第97話 再起
亜弐香に吹き飛ばされた時、龍人は開醒の力を解いてしまっていた。取り繕う事の出来ない、紛う事無き油断である。もう立ち上がって来ないだろうという勝手な安堵が引き起こした醜態だった。”間抜けだった”。背後の気配に気づいて咄嗟に発動をしたはいいが、それも完全ではない。結果として、彼女の拳は龍人にとって致命的な不意打ちとなっていた。
叩きつけられた壁から、崩れ落ちるように項垂れた龍人は、拳が命中した自分の脇腹を抑えながら倒れて藻掻く。歪な感触からして、恐らく骨が折れている。血も口から漏れてきた。腕にも力が入らない。脇腹を抑えている手に湿り気が広がっていく。”血が出てる”。固い感触が肉体とは別にあった。まさか、解放性骨折だろうか。あばらが折れて突き破ったか。分からないが、少なくとも折れている。
意識も若干濁ってきた。”重症だな”。微かに聞こえている幾つかの声と複数の物音。せいぜいその程度の聞き分けしか出来ない。”落ち着け”。しかし、気持ち悪くなってきた。体の震えと寒気もある。”おい”。裂田亜弐香の本気の攻撃とは”おい”、ここまで”おい”えげつない物なのか。”聞いてるのか”。自分は死ぬのか。”おい”。
”もういい。代われ”
その言葉を最後に、龍人の意識は自分の内側に潜む泥沼の様な闇の中へと沈んでいった。
――――いい気分だった。もどかしさはなく、視界も、手足が動く感触も、苦痛も、全てが自分の物になっている。血が出すぎたのは困りものだが、傷を塞げばどうとでもなる。この程度の状況ならば経験が無かったわけではない。窮地に陥った人間の一番の敵は動揺である。焦りによって本来ならばしないであろう行為に及び、余計な体力と神経を消耗する。あってはならない。すべき事といえば、健全に動くことが難しくなるまでにどの程度の猶予があるか。それを判断するのである。それが分かれば自ずと平静さを取り戻せるのだ。覚悟が、人の心に安寧を取り戻してくれる。
「少し鍛え方が足りんが…まああいつぐらいなら丁度いいだろう」
折れた肋骨のある付近に手を当て、霊糸を放つ。無理やりにそれを矯正した後、霊糸を使ってきつく締め上げて補強を行う。これで少しは体の具合もマシになった。
「……誰だ ?」
立ち上がって応急措置を行っていた時、 遠くで鴉天狗が自分を見て慄いていたが気にする必要もない。奴に立ち向かって来る闘志は感じられず、先程から覗いていた記憶からして敵ではない。警戒をするに値しないのだ。問題は正面にいる鬼の娘の方だろう。こちらについてはまだ戦意が折れていない。
「…さっきとは違うね」
鬼の娘が言った。確か亜弐香と言ったか。
「違うというよりは、こっちが本性だ」
「名前は ?」
「義経」
亜弐香と颯真の二人は動きを止めて彼を凝視する。
「……ハッタリをするにも、使う名前は選ばないと」
「ほう、俺が出まかせを言っていると。そう考えているようには見えんな。俺が立ち上がった時に見せた警戒の早さもさることながら、龍人とかいう童に対して向けていた笑みも消えた。意識しているかは知らんが、お前は臆した。余裕が無いんだ。しかし、それを認めたくない。だから必死に否定しようとしている。薄々分かっている筈だ。今のお前の態度は、脆小な弱者故の虚勢と似たものだろう。違うか ?」
亜弐香の顔が僅かに歪んだ。苛立っているか。だろうな。強く気高い矜持をこの女からは感じ取れた。言い換えれば自分を溺愛する性質だ。誇りを傷つけられるのを何より嫌っているのだろう。格上として立ちはだかっていた筈の自分が、どういうわけか見下していた相手を始末できなかったどころか、逆に嘲笑われている。そんな現実は耐えがたい筈だ。
「虚勢ではないというなら示せばいい。言葉で。或いは御自慢の腕力を以て―――」
言葉を言い終えるより早く、亜弐香が自分に拳を突き出してくる。尖凝式によって指先へ全ての力を集中させ、中指を折り曲げて親指でそれを押さえつける。そして拳へ向けて強く指を弾いた。”でこぴん”と、龍人がこの技術の名を言っていたのを覚えている。若干の不安はあったが、十分だったようだ。亜弐香の拳は、その拳速よりも早く繰り出された指での反撃によって防がれ、軽く弾かれる。
「悪くない筋だが…怖さが足りんな。相手を屈服させ、破滅させ、絶望させたいという意思が感じられない。単純な力強さだけを追い求めたな。肉体を壊して倒すことは出来ても、精神を殺すことが出来ん…虚しい打撃だ」
そう言い放ってくる目の前の男…義経に亜弐香は困惑していた。一瞬、何が起きたのかが分からなかったが、やがてすぐに指で易々と防がれてしまったという事が彼の態度で分かった。幽生繋伐流の尖凝式か ? だが、龍人はあんな防御の仕方をした事が無い。彼はそのまま地面に手をかざすと、霊糸を放って薙刀を出現させ始めている。げに恐ろしきは、この一連の行動の間、一度として印を結ぶ事をしなかった。彼にとっては、こんなものは呼吸に等しい容易い所作なのだ。
「殺し合いをしたいか ? 小娘」
得物を肩に担いで義経が嗤う。恐ろしく張り詰めた空気が、亜弐香を久方ぶりに緊張へと向かわせた。




