第60話 悪くはなかった
嘗めてはいない。ただ、想定に入れていなかったのである。苦し紛れに立ち上がった龍人は、肝心な可能性に限って思い浮かべてくれない自分の頭の悪さを恨んだ。彼女が自分に全力を出していなかった事が分かっている以上、万が一全力を出してきた場合の対策に思考を巡らすべきだったのだ。手が震えている。痛みをこらえるのに必死だからというだけでなく、たった一撃で恐怖心を植え付けられてしまった。自分とは何もかも出来が違う。
「ちょろいんだよね」
その声が聞こえた時には、既に亜弐香が間合いに入って来ていた。呼吸を整える暇さえ無い。次の攻撃が来たのは腹だった。開醒でどうにかなる様な物ではない。彼女の拳がめり込み、やがて後方に吹き飛ばされる。壁を突き破ってバックヤードへ龍人は放り出される羽目になった。食材やビルの管理を行うための機材が積まれた箱を蹴散らし、壊し、色んなガラクタにまみれながら天井を仰ぐ。胃から何かが込み上がりそうになったのを、必死でこらえる事しか出来ない。
「力の差を分からせた上でほんの少し優しくするとさ、み~んな簡単に油断するんだ。勝てないって分かってるから、この人もしかしたら良い人かもって期待するんだろうけど…どうせ君もそのタイプでしょ ?」
壊した壁からゆっくりと亜弐香がバックヤードへ入って来る。急いでとどめを刺しに来ることはしない。彼女は手ごたえで分かっていた。今の威力で拳打を食らった以上、すぐには立ち直れない事が。
「はぁ…はぁ…」
殴られた箇所を必死に手で抑え、立ち上がる龍人を彼女はただ見ていた。少しだけ意外そうに目を見開いた気がするが、その程度である。想定の範囲内。一番つまらない筋書きに比べればマシというだけである。
「…話なげーよタコ」
呼吸が苦しくなっている中で、龍人は中指を立てて笑う。だが、次の行動はおろか、言葉を発する事すら許されなかった。亜弐香は即座に詰め寄り、彼の顔面を掴み、そのままコンクリートの床へ叩きつける。床に亀裂が入り、真っ先にぶち当たった後頭部を中心にクレーターが出来た。再び仰向けになった龍人だが、天井の照明の光が亜弐香の靴の裏に遮られた事で体に悪寒が走る。あと少し反応が送れていれば、床を破壊されるついでに、砕かれた頭蓋の混じった脳髄が辺りに飛び散っていただろう。
龍人は床に倒れたまま、咄嗟に手を伸ばして霊糸を放っていた。幸い自身の左側、それも奥の方に荷物搬入用に使われている大型のカゴ車があった。その足元に霊糸を引っ掛け、自分の体を引っ張って動かしたのである。カゴ車に大量の荷物が積まれて重りになってくれた事、そしてカゴ車を動かすための車輪にロックが掛かっていた事もあってか、すんなりと体を動かして回避に成功する。しかし、彼女の踏みつけは床を砕いて辺り一面に亀裂を入れてしまった。
「やべっ」
床が陥没した事で苦し紛れの回避も意味をなさず、龍人はカゴ車と共に地下へと落とされる羽目に陥る。再び強く体を地に打つが、どこぞの怪力に比べれば遥かにマシだろう。龍人はすぐに立ち、そして落ちて来る荷物や瓦礫を躱して辺りを見た。自分達が最初に侵入してきたあの地下室である。亜弐香もまた着地してから、自分の上に落ちて来る瓦礫を手で軽々と叩き払っていた。
そして見合っている二人の隣には、暗逢者たちの檻が残っており、突然のハプニングを目の当たりにして興奮ともパニックとも捉えられる狂乱ぶりを見せつけてくる。檻は中々頑丈なのか、特に傷も付いていない様子だった。あれが万が一にでも壊れてしまえば、この化け物たちが百鬼夜行でも始めてしまいかねない。
「さっきので死んでれば楽になったのに」
やかましい金切り声を不愉快に思ったのか、チラリと檻に視線を送ってから亜弐香が言った。
「もっと穏やかな死に方がいい。老衰とか」
龍人も言い返した。
「ふ~ん、じゃ絶対無理だよ。あんな人が師匠の時点で」
「は ?」
「その内分かる…それにさ―――」
今からここで地獄みたいな死に方をする事になる。そう言いかけた亜弐香だが、突然鳴り始めた大音量のブザーによって言葉を遮られた。
「チッ…余計な事を…」
檻が一斉に開き、暗逢者たちが群れを成して亜弐香へ飛び掛かる。腹を空かせていた彼らはとにかく獲物を欲しており、それは龍人も例外ではなかった。
「ご愁傷様」
心にも思ってない冥福を祈りながら、龍人は侵入経路を遡る作戦に打って出る。その逃げる背中を追いかけ大半の暗逢者が移動した直後、亜弐香に襲い掛かっていた個体の内の一体が、彼女に掴まれて頭を握りつぶされる。そんな調子で残っていた連中は次々と力づくで引き剥がされ、殴り飛ばされるか踏み潰されていった。
檻に残っているようやく起床した暗逢者の中には、彼女を上回る巨体の持ち主もいたが拳一発で胴体に穴が開き、内臓を引きずり出されて始末される。ストレスを和らげるための気休めの殺戮を繰り広げた彼女だが、その体には傷すらない。文字通り、暗逢者たちは歯が立たなかったのだ。
「籠樹…絶対後で殴ろ」
檻には緊急用に遠隔式の開閉機構が備わっており、これを使えるのは功影派が管理しているモニタールームのみである。誰がやったか…或いは指示をしたかは明白であった。気遣ったつもりなのかもしれないが、彼女にとってはいい迷惑である。
「まあ、生きてたらまた会えるよね」
次に会う時はもう少し気を紛らわせてくれると良いが。亜弐香はそう願いながら、邪魔立てした無能な味方を血祭りにあげるため、空虚になった地下室を歩き去った。




