7 突然の帰宅
キッチンに戻ると、続きだ。
玉ねぎは崇さんが切ってくれたので終わっている。
崇さんは大きめのフライパンで何かを焼いていた。見た目は小さなハンバーグで、たくさんある。
「いい匂いですね。ハンバーグですか」
「いや、鶏肉のつくね。半分はこのまま照り焼きのタレで食べて、残り半分は大根と一緒にピリ辛に煮つける」
「ピリ辛、美味しそうですね! 楽しみです」
ピリ辛とはどんな味付けだろう。想像するだけで、お腹が空いてくる。
私は崇さんの指示のもと、お出汁を中火にかけ、じゃがいも、玉ねぎ、わかめを入れて5分ほど煮る。
「じゃがいもが煮えたら、火を止めて味噌を入れる」
「はい」
「味噌を入れたら火をつけて、鍋の淵がフツフツしてきたら火を止める。沸騰させたら美味しくないから、気をつけるように」
「わかりました」
私はじっと鍋を見つめて、鍋の淵に泡が立ったところで火を止めた。
こんなに早く火を止めて、温まっているのだろうか。
試しにお玉でひと混ぜしてみると、湯気がぶわっと立ち、お味噌の香りが鼻とお腹を刺激する。
うん、大丈夫のようだ。
私がそうこうしている間に、崇さんは、さっきまでつくねを焼いていたフライパンで大根を炒めている。
つくねを半分だけ戻して、酒、みりん、砂糖、しょうゆ、コチュジャン、水を加えて煮込む。
そうか、ピリ辛はコチュジャンの辛味なのね。コチュジャンを使った料理ってビビンバ以外は食べたことないかもしれない。豆板醤や唐辛子とはどう違うんだろう。
食べるのが楽しみだ。
大根とつくねは落とし蓋をして、このまましばらく煮込むそうだ。その間に、卵焼きを作ることになった。
味噌汁の鍋をコンロから下ろし、空いたコンロに卵焼き器を置く。
「今日は出汁巻きじゃないんですか? お出汁、取り置いてないですよね」
「出汁巻き風にしようとは思うんだが、おいしい出汁巻き卵って、出汁が多くて巻きにくいんだ。初心者じゃ巻けないと思う」
「それじゃ、どうするんですか」
「卵3個割って、薄口醤油と、このかつお節を半分入れて混ぜる」
崇さんはかつお節の小分けパックを取り出した。
「お出汁じゃなくて、かつお節そのまんま!」
「邪道だろうけど、わりとしっかりかつおの風味がして、それっぽくなる。出汁の素でもいいけど、こっちの方が余計なもの入ってなくて好きなんだ」
「へええええ! ちなみに、余計なものって例えばなんでしょう」
「化学調味料とか」
「あー、なんとなく体に悪そうですよね」
「体にどう悪いのかは知らないが、自然のものの方が安心だろ」
「そんなことまで考えてるんですねえ」
「うーん、自分の食べる分だけなら気にしないが、誰かに作るときは多少は気になる」
「そんなもんですか」
うん?
ということは、今日は私のために出汁の素を使わずにかつお節で作るってこと?
誰かの好意に慣れてなくて、胸がムズムズする。
私は、卵3個、かつお節半パック、薄口醤油小さじ1を小さなボールに入れた。
「で、さらに、少しだけ水を入れた方が柔らかく焼きあがるから、水も大さじ1入れる。本物の出汁巻き卵はもっとたっぷりの出汁を入れるから、上手く焼けるようになれば水は増やしてもいい」
「つまり、水分を増やせば増やすだけ、難しいってことですよね」
「まあ、そうだ」
初心者以下の私は無茶なんてしない。
言われた通り、水を大さじ1にして、卵を混ぜた。
「卵焼き器は熱して、油を少し入れたら、キッチンペーパーで余分な油をぬぐいながら全体に広げる」
「はい」
ガスコンロに火をつけ、卵焼き器を熱する。キッチンペーパーは小さく折りたたみ、菜箸で挟んで油を薄く広げた。
「で、菜箸で卵を少しだけ落として、ジュッと音が鳴れば、卵の1/3を流す」
崇さんの言うことをしっかり聞きながら、卵を混ぜて、音を確認した。
ジュッと響く。
いよいよだ。緊張する。
唾を飲み込んでから、溶いた卵を流し入れた。
「すぐに菜箸でグルグルッと混ぜる。外側の卵を真ん中に持っていくように」
「は、はい!」
急に早口になった崇さんの言い方に鬼気迫るものを感じ、一心不乱に菜箸をグルグルと回す。
卵がスクランブルエッグのようにグチャグチャになっているのだけど、本当にこれでいいのか。四角にもなってないのに、綺麗な長方形に焼き上げるなんてできるの?
