4 料理のできない女とできる男
「それって崇さんの仕事ですよね。なんで私が?」
崇さんは料理を作る対価としてお給料をもらうのに、私が手伝うのはおかしくないだろうか。
「茜は高校を卒業したら、大学に行くのか就職をするのか知らないけど、家を出るかもしれないだろ。料理はオレの仕事で、茜に手伝わすのも変な話だが、少しは家事を覚えた方がいいんじゃないか」
「う、それは――」
言い返せない。紅茶すら淹れられない自分に危機感を抱いたところだ。
未来がどうなるのかわからないけど、もしも一人暮らしを始めたら、私の稼ぎでは家政婦なんて雇えない。このままこの家で、お父さんの世話になり続けるか、自分で少しは家事をするか、どちらかだ。
料理を覚えなくてはいけない。
そうわかっていても、今日出会ったばかりの崇さんに「お願いします」という気持ちにはならなかった。
「それでも、やっぱり私が手伝うのは変です」
「手伝うって思うからだろ。教わるって思えばいいじゃん。実際、教えなきゃ手伝いなんて何もできないだろうし」
「そうですけど……」
さりげなくケンカ売られた? と思っていると、崇さんに背中を押されてリビングから追い出される。
「制服だと汚したら困るし、着替えてきてくれ。よろしく」
「ちょっと、私やるって言ってない!」
崇さんは私に返事もせず、キッチンへ行く。その姿を呆然と眺めた。
言われた通りにするのは癪である。でも、このままご飯ができるのを待つというのも居心地が悪く、結局、自分の部屋へ向かった。
5分後、私はセーターとジーパンに着替え、今井さんが我が家に置いている予備のエプロンをして、キッチンに立っていた。
崇さんに負けた気分だ……。
軽く落ち込みながらも、手を洗って、何をしたらいいのか指示を仰ぐ。
「まずは茜にもできそうな作業からってことで」
崇さんはレジ袋の中から何やら取り出して、私に見せた。出汁パックと書かれたものだ。
「これで味噌汁用の出汁を取る」
「お出汁って難しいんじゃ……?」
家庭科の調理実習で習った記憶はある。お湯を沸かして、沸騰したらかつお節を入れ、かつお節が沈んだらとか何とか。
同じ班の子に任せっぱなしだったので、うろ覚えだ。
自分でできる気がしない。
「この出汁パックを使えば、簡単に出汁が取れる。まあ、ちゃんとかつお節で出汁を取った方が美味しいし、そう難しくもないんだが、目が離せないしな。これの方が他の作業と並行してできるから便利なんだ」
「そんなものなんですか」
かつお節がパックに入っているかいないかの違いに見えるのに。
「出汁の取り方はパッケージに書いてる。これは細かくしたかつおが出汁パックの中に入っていて、中火で5分ほど煮込むだけだ」
「煮込むだけ?」
崇さんから受け取った出汁パックのパッケージを裏返し、確認した。確かに、崇さんが言ったようなことが書かれている。
これなら私でもできるかもしれない。
私は崇さんの指示で、2パック分、1200ccのお出汁を取る。
「これって味噌汁一人分にしては多くないですか?」
余りは明日の分にするのかな。
今井さんは飽きないようになのか、洋食と和食を交互に作ってくれていたので、一度にたくさんの味噌汁を作ってはいなかった。もしかしたら崇さんは続けて和食を予定しているのかもしれない。
「親父さんと二人分だろ」
「お父さんは家で食べませんよ」
「は?」
「帰ってくるのが遅いので、仕事の合間に食べているのか、帰りにどこかで食べているのか、どちらかみたいです」
「うわ、それなら作りすぎかな」
「あ、じゃあ崇さんも一緒に食べませんか。私一人だと寂しいので。崇さんも16時半からうちにいたのなら、晩ご飯はまだですよね?」
「茜が構わないならそうしようか。オレも腹減っててよ」
崇さんがお腹を押さえる。
お出汁のいい香りが空腹を刺激して、作るだけ作って食べられないなんて耐えられないよね。
「ぜひぜひ」
なんて言っている間にタイマーが鳴ったので、火を止めてパックを引き上げた。
これでお出汁は完成だ。想像以上に簡単だった。
崇さんは冷凍庫に白米があるのを確認してから、ほうれん草をゆで上げた。お出汁とお醤油や砂糖などを合わせて、ほうれん草を浸す。ほうれん草を湯がいている間もごぼうを切ったり、手際よく作業をしていたので、感心する。
彼はさらにお出汁の一部を取り分けると、残ったお出汁を再び火にかけ、水で戻しておいたわかめを入れた。
「豆腐をサイコロみたいに切って入れてくれ」
ぼーっと見ていた私は、その言葉で慌てて豆腐を手に取った。
「あれ、開かない!」
豆腐の蓋のフィルムが外れない。
「貸してみな」
豆腐を受け取ろうと崇さんが真横に立ち、ドキンとした。
肩がすぐそばにある。さっき吸っていたタバコの匂いだろうか。苦いような香りがする。
男の人と二人きりなんだ。
手を伸ばす崇さんに豆腐を任せると、崇さんはパックの淵を包丁でザクザクと切っていく。
変に意識してしまう自分をごまかしたくて、「すごいー!」とテンション高めで言ってみる。
「このくらい常識」
と言いながらも、崇さんは照れくさそうだった。
