。
「あるとき、女の子は自分と同じような力を持った人に拾われ、名前をつけてもらいました」
コツン、と少女が一歩踏み出す。女の子と悪魔のそばに、背の高い男の影が現れた。
「そう。わたしの名前は──ファントム」
「ファントム……」
アレスは少女の名を反芻した。聞き覚えのない名前だ。
けれど、彼女がジャヴァウォックの刺客だということに間違いはない。彼女が生徒を襲ったことは事実であり、もしこのまま野放しにすれば、確実に被害は広がる一方だ。
「早めに決着つけねえと、他の奴らに気付かれるかもな……」
まあ、彼女に襲われた生徒を教師たちに引き渡した時点で、試験に何か異変が起きていることはもうバレているだろうが。
「……よし」
なるべく大事にならないように、被害を最小限に抑えられるように。
そう心に留め、アレスが顔を上げた瞬間。
──ファントムと、目が合った。
「……くそっ」
アレスは急いで壁に身を隠した。それでもなお、ファントムからの強い視線と禍々しい魔力を感じる。
一体、いつから気付かれていたのだろう。魔力探索に引っかからないよう抑えていたつもりだったが、やはり格の違いによるものだろうか。
……ともかく、まずは相手を観察しなければ。どんな魔法を使い、どんな戦い方をするのか、しっかり見極める必要がある。
そこまで考え、アレスが再び壁から姿を現したとき。
アレスの目の前に、突然黒くて大きい何かが飛び出した。