6 味噌汁と卵焼き
いつもなら早足で通り過ぎる道を、真衣と一緒にゆっくりと進む。真衣は話し出したら止まらないので、景色を意識せずにいられて、ちょうどいい。
駅からいつもより時間がかかり、およそ15分ほどで見慣れた赤い屋根が見えてくる。
赤い屋根に、壁の上半分がクリーム色、下半分がレンガ調の一軒家が我が家だ。
とても可愛らしい外観の家で、亡くなったお母さんの趣味だと聞いた。
今では手のかからない緑しか植えられていない花壇に、昔は色とりどりの花を植えていたそうだ。
そういったことは全て鈴木のおじさんやおばさんに教わった。
お母さんの生前の写真や、その頃の我が家の写真は、お父さんが処分してしまったのか見たことがない。
でも、伝え聞く話や家の趣味で判断する限りでは、お母さんは可愛らしい人だったのかもしれないと想像している。
お母さんがこの家で過ごしたのはわずか半年ほどだ。私が幼稚園に上がる前に家が完成し、幼稚園に上がってしばらくした頃、事故にあい帰らぬ人となった。
その日、私はお隣の鈴木家に預けられていたおかげで、難を逃れたらしい。
もしもその時、お母さんと一緒に出かけて、事故に巻き込まれていれば……なんてことを考えてしまうことはある。
幸せというものがわからず、生きている意味が見出せないんだ。
だから、ときどき。本当にときどきだけど、お母さんと一緒に死んでも良かったのに、と思ってしまう。
でも、そうしたら、こうやって真衣と過ごすことはなかったのよね。
隣で笑う真衣を見ていると、こんな人生も悪くないのかなと思えるので、私の人生にも幸せがあるとすれば、鈴木家の隣に住んでいることなのかもしれない。
私は家の前で一瞬迷ってから、インターフォンを押して、鍵を開けた。
自分の家のインターフォンを鳴らす必要はないけど、いきなり開けたら、崇さんが泥棒か何かと間違うかもしれないと思ったのだ。
平日、今井さんは私の帰宅前に帰っているので、誰かが待つ家に帰るという状況が私にとって特殊だ。どうすることが正しいのか知らない。
玄関で靴を脱いでいると、リビングからエプロン姿の崇さんが出てきた。
「お帰り」
「ただいまです」
私は崇さんに頭を下げた。
誰かと「お帰り」「ただいま」と言い合うことも少なくて、こそばゆい。
「あなたが崇さんですか? はじめまして、隣に住む鈴木真衣です」
靴を揃えて脱いだ真衣も、上がり框を上がると丁寧に頭を下げる。崇さんも同じように返した。
「はじめまして、紺野崇です」
私たちは挨拶を終えるとリビングに入った。
真衣と一緒に、ソファに腰を下ろしたところで、崇さんが紅茶と焼き菓子を持ってきてくれて、私は下ろしたばかりの腰を上げた。
これは決して崇さんの仕事ではない。家政夫とは言っても、料理と掃除の契約だけで、接客までするメイドとは違う。
「すみません、こんなことさせて」
「あー気にすんな。友達が来るって言うから、何かあった方がいいと思って、オレが勝手に用意しただけだ」
そうやって差し出されたのは、見覚えのあるブールドネージュとクロッカンだった。
「これってもしかして、favoriの?」
真衣がブールドネージュを1つ手に取って崇に訊く。
ブールドネージュはアーモンドパウダーの入った丸いクッキーのようなものに、粉砂糖をまぶしたものだ。ほろっとサクサクでおいしい。
クロッカンは卵白とナッツの焼き菓子で、カリカリザクザクの食感が楽しい。
油脂が入ってないので軽くて、食べだすと止まらないのだ。
「自分でお菓子焼く時間はなかったからな。この前もらったケーキが美味しかったから、他のお菓子も美味しいかと思って買ってきた」
「崇さんすみません。お金は払いますので。って、崇さんってお菓子も作れるんですか」
「まあ、あんま気にすんな。お菓子は簡単なやつな。オレも甘いの好きだから、ときどき作るぞ。それより、今日は料理教えるのはなしにした方がいいのか」
「あー……」
答えに困って真衣を見ると、目があった。
「茜、料理を教えるって何?」
「都合のつくときだけ、崇さんに料理を教えてもらうことになったの」
「茜が、大丈夫?」
「いや、大丈夫じゃないから危機感にかられて」
「まあ、ねえー」
私の料理レベルを知っている真衣が遠い目をする。
私が調理実習で卵をレンジにかけて、爆発させたことでも思い出しているのだろうか。