ええい、もうどうなっても知らない!
崇さんは私の横から卵焼き器を覗き込んだ。
タバコの香りにまたドキッとする。
肩が触れそうなほど、いや、それどころか髪の毛まで触れそうなほど近い。意識が卵から崇さんに持っていかれそうだ。
崇さんって他人との距離感が近い人なのかもしれない。いちいち気にしていたら心臓が持たないし、意識しないようにしよう。
「うん、卵を手前に寄せて」
「こんなにグチャグチャでいいんですか?」
「1回目は気にしない。こうすると空気が混ざって、ふわふわになる。1回目からきっちりと巻こうとすると、固い卵焼きになるからな」
「はい」
言われた通り、卵を手前に寄せて、奥に油を敷く。
卵を奥に移し、手前にも油を敷くと、再び卵を流し入れた。
ここからは崇さんの勧めでフライ返しを使う。菜箸だと巻く難易度が上がるそうだ。
うん、簡単な方がいい。
奥の卵を浮かせると、フライパンを傾けて、その下にも卵を流す。
卵にフツフツと気泡ができるので、それはフライ返しの角ですばやく潰す。そして、手前に巻いていく。
フライ返しのおかげか、初めてでもなんとか巻くことができた。
我ながら、綺麗に焼けている。少し焼き色はついているけど、焦げているわけではないので、たぶん許容範囲だ。
同じようにしてもう一度卵を流し、焼き上げた。
まな板にのせた卵焼きを見ていると、落ち着いたはずの目がじーんと潤んでくる。
「私に卵が焼けるなんて……」
奇跡だ。
炭のように真っ黒のかたまりではなく、きちんと黄色だ。ところどころ茶色の焼き色はあるけど、おおむね黄色だ。
「うん、初めてにしては崩れなかったし、綺麗に焼けたな」
「ですよね、嬉しいです!」
「切るのは、少しおいてからの方が上手くいく。家で熱々を食べるときは切らずに出すのもありだが」
すぐに切ると崩れやすいそうだ。
「で、だな」
私は崇さんを見た。
「オレ、今日は帰ろうと思うんだが、鈴木さんは食べていくのかな」
「あ、どうでしょう」
一人で食べると、どんなに美味しい料理も味気なく感じる。せっかくなので誘ってみるかな。
私は作業台からカウンターの方へ身を乗り出した。
「真衣、ご飯食べてく?」
「え、いいの?」
ソファーで膝を抱えるようにしてテレビを見ていた真衣が振り返って、こちらを見た。
「うん。でも、おばさんもこの時間だとご飯作ってるよね」
「大丈夫、大丈夫。今日のご飯は明日食べれば怒られないし、ちょっと家に電話するわ」
真衣は言いながら、スカートのポケットからスマホを取り出した。
「じゃあ、準備しておくね」
話し合っている間に、崇さんは私の隣で料理を盛り付けていた。
「ありがとうございます。真衣も食べることになりました」
「ああ、良かったな」
崇さんがこちらを見て笑う。
その笑顔に、ドキッとしてしまう。
だから、無駄にイケメンなんだってば。
「は、はい。ありがとうございます」
なぜか崇さんの顔を見ていられなくて、私は慌てて料理をお盆にのせた。食卓に運ぶ。
卵焼き、大根のつくねのピリ辛煮の他に、キャベツと塩こぶのサラダ、ごはん、玉ねぎとじゃがいもの味噌汁だ。
電話を終えてダイニングにやってきた真衣は、料理を見て歓声を上げた。
「わー、美味しそう!」
「食べよっか」
「うん」
「崇さん、すみません。いただきます」
「ありがとうございます、いただきます」
私たちは崇さんに向かって頭を下げた。
崇さんはまだつくねの照り焼きを作ったり、作業中だ。手伝わずに先にいただくことを申し訳なく思いながらも、崇さんは「熱いうちに食べてくれたらオレも嬉しい」と笑ってくれた。
真衣と向かいあって座ると、なんか変な感じだ。
