湯けむりの初体験
翌朝、目を覚ますと、うつ伏せのまま動けなくなっていた。
体を起こそうとして、あまりの痛みに声なく叫んだ。
「ーーー〜〜!」
足、腰、腕、だけではない。首や、すねの前側まで痛む。
どんな動きをするとこんなことになるんだ…。
僕はベッドの上で悶えていた。少し動くだけで筋肉が軋む。
涙目になりながら、ファルマに呪いの言葉を念じていると、
ーーーごめん、ちょーっとやりすぎちゃったみたい! 加減がわかんなくてさーっ …テヘペロ☆
ファルマが答えてきた。
テヘペロ☆じゃねぇっ。
枕に顔をうずめて震えていると、トントンと音がして、ジェーンが扉のところに立った。
「どした?
昨日の午後から様子がおかしいけど…」
僕は救いが来た!とばかり、涙目をジェーンに向け、哀れっぽく言った。
「動けないんだ……助けて…」
ジェーンはすぐに動いた。手甲を外して、ベッドの側に傅くと、僕の額に手を当て、まぶたを裏返す。
「熱はないな、毒でもなさそうだ。呪いか?
暗くてわからないな。カーテンを開けよう」
さっと立ち上がりカーテンを開けると、小走りに戻ってくる。床板が軋んで音を立てる。
「何も出ていないな。
……こら、泣くな」
ジェーンが頼もしくてジーンとしていたら、さっきとは違う涙が出てきた。
追い討ちをかけるように、ジェーンは大きな手を僕の頭に当てて、慰めようとする。
僕はもう前が見えなかった。悔しいような、苦しいような、懐かしいような、切ないような。
「何があった?」
ジェーンは優しく声をかけてくる。
僕は声が出ない。というか…声が震えてしまいそうで怖い。
子供のとき、感じたのと同じ感覚。
寂しい。違う…家に帰りたい? 違う。言葉にしようとすると、なんだかうまくいかない。混ざっていて、一つにならない。
「どうしたの? ジェーン?」
女性の声がして、ジェーンの陰から扉の方を見ると、誰か立っている。
「ああ、動けないらしい。毒でも呪いでもないようなんだが…。
汗もかいているみたいだ。
悪いが頼めるか?」
「ええ、いいわよ」
女性は頷くと、近づいてきて僕を覗き込んだ。
僕は慌てて枕に涙を吸わせると、女性を見た。
クルクルとよく動く目、表情筋の豊かさが見て取れる豪快な笑顔で見つめていた。
普段こんなふうに笑う人は、見たことがない。見ず知らずの、他人の僕に、こんなふうに笑って何かしてくれる人は、いなかった。
僕の世界とは、違うんだ。
もう…ここで生きていくしかないのか…。
僕は、女性の目を見ながら、しおらしく観念した。
「お世話になります…」
僕は小さい声で言って、ぐすっと鼻をすすった。
「ふふ。はーい。
あ、ジェーン、この子に替えの服を用意してあげてくれない? 動きやすいやつがいいな」
「ああ」
ジェーンはきびきびと出て行った。
「さてと。じゃ、薬湯にでも出かけますか」
え。
女性は僕を仰向けに転がして、抱き上げた。
ぇえ…。
「ん? 軽い軽い。冒険者、なめんなよ?」
女性はにっこり笑うと、首に腕をかけるように言って、表に出た。
他の仲間に出かけることを告げて、女性は宿も出る。薬湯って…風呂ってことか?
ぇぇえええ!
「グレースちゃん、なんか昨日と違うね。覚えてる?」
話し方はサバサバとして、気持ちの良い性格なのがわかる。
動揺して顔も上気してしまう。脇と脚に彼女のおっぱいが当たって、というかこの柔らかさは神…!