温泉卵を作るために、黄身につまようじで穴を開けてから電子レンジにかけるという手順だったのに、何もせず電子レンジに入れてしまったんだ。
でも、その失敗のおかげで、調理実習で洗い物に徹していても怒られなくなった。
「それなら、茜はちゃんと料理を教えてもらいなよ。私は茜の家に男の人が出入りするって聞いて、どんな人か見に来ただけだし、料理してるところを眺めてるよ」
「ええー、ただでさえ下手なのに、見られてるとやりにくいじゃない」
「まあまあ、気にしない気にしない」
「それで、オレは鈴木さんのお眼鏡にかないましたか」
崇さんは作り笑いかと思うほど、にっこりと笑った。イケメンの笑顔は眼福……のはずなのに、空気がおかしい。
「んー。それはまだわからないけど、とても気遣いのできる真っ当な人だとは思います」
対する真衣も、笑顔で応酬する。
なんだ、これは。
笑いあっているというのに、蛇とマングースがにらみ合っているような、不気味な対立に見えてしまう。
「まあ、じゃあ。お菓子を食べるでも、キッチンを覗くでも、お好きにどうぞ」
「はーい」
崇さんがため息をついて、何かを諦めたように言うと、真衣は片手をあげて了承の声を上げた。
「茜は着替えたらキッチンに」
私を見た崇さんに「わかりました」と頷いた。
服を着替えると、キッチンへ向かった。
真衣はダイニングの食卓からキッチンのカウンターに身を乗り出すようにして、作業している崇さんを眺めている。
邪魔しないように、と真衣に目線で釘をさしてから、崇さんに声をかけた。
「お待たせしました」
「おう」
崇さんは先に調理に取りかかっていたようで、何かを湯がいている。鍋を覗くと、大根のようだ。
崇さんはその一つに竹串を差すと、火を止め、ザルにあげて水に浸けた。
「で、考えたんだけど」
崇さんは作業が一段落すると、こちらを向いた。
「2週間で色々と教えても身につかないだろうし、味噌汁と卵焼きを毎回作ってもらおうかと思うんだ」
「この前、崇さんが作ったものですよね」
「おう。いつも同じもの食べることになって申し訳ないんだが」
「いえ、気にしないでください。私も毎回違うもの作っても、一人で作れる気がしませんし」
一昨日、味噌汁は崇さんに教わりながら作ったわけだけど、一人で味噌汁を作れるようになったかというと、激しく不安だ。
たぶん、きっと、いや絶対に無理だと思う。
「ん。それじゃ、この前と同じで出汁からな」
「はい」
私は崇さんが出してくれていた鍋に出汁パックと水を入れて、火にかけた。沸騰したところで中火にして、タイマーをセットする。
「わかめを水に浸けて、戻してくれ」
「えーと、このくらいですか?」
崇さんに渡されたわかめの袋から、掴めるだけ掴んで見せた。
「多い。戻すと増えるから少しでいい」
わかめを袋に戻し、ほんの少しだけ掴む。
「そう、そのくらい」
崇さんにOKしてもらったわかめをボールに入れて、水を注いだ。
「これは5分くらい放置してたらいいから。次にじゃがいもの皮をむいて、切る」
「は、はい」
渡されたじゃがいもとピーラーにドキドキする。
まずはじゃがいもを洗ってから、ピーラーを使う。洗っても少し残る土が滑るのか、扱いづらい。
「あっ」
勢い余ってじゃがいもを掴む左手の指を切りそうになった。ほんの数ミリでも上を掴んでいたらアウトだった。
じゃがいも、怖い。いや、ピーラーが怖いのか。
「なんか危なっかしいな。手を切らないでくれよ」
「うう……がんばります」
切らないとは言えない。言えないけど、指の位置を気を付けて、慎重にピーラーを扱い、なんとか手を切ることなく皮をむき終えた。
崇さんに教わりながら芽も取る。
私、やればできる。
すでに大仕事をやり遂げたような気分になりながら、次の作業に移ろうとして、手が止まった。
「あの、どう切ったらいいですか」
「切り方は好みでいいんだが、オレは縦に2等分してから、それを7ミリ幅に切っている。カレーのときみたいな大きな塊に切るより、火が通りやすいんだ」
「なるほど」
崇さんが一つを見本で切ってくれて、私もその通りに切ろうとしたところでタイマーが鳴った。
出汁パックを取り出し、火を止める。
わかめもザルにあげておく。
作業はじゃがいもに戻り、再び切ろうとしたところで、今度は崇さんに止められた。
「手が危ない。今度こそ指を切るぞ。こうやって猫の手みたいに指を丸めて」