学食や、鈴木家にお邪魔して食べるときは向かい合わせで食べているけど、我が家では初めてだと思う。
今井さんに一人前ずつで料理をお願いしているので、真衣を我が家のご飯に誘うなんてできなかった。たまにはこういうのも嬉しい。
二人して改めて「いただきます」と手を合わせると、自然と笑みが漏れる。
真衣は卵焼きから口に入れた。その様子をじっと見る。
真衣はすぐに「美味しい!」と幸せそうな顔をした。満面の笑みを見ると、肩の力が抜ける。この顔を見れば、嘘でないことはわかる。
「良かった」
「んん、もしかして」
私は頷いた。
「私が作ったの」
「嘘、すごい」
真衣は卵焼きをひと切れ持ち上げて、マジマジと見た。
「ちょっとそんな風に見ないでよ」
「いいじゃん」
「恥ずかしい」
きっちり巻けているので大丈夫なはずだけど、そんな風に見られるとドキドキしてしまう。
真衣は卵から私に目を移して笑った。
「綺麗で、崇さんが作ったのかと思った」
「ありがと」
照れくさくなって俯くと、誤魔化すように大根を半分に切って食べた。
「これも美味しい!」
俯いた理由も一瞬で忘れ、顔を上げると私も真衣に笑いかけた。
甘辛い味が中までしみている。濃いめの味付けでご飯が進む。
「どれどれ」
真衣も食べてみて、顔を輝かせる。
「んー。本当に美味しい。これは茜? 崇さん?」
「卵焼きと味噌汁以外は崇さん」
「ほうほう」
大根に続き、つくね、キャベツと食べていくと、崇さんがキッチンから出てきた。
「茜、食事中にごめん。片付け終わったんで、帰るな」
「ありがとうございます。とても美味しいです」
「崇さん、茜がまともな卵焼きを作れるなんて意外でした。教えるの上手なんですね」
「むー、その言い方だと私がとんでもなく下手に聞こえる」
「とんでもなく下手じゃん」
と言いあっていると、崇さんが吹き出した。
「悪い、つい。二人とも仲がいいなあ」
「まあ、私たち、幼稚園からの付き合いだしね」
私と真衣はお互いの顔を見て頷きあう。
「幼なじみっていいよなー。で、茜の料理だけど。教わらないとできないのは当たり前だろ。ちゃんと教われば案外器用に料理できるのかもな」
ということは、私が電子レンジで卵を爆発させちゃったのは、卵をそのまま電子レンジにかけると爆発すると教えてくれる人がいなかったから、ということなのかな。
あの時、先生は黄身につまようじで穴を開ける理由まで言ってなかったような気はする。
理由からしっかり納得できないと覚えにくいのかもしれない。
意外とちゃんとできるのかも、と思えば気持ちが浮上する。
「そう言われたら、もっと頑張ろうって思えます」
「頑張ってくれ。と、もうお暇するから」
「はい、ありが――」
もう一度お礼を言おうとしたところで、インターフォンの音が鳴り響いた。
「こんな時間に誰だろう」
首を傾げながら箸を置いて立ち上がると、今度は小さな音を耳が拾った。ガチャッと、扉を開けるような音だ。
「え」
三人の声が重なる。
「まさか泥棒じゃないよな?」
言いながら玄関に向かおうとする崇さんを呼び止め、つぶやいた。
「なんか、ものすごく既視感が……」
「そういえば」
崇さんにも思いつくものがあったようだ。
まさか……まさか、ね。
「私が見てきます」
そう言ってリビングを出ると、すぐそばの玄関で予想通りの人が靴を脱いでいた。
その人はリビングのドアを開ける音に気付いたのか、顔を上げる。
目があった。
久しぶりに見た顔は、目じりの皺が増えている気がする。
「ただいま」
低い声が空気を震わせ、私は唾を飲み込む。
「お、お帰りなさい。お父さん」
なんとか声を絞り出した。
そこにいたのは、いつぶりに会うのかも覚えていない私のお父さん、桂木学だった。