9 憂鬱な日曜日
「お帰り」
「た、ただいま」
そっとリビングの扉を開けて、中をうかがうようにして部屋に入ると、すぐに声をかけられた。
お父さんはリビングのテーブルでノートパソコンを開いて、何か作業をしていたようだ。
顔を上げ、私を見る。
「今日は遅かったんだな」
「えーと、いつもこんな時間だよ。閉店間際に入ってきたお客さんが何組かいたけど、崇さんがバイクで送ってくれたし、むしろいつもより早いかも」
「そうか……いつも遅くまで働いているんだな。お疲れさま」
「ありがとう。でも、お父さんほどじゃないし」
「まあ、それもそうだな」
お父さんの口元が微かに緩んだ気がした。笑った……のだろうか。
そりゃあ、お父さんだって笑うことはあるだろう。でも、笑いあって話したことがなく、笑顔を見るだけで戸惑ってしまう。
「さて、ご飯にするか」
お父さんはパソコンを片付け、立ち上がった。私もコートを脱いで、制服姿のまま食卓へ向かう。
食卓には洋食が並んでいた。オムライスと温野菜のサラダだ。
ラップのかけられたオムライスを電子レンジにかける。
スープカップが食卓に伏せられていたので、キッチンを覗くと、コンロの上に置かれたお鍋の中に野菜たっぷりのスープが入っていた。
火をつけ、スープも温める。
温まったオムライスを食卓に戻し、スープも注いで並べる。
お父さんは食卓の端に用意されていたお茶セットで日本茶を淹れてくれた。
準備ができ、私たちは向かい合わせに座った。
お互いが「いただきます」と言ったきり、特に会話もなく食べ進める。
オムライスは卵をたっぷり使ったふわふわしたものだった。トマトケチャップの酸味と卵のマイルドさがちょうどいい。
スープは生姜と根菜類の入った和風なもので、夜風で冷えた体がお腹からしっかりと温まる。
温野菜サラダは柑橘か何かフルーティーなドレッシングが美味しい。もしかして、ドレッシングも手作りなのかな。家で買い置きしているものではない。
美味しくて食はどんどん進み、もう少しで食べ終わるという頃、お父さんが口を開いた。
「日曜日は」
「うん?」
「今度の日曜日、予定は空いているのか」
日曜日がどうしたというのだろう。
親しい友人が真衣だけで、手帳を見なければわからないほど予定が埋まることはない。
すぐに返事をした。
「特に予定はないけど……」
「そうか、良かった。それなら一緒に出かけよう」
「は?」
私は食べるのをやめて、お父さんの顔を凝視した。
一緒に?
出かける?
誰と誰が?
意味のわからない言葉を聞いた気がする。
「な、なんで」
「なんでって、休みの日に親子で出かけることは珍しいことじゃないだろう」
「そ、そうだけど……」
いや、本当にそうか?
今どき、高校生にもなって男親と出かけたりするのだろうか。
真衣からは、おばさんと出かけて服を買ってもらったなんて話を聞く。でも、おじさんと出かけたという話は家族旅行くらいしか聞いた覚えがない。
「とにかく、昼前から出かけるから」
「えーと、どこに?」
「……考えとく」
「決まってないの?」
「ああ。茜はどこか行きたい場所があるか?」
「特に、ないけど」
お父さんは「そうか」と言うと、話は終わりだとばかりに食べ進める。
意味がわからない。
どうして一緒に出かける必要があるのだろうか。
話を終わりにはしたくないのに、問い詰めたいのに、言葉が出てこなかった。
先に食べ終わったお父さんは手を合わせて「ごちそうさま」と言った。
それを見て、私も慌てて最後の一口を食べると、手を合わせた。
お父さんは私の分も食器をまとめると、キッチンへと立つ。
「あ、ありがとう。あの、流しに置いてくれたら私が洗っておくよ」
「いや、大丈夫だ」
「そ、そう……」
私は何を言えばいいのか、何をすればいいのか。それがわからず、キッチンとダイニングの境目に立って、食器を洗うお父さんの姿を見ていた。
洗い終わったお父さんは不意にこちらを見て、驚く。
「先に部屋へ戻ってよかったのに。どうしたんだ」
「あー、えっと……そう。食卓を拭こうと思って、台拭きを取りに来たの」
キッチンに置いてある台拭きを取ると、食卓を拭いた。洗って、作業台にかけて乾かしておく。
「おやすみ」
「ああ。おやすみ、茜」
お父さんの穏やかな声を聞くと、いたたまれない気持ちになる。どうして私がそんな気持ちにならなきゃいけないんだ。気持ちを振り払うように、急いでその場を離れた。
部屋に戻ると、速攻で真衣に電話をかけた。真衣は3コールほどで出た。
『こんな時間にどうした――』
「ねえ、どうしよう!」
真衣が言い終わらないうちに、言葉をかぶせるようにして叫んだ。
『あー、なんかよくわかんないけど、落ち着け』