崇さんが私の右側から手を伸ばして、私の左手に手を重ねた。
えっ。
私は突然の接触に驚き、声も出ない。
崇さんの指が私の指を曲げて、猫の手にして見せる。
体の右半分が崇さんにくっついていて、手どころではない。近い。近すぎる。
「茜、わかったか」
崇さんから伝わる熱やたばこの香りに、心臓が飛び出しそうだった。
息づかいを感じる。
耳元で崇さんの声がする。
私は慌てて首を上下に振った。
「よし、やってみろ」
「あ、あの、崇さん」
崇さんが手を離したけど、肩が触れ合うほどそばに立ったままで、緊張して、じゃがいもを切るどころではない。
唾が減って、喉にはり付くような声で呼びかけながら、横に立つ崇さんを見た。
崇さんも私を見て、顔の近さにお互いが驚く。
崇さんは自分のしていることにようやく気づいたのか、「あ、悪い!」と言って、私からパッと離れた。
「い、いえ……」
崇さんをちらっと見ると、耳が赤くなっている。
私まで一層恥ずかしくなる。
崇さんとは出会ったばかりだし、好きとかそういうことではない。でも、異性の友だちなんていないので、男の人とこんなに近くにいるのは初めてなんだ。意識しないということは無理だった。
私はふと思い出して、顔を上げた。
真衣はこちらを見ておらず、リビングのソファに座って何かテレビ番組を見ているようだった。
真衣に見られていたら、変な誤解をされたかもしれないと思ったので、見ていないようで安心した。
改めて、じゃがいもを切ることに集中する。
崇さんの視線は気になるけど、雑念は頭から追い出す。
幸いと言っていいのか、初めて扱う包丁の怖さはどこかへ吹き飛んでいった。
手が震えないように力をこめて、じゃがいもを切っていく。すべてのじゃがいもを切ることが出来た。
はあーと長い息をはく。
無意識のうちに肩に力が入っていたようで、ようやく肩を下げた。
「切ったじゃがいもは水にさらす。こうすることで灰汁が取れて変色しないのと、余計なでんぷんを流せる」
私は言われた通りにした。
「で、終わったら玉ねぎのスライスだ。縦に半分に切って、玉ねぎの先の茶色くなった部分とお尻の芯を落として、縦に薄く切ってくれ」
「薄く……」
私にできるだろうか。
「スライサーに頼るって手もあるが、それだと逆に薄くなりすぎる。火を通すから多少は厚くてもいいし、頑張れ」
「……はーい」
切る前から難しそうで泣きたい。それでもやるしかない、と切っていると……あ、あれ?
悲しいわけじゃないのに、本当に涙が出てきた。
「あーあ、涙が出やすい玉ねぎだったのかな」
崇さんがズボンのポケットから取り出したハンカチで拭いてくれた。
ハンカチを持ち歩いているとは、やはりこの人、ヤンキーではないな。
言動は荒いのに、行動はそこらの女子より細やかだ。
「涙が出やすいものなんてあるんですか」
「いや、わからないが、玉ねぎ1個切るだけで涙が出るときと出ないときがある。鮮度の問題なのかな。スライスくらいなら、さっさとやれば大丈夫なんだがな」
「それって私がモタモタしてるせいってことじゃないですか」
ボロボロと泣けてくる。泣いていると、悲しいと錯覚するような気持ちになるから不思議だ。
「わ、悪い。なんだったら向こうで鼻をかんでこい。残りは切っておくから」
それって練習にならないのでは?
と思ったけども、どうにも止まらないので甘えることにした。
「うう、お願いします」
その場を離れてリビングに行くと、真衣がにやにやと笑いながら、大げさに驚いたような振りをした。
「茜ってば、アイツに泣かされたの?」
「見てたでしょ」
この顔は絶対にそうだ。さっきのじゃがいもは見てなかったようだけど、玉ねぎを切るところはここから眺めていたんだろう。
私は真衣をひと睨みすると、キッチンに背を向けて、音を立てないように気をつけながら鼻をかんだ。
この際、真衣や崇さんの前で恥ずかしいなんて言っていられない。
目もティッシュで拭って、ようやく少しスッキリする。
「私、顔を洗ってくるね」
「うん、そうしな」
ヒラヒラと手を振る真衣に背を向け洗面所へ行くと、冷たい水で顔を洗った。
目を冷やすならお湯よりも水でと思ったのだけど、真冬に水は冷たすぎたかもしれない。手がかじかみ、指先が赤くなった。
でも、冷たさですっかりと目が冴えて、泣いて重たくなった瞼が軽くなった。