「違う。本当はベルだよ…。
名前、聞いてもいい?」
動揺をごまかしながら、小声で言う。
顔が近くて、加減がわからない…。
「ベルちゃんか〜。うん。そっちの方がしっくりくるね。
私はサンドラ。闘士やってマス」
明るく笑った。つられて僕も笑う。しまった…首が引き攣る…。
「あ、ごめん。悪かった。
もう少しだから、がんばって」
サンドラは少し足を早めてくれる。
ごめん、ただの筋肉痛なのに、本当に申し訳ない。
サンドラは短い金髪。よく日焼けしていて、柔軟でそれでいて強靭な筋肉、そして豊満なる双丘がついている。
ご、極楽か…ここは……。
僕はその双丘に頭を凭せて、目を閉じ、湯に浮いていた。
いや、狙ってそうしたわけではないんだよ!? そうせざるを得なかったわけで。
あまりの心地よさに破顔して色々破綻しているのも構わずに、つい声が出てしまった。
「ぬぉぁあ〜」
「ふふっ、気持ちいいね〜
さっきは溺れるかと思って心配したけど」
「サンドラさん、ほんとありがとう〜。助かったよー」
湯に入るまでに問題は山積みだった。まずボタンが外せない。あと、至る所についているホック類の意味が分からなくて、引きちぎりそうになった。あと、腕が回らず袖が抜けない。肩に引っかかったシャツをなんとか外そうとしたんだけど、面白い動きをしていたのか、サンドラに爆笑された。くそっ、こっちは必死なんだぞ…。
筋肉が軋んで痛くて攣りそうになるし、思う通り動かない体に情けなくて涙目になった。おちおち女体を楽しむこともできない。
見かねたサンドラに脱がせてもらい、体も洗ってもらい、湯船にまで入れてもらうことに。でも広い湯船では体が浮いて体の位置を保てず、抵抗虚しく溺れた。
全介助。の上、溺れないようにの乳枕。
要介護認定で一生ベッドの上だとしても、サンドラ介助だったら僕は甘んじて受けようかな…。
「どういたしまして。
サンドラでいいよー。私もベルって呼ぶから。
お返しと言っちゃぁ何だけど、元気になったら鍛錬に付き合ってもらうからね〜」
鍛錬…? サンドラの立派な上腕二頭筋が僕の肩の稜線を撫でて、ベルの体を抱く。
「…えっと、お役に立つかはわからないですけど…?」
サンドラの満面の笑み。重い腕の、な潰されそうな圧迫感。怖いと初めて思った。この人、もしかして…。
「ドロシーとトーマはおしとやかだし期待してなかったけど、
ジェーンもバルトロウも最近は全然、相手してくれなくなって…
全力出して潰したのがダメだったのかなー」
つ、潰した…!?
いや、やっぱり脳筋らしいな…。さっきのは無し。
サンドラは、畏怖を持って見上げる僕の頬を両手で挟んで撫でる。
「ベルは成長期だし、手荒なことはしないけど、期待してるからねー。ふふふ」
ふふふ。
ま、まあいいや、相手はファルマがするんだし。そう思うと若干体の力が抜けた。
魂が少し暴れているみたいに感じるけど、無視だ、無視。
何かが肌に付いている気がして、湯に浸かって少しふやけた手を見る。傷はないが、手の甲のあちこち皮がめくれている。腕も3本切れ目が入ったようになり、皮がヒラヒラとしている。
傷がある痛みはない。
「なんで…」
「傷ついた後、自己治癒力が高いとこんな感じになるわね。
ていうか、なんでそんなに傷ができてるの? 昨日はなかったよね?」
「わかんない…」
魂でファルマを呼ぶ。呼べば通信できることは一番に覚えた。
ーーーほっほーい! なんか、乗り捨てできる感じでたんのしいなー。お世話係、よろしくねっ! にしてもサンドラ、ちょっと素敵な顔してんのにやばそうじゃん? 一人遊びもつまんないから、ちょうどいいかもー!
ーおいこら。そうじゃないだろ。この傷は何だ。皮が剥けてるじゃないか。
ーーーんーと、昨夜街の外で遊んでて、そしたらグリズリーが寄ってきてね、このまま放っといたら街が危ないしなーと思って、相手したん。したらこんなことに。ごめんにゃ☆
ーいやごめんにゃ☆じゃねえし。グリズリーて。
僕は毛むくじゃらのクマの鋭い牙と爪を想像して、鳥肌が立つ。
ーーーまあまあ。死ななかったんだし、いいじゃん。ていうか、この体、すごいよ。まだそんなに動けないから傷ついたけど、パワーがあるし、なんてったって治癒力が半端ない。ある程度無茶しても平気そうよっ。
ーいやいや死ななかったからいいとか、んなわけないだろ! 無茶しないでくれ! 僕が苦しむじゃないか…!
……ん? ふと思いついた事項に、僕の思考は集中した。
僕は、イリスからあるものをもらった。
それは、世界と接続する演算フィールドだ。まるでコンピュータのソフトを作るのと同じように、この世界の一部を僕の思い通りに書き直すことができる。いろいろと制約があったり、バグを生むこともあるみたいだけれど、神の領域に踏み込まなければ特に問題はないみたいだ。
痛み……神経、電気信号、肉体と細胞、そして再生。思いつくまま、イリスの演算フィールドにコードを打ち込んでいく。
「? ベル?」
突然ボーッとなったベルを見下ろして、サンドラは首を傾げていたが、そっとしておいてくれた。
慣れないフィールドでやや苦戦したが、15分でひとつながりのプログラムを書き上げた。
ふむ。悪くない。
むっくとサンドラの胸から起き上がり、湯船に仁王立ちした。
ベルのボロボロだった肌はつるっと綺麗になり、筋肉痛も跡形もなく消えた。
「サンドラ、ありがとう。いい湯だった」
僕はサンドラに顔を向けて、ニコッと笑って見せた。