第58話 悪夢は続く
ゾッとした。空気が下から自分を押し上げ、腹の皮や内臓を押しつぶそうとする感覚。ジェットコースターやバンジージャンプにおける落下運動の始まりとよく似た気分が、龍人と彼が抱えている兼智へ襲い掛かる。だが長くは無かった。夜空で小さな閃光が煌めいたかと思えば、凄まじい速度で颯真が接近してきた。龍人は咄嗟に霊糸を放ち、彼の腕に括りつける。おかげで落下は止まり、摩天楼と同じ標高で宙づりになってしまった。通行人や車が蟻のようにチマチマと動いている。
「流石は俺の友達」
「ああ、察しが良くて助かったろ。しかし…その…とんでもない客がいるな」
全くの偶然であり、上手く行ったのはまぐれである事をひた隠しにしたまま両者が称え合う。だが颯真の関心はすぐに兼智へと移った。かなり動揺しているのが話振りからして見て取れる。
「で…それで、そいつどうすんだ ? このままどっか行くか? 」
「いや、俺と兼智をこのまま降ろせ。お前は一人で逃げろ。いいな ?」
「正気か龍人⁉せっかく来たのに⁉」
「バカ。今は一緒にいるとマズい。早くしろ、見られるだろ ! コイツの事は後で考える !」
龍人が怒鳴り、颯真は渋々降下して地面へと降り立った。しかし龍人の考えはあながち間違っていない。自分が打ち込んだ弾薬の技術によってあの部屋にいた…いや、いるか分からない生存者たちは必ず財閥の介入を疑う。その状況で実行犯である自分と龍人が一緒に行動を続けようものなら、いよいよ疑念が確信に変わってしまうだろう。自分や祖父の事を心配してくれたのかもしれない。
降ろした後、「死ぬなよ。いつもの店で」と言い残して颯真は飛び立つ。龍人はそれを見送る事すらせずに兼智を担いだまま、再びビルの中へと入って行った。
――――籠樹たちが屯していた部屋は、一面が霜と氷に覆われた純白の空間に様変わりしていた。部下達と亜弐香は、マネキンの様に微動だにしないまま凍りついており、そんな彼女達の背後の壁には穴が開いていた。撃ち込まれた弾頭が破裂する寸前に、籠樹が武器を使って壁を斬り裂き、そこから脱出したのだ。彼は部屋の外で壁に張り付き、穴から漂う冷気に身震いをしていた。
「えげつないマネしよるわホンマに…」
籠樹は内部の様子を見て息を呑み、同時に苛立っていた。せっかくのビジネスパートナーとの休日を台無しにされたのだ。部屋に入り、忍び足で霜を踏みつける度にパキパキと音を立てる。そこから被害者たちに近づき、試しに服の袖越しに部下の髭を掴んでみた。たちまち乾いた小枝のように音を立てて折れてしまう。この様子では肉体には降れない方が良いだろう。砕けてしまうかもしれない。
だが、そんな心配も不要そうな者が一名だけいた。氷漬けの被害者たちの中で、一際大きな体が、目を凝らさないと分からない程に微かではあるが激しく動いている。亜弐香であった。更に彼女の体を覆っている氷が、溶けて形を変え、そして雫を垂らし始めた。しまいには亜弐香がようやく動き出し、無理やり体を覆っていた氷を砕いてみせる。
「ふぅ、危なかった」
絶対に思ってなさそうな言葉を、彼女は軽快に発してからずぶ濡れになっているシャツを脱ぎ捨てて搾る。細長くなったシャツから水が滴り落ちる様子を見ている彼女だが、その体からはちょっとした加湿器と思わせんばかりの蒸気が発せられていた。汗もかいており、背中と腹部に彫っている刺青を艶めかしく強調している。背中には桃太郎を踏みつけている酒吞童子が、浮き出た腹筋の目立つ腹部には激しく絡み合う蝮と百足が彫られている。
「お前よう生きとったな」
「冷気が弾頭から放たれる直前に、体中の筋肉を力ませた。全身運動の要領でね。それで無理やり心拍数と体温を上げたから、完全に凍りつかずに済んだよ。後はシバリングを起こして更に体を温めた。それだけ」
「言うは易しやんそんなの。どっかの少年漫画やあるまいし」
籠樹にツッコミを入れられた亜弐香はシャツを羽織ろうとしたが、湿り具合が気持ち悪かったため結局それを放り捨てた。どこからが乳房で、どこからが胸筋なのかが分からないスポーツブラだけの姿のまま、割れた窓の方へと彼女は歩いて夜風を浴びてみる。どうしてか寂しくなった。