「落ち着いてられないよ」
『何があったの?』
冷静な真衣の声を聞いていると、私の頭も少しだけ冷える。
ベッドに座りこんだ。
「お父さんがね、急に、日曜日に一緒に出かけようって」
『え、おじさんと一緒に?』
「そう。こんなこと初めてで、私、どうしたらいいのかわからないよ」
『まあ、どうしたもこうしたもないよ。おじさんの行くところに着いていきな』
「それはそうだけど……お父さん、何を思ってこんなこと言い出したんだろう」
私は枕を抱え込んだ。
『うーん、そういうことは本人に聞かなきゃわからないよ』
「ごもっともです。だけど、聞けないから困ってるんだよ」
『おじさんなりに、娘を放置しすぎてるって思ったとか、なんか心境の変化でもあったんじゃない』
「ええー。今さらすぎる」
『まあね。おじさんが家に寄り付かないのはひどすぎたしね』
「……そうだね」
私は苦笑した。他人の目でもそう見えるのか。
「はあ、日曜日どうしよう」
憂鬱すぎてため息が漏れてしまう。
こんなに嫌で嫌で仕方ないことなんて、今まであっただろうか。学校でも嫌なことはたくさんあるけど、心を鈍くして、できるだけ何も感じないようにしていた。それがお父さん相手だとできない。心を乱される。
『まあ、どこに行くのかわからないけど、着いていくしかないよ』
「うん」
『たぶんおじさんは、この機会に少しでも、茜との距離を縮めたいんじゃないかな』
「え……」
私は何も返すことができなかった。
私は距離なんて縮めてほしくない。でも、それを言葉にしていいものなのか。
私とお父さんの関係はおかしいんだろうか。
『私の勝手な想像だけどね』
「そんなの、全部遅すぎるよ」
『遅いとか、そんな理由で諦めたくはないのかも』
「諦め」
諦めているのだろうか、私は。自分のことなのに、よくわからない。
『ま、頑張って』
「うん、相談に乗ってくれてありがとう」
何をどう頑張ればいいのか謎のままなのに、私はそう締めくくって電話を切った。
そのままベッドで横になる。
心が荒れていた。そんな自分が嫌だった。もう何も考えたくない。
横向きにお腹を丸めて、私は目をつむった。
☆
落ち着かない土曜日を過ごし、日曜日の朝を迎えた。
起きて1階に下りると、お父さんは今日もリビングでノートパソコンを開いていた。
……本当にいる。
朝はいつも私が起きるより早く出社していて、日曜日だろうと、こうして家にいることはとても珍しい。
さすがに、休みなしで働いているわけはないと思うので、休みの日も家を空ける癖がついているだけでは、と思うんだけど。
「おはよう」と声をかけると、ようやく私に気づいたお父さんが顔を上げ、「ああ、もうそんな時間か。おはよう」と返した。
なんだろう、いつもより声に張りがなく、顔色は冴えない。
「もしかして体調が悪い? 大丈夫?」
「そうかな。ちょっと寝不足かな」
お父さんはメガネを外すと、眠そうに目を擦った。
「ずっと仕事してたの?」
「ああ、ちょっと溜まっててな」
「若くないんだから、ちゃんと寝なきゃダメだよ」
そう言うと、お父さんが笑った。
「……笑うような話なんてしてないんだけど」
「そうだな、ごめん。茜に心配されてるって思うと嬉しくなってしまった」
「し、心配なんてしてないし。そんな顔じゃ出かけられないんじゃないかと思っただけよ」
嬉しいなんて言われて、どんな反応を返したらいいのかわからない。戸惑いの方が大きくて、可愛げのないことを言ってしまう。
「いや、大丈夫。コーヒーでも飲んで目を覚ますよ」
立ち上がってコーヒーを入れにいく背中を見ながら、私はなんとも言えないモヤモヤとした気持ちに胸を覆われていた。
そこまでして出かけたい理由があるのだろうか。体調がすぐれないのなら、予定を変更して家にいればいいのに。
いつも忙しく働いているなら、休みの日はゆっくりと休むべきだ。
そう思うのに、言い出せなかった。
私たちはお父さんの運転する車で、家から1時間ほどのところにある大きなショッピングモールへやって来た。
私にはお父さんの意図がわからない。買い物に私を付き合わせる必要はあるのか。
車を降りて、お父さんのあとを無言でついて行く。相変わらず、話題がない。
お父さんは真っ先にレディースの服屋さんに入った。
思わず眉が寄ってしまう。
「ねぇ、こんなところに何の用なの」
「そりゃもちろん、服を買いに」
お父さんが女性ものの服を買うと言えば、答えはひとつしかない。わかりきったことではあるけど、それでも確認したい。
「誰の」
「茜の」
お父さんは何を当たり前のことを……という顔で私を見下ろす。
いやいやいや。普通、お父さんと娘で服屋さんになんて行かないのでは。
行くの?