「俺も慌てて逃げたし、どうなったか見とらんかったわ…こんな所から飛び降り自殺とは、だいぶイカれとんなアイツ」
後ろから籠樹がせせら笑っていたが、亜弐香は言葉を発する事も無く、ゆっくりと窓際へ近づいていた。
「おい、どしたんや」
「断言できる。彼は死んでない」
「は ?」
「逃げられると困るのは君でしょ。先に行ってる」
野性的な勘であった。自分とわずかの時間ではあるが、あそこまで渡り合ってくれたような男が何の策も無しに無謀な賭けに出るわけがない。それに、凍りつく直前に兼智を抱きかかえていたが、あの状態で一人で逃げるのは困難だろう。まだ近場にいる可能性が高い。その直感を信じ、彼女は割れた窓の一歩外側へ出て行き、何やら騒がしくなっている真下の道路へと足から落下した。
――――ビルの一階、パーティー会場は血の海になっていた。森田と佐藤が暴れてくれたお陰である。自らの意思ではない。下手糞に踊り狂う愚衆や、乱交と薬によがり狂っているバカを尻目に、二人でカウンターに座っていた最中であった。警備達がズカズカと近づいて肩に手を掛けてきたのである。佐藤は穏便に済ませようとしたのだが、隙を見た森田がブルックリンの入ったカクテルグラスを相手の顔面に叩きつけたのがマズかった。
「どうすんねんお前ゴラァ ! 全部パーやないか !」
酒が入って興奮してるのか、刀を握り締めている佐藤は若干荒々しくなっていた。
「そんな怒んなくていいじゃん ! 正当防衛だしこんなの !」
両手に鉄の爪を付けていた森田も負けじと言い返すが、二人の会話はパニックになっている群衆の声に搔き消されていた。それと同じ頃、龍人は出入口の客を押しのけて会場に入り込む。抱きかかえていた兼智については、結局面倒になったのか自分の後ろを歩かせていた。
「どけ、さっさと消えろ ! チンポとおっぱい丸出しで何やってたんだお前ら。馬鹿じゃねえのか…森田、佐藤 ! お前ら何やってんだ⁉」
龍人はどうにか二人の方へ近づいたが、辺りに転がっている警備員の死体を見て面倒くさそうに頭を掻いた。これでは自分が一人で勝手に忍び込んだだけだという言い訳は使えそうにない。協力者がいる事に勘づかれ、そこから周囲に迷惑が掛かるのはどうしても避けたかった。
「龍人さん、後ろの鴉天狗って誰や ?」
「ああ~…その辺の話は後だ。レイいるか ? とりあえず逃げないと」
二人が今後の予定を話そうとした時、クラクションの音が聞こえた。出入り口にごった返している客を車で撥ね飛ばしながら、どこかで見た型落ちのミニバンが現れたる。死体を踏みつけて龍人達の前に停車したその車の窓が降り、運転席からレイが顔を出した。
「うわっ、生きとったんか」
彼女は龍人を見て思わず口走ってしまった。しかしその言葉の意味をどうやら龍人は理解しておらず、車に乗っている彼女を見て嬉しそうに顔をほころばせる。つくづくバカで助かった。
「何だ車取りに行ってたのか。気が利くなお前、サンキュ…でも、乗せるのは俺じゃなくてコイツ」
ところが龍人はドアを開けるや否や、代わりに兼智を押し詰める。先に乗り込んでいた森田と佐藤は目を丸くした。
「ちょっと龍人くん⁉」
「たぶんだけど囮が必要になる。葦が丘地区にあるストランドって店に行ってくれ。俺の名前出せば助けてくれるから。場所は地図アプリで―――」
早口で龍人が森田に指示を捲し立てるが、すぐにそれは中断されてしまった。外で何かがぶつかったような音がした。それも交通事故の様な温いものではない。生まれてから一度も経験した事は無いが、隕石が地面に落ちた時は恐らくこんな具合なのだろう。そう思えるだけの振動と衝突音が響いた。衝撃のせいで腹がむず痒くなる。
「あーあ…おいでなすった」
その音が誰によって作られた物なのか、既に察しが付いていた龍人は冷や汗をかきながら笑う。自分達が脱出経路として使うつもりだった入口…そこから亜弐香が現れたのだ。