行くものなの?
「なんで服なんて……」
普通の父親と娘のあり方がわからないけど、お店でだって、父娘らしき歳の離れた男女はあまり見かけない。
父親と服なんて買いに行かないだろうと思う私が間違いではないはず。
それとも、お母さんのいない家庭ではこれが普通なのか?
「ほら、これなんてどうだ」
お父さんは、近くにあったアラン模様の黒いニットワンピースを手に取って、私の体に当てた。
それは偶然なのか、私の好みのもので、可愛いと思う。思うんだけど……。
「こっちの方がいいか?」
次にお父さんが手に取ったのは、花柄の華やかなスカートだ。
冬は暗い色を選んで沈みがちなので、こういう差し色の綺麗なものを一つくらい持っていると、ちょうどいい。
これが全く好みじゃないとか、趣味が悪すぎるような服であれば断りやすいのに、そうじゃないから困る。
それでも、お父さんが選んだものと思うと、素直に受け取ることができなかった。
「いい、いらない」
「それじゃ、これは?」
私は首を横に振る。
何を見せても喜ばない私に、お父さんは困った顔をした。
「何か欲しいものはないのか」
「別に……」
今まで、お父さんからもらうお小遣いで服を買っていた。そう考えると、自分一人で買いに来ることと、こうしてお父さんと一緒に来て買ってもらうことは何も変わらない。
それなのに、なぜか私の心は褪せてしまって、何を見てもときめいてくれないのだ。
お父さんは何の目的で、買い物をしようと思ったのだろう。
私はバイトを始めたので、お小遣いはもう必要ないし、服は買おうと思えば自分のバイト代から買える。
こうやって買ってもらう必要はなくなったのだ。
それなのに、どうして。
「このお店の服は気に入らないか」
お父さんは少し悲しそうな顔をすると、服を元の場所に戻して、店を出た。「ありがとうございました」という店員の声が背中にかかる。
店にいる間、近寄ってこず遠巻きに見ていた店員には、私たちはどういう親子に映ったのだろう。
「次は雑貨屋さんなんてどうだ」
お父さんは雰囲気の良さそうな雑貨屋さんを指差す。
店頭を見た感じでは、ナチュラルでオシャレなインテリア雑貨などが多く、女性客で賑わっている。
「何でも買ってあげるから、遠慮しなくていいぞ」
「いや、今はいいよ」
「一つくらい気になるものはないのか?」
「なんでそんなに買いたがるの」
私は足を止めて、お父さんを見上げた。お父さんは迷ったそぶりを見せたあと、口を開いた。
「もうすぐ24日だろ」
その言葉が引き金となった。
お父さんを睨みつけてしまう。
「だったら何なの。今までずっと一人にしておいて、今更、親子づら?」
鼻で笑うように言い捨てると、お父さんが凍りついたような顔をした。
罪悪感よりも言葉が先に出てしまう。
「茜……」
「お祝いとか、そういうのだったら、なおさらいらないから。余計なことしないで」
私はお父さんを置いて、当てもなく歩き出す。
冷静になれば、お父さんの車で来たのだから一人では帰れないとわかっただろうに、今はただ、お父さんの顔を見たくなかった。
後ろから追いかけるように「あか――」と私を呼ぶ声が聞こえても、答えるつもりはなく足を緩めなかった。
その後に続いたのは私の名前の続きではなく、ドサッという大きな音だった。
まるで、何かが倒れたような、そんな音。
足が止まる。
今の音は何?
私は不審に思って振り返った。
そこにはさっきまでいたはずのお父さんの姿がなく……いや、いた。
地面に倒れ伏していた。