崇さんに豆腐の切り方を教わり、手を切らないように慎重に切り分けると、お鍋に入れた。お鍋が沸騰すると、火を止めて、味噌を溶き入れる。
崇さんが私とは違う作業を始めると、私たちの間には少し距離ができ、緊張がほぐれた。
すると心に余裕ができたのか、手伝いというよりは本当に作り方を教わっていることに気づく。
料理教室だとこっちがお金を払って教わるんだもんね。
そう考えると、タダで教わっているようなもので、これって実は結構お得なことかもしれない。最初は嫌々だったけど、今は悪くないかなと思える。
味噌汁が出来上がる頃には、崇さんが並行して作っていたきんぴらごぼうも完成した。
「よし、あとは卵を焼くか。茜は大根をおろしてくれ」
包丁で危なっかしくも大根の皮をむき、おろし金でおろしていく。
崇さんは卵を割り入れたボールにお出汁の残りと醤油も入れ、かき混ぜた。それを熱した卵焼き器で焼いていく。
焼き色もなく綺麗に巻いていくさまは、思わず大根をおろす手を止めて見惚れるほどだ。自分には到底、真似できそうにないことはわかった。
私は崇さんに指示されながら、作ったものを盛り付け食卓に並べていく。
最後に、大根おろしを添えた出汁巻き卵を置いた。
「じゃ食べるか」
「はい」
私たちはエプロンを外して、食卓についた。
出汁巻き卵、ほうれん草のお浸し、きんぴらごぼう、豆腐とわかめのお味噌汁。
どれもすごく美味しそうだ。
「いただきます」
お醤油をかけた大根おろしを乗せて、出汁巻き卵を口に入れた。噛んだ瞬間に卵からお出汁がじゅわっとしみ出す。
かつおのいい香りと大根の爽やかな風味が口に広がる。
「美味しいです!」
「口にあって良かったよ」
崇さんがほっとしたように微笑む。
性格は子供っぽくてアレだけど、顔は無駄にいい人だから、またドキッとしてしまう。
そういえば、異性と二人でご飯を食べるなんて初めてだ。
途端に緊張する。
しかし、それも二口目、三口目と食べ進めるうちに忘れていた。夢中になって食べる。
ほうれん草もきんぴらも味付けがちょうどいい。私が初めて作った味噌汁も美味しくて、お腹が温まった。
その間、私たちに会話はなかった。
会話がなくても、初対面だからというような気まずさもなく、落ち着いて楽しく食事を済ますことができた。
派手な金髪で、絶対に関わり合いたくないタイプの人間に見えるのに、一緒にいることがこんなに落ち着くなんて不思議だ。
不思議といえば、崇さんの年齢の男性がこんなに料理上手というのも珍しいのではないだろうか。
崇さんの淹れてくれた食後のお茶で一息つきながら尋ねてみた。
「崇さんは料理が好きなんですね」
「んん、好き? まあ、嫌いではない……か」
「嫌いでは、ない?」
歯切れの悪い言い方に首を傾げてしまう。好きでなかったら、他人のために料理をするなんて、仕事でもできないと思うんだけどな。
「元々作り出したのは、必要にかられてなんだ」
「そうなんですか?」
崇さんはお茶を飲みながら、うなずく。
「うちさ、親が共働きなうえに、オレが小学校に上がる頃に母親がこの会社を興したものだから、とにかく忙しくて家事どころじゃなかったんだよ。毎日スーパーのお惣菜とか冷凍食品とかで」
「え」
「でも、一人でそんな食事とっても味気なくて。それで、レシピ本を買ってもらったり、テレビの料理番組を参考にして、母親の代わりに料理をやるようになったんだ。両親が美味しいって笑って食べてくれると嬉しいからさ、料理が楽しくなったんだ」
「なるほど」
「で、調子にのった母親に掃除や洗濯も仕込まれて、家事は全部押し付けられて」
一転してトゲトゲしくなった口調とその内容に、頬が引きつった。
「所長って言っても小さな会社だから今も現場に出てるし、人の家の面倒はみれるのに、自分の家は放置ってどういうことだよって思うよなー」
「え、えっと」
「まあ結果的に、こうやってバイトになってるから悪くないのか……いや、そもそも、このバイトをやりたかったわけじゃねえ。ああ、くそっ。ババアにいいように使われている気がする」
崇さんは頭をガリガリと掻いた。
「でも、崇さんは間違いなく一人でも生きていけますよ。あ、金銭的にってことではなく、家事とかそういう面でってことですけど。できない私よりはいいと思います」
と自虐的になる。
崇さんは私を真剣な目で見つめた。
「オレの親と茜の親、どっちがいいかなんて比べられないけどさ。茜の親は、茜を大切にしているってことはわかるんだよ。大切じゃなかったら、家政婦なんて金のかかるもん雇わず放置だろ」
「そう……ですかね」
私は笑おうとして失敗した。
そんな風に考えたことなかった。お父さんが私をどう思ってるかなんて。
「とにかく、こんな時間になっても親父さんが帰宅しないってことは問題だよな……」
こんな時間と言われて、リビングの壁にかけた時計を見る。
夜の9時前。この時間にお父さんがいないなんて、いつものことだ。
「仕事だし、仕方ないよ」
自分に何度も言い聞かせてきた言葉を繰り返す。
「だが……」
「崇さん、まだ作り置き作るんでしょ? 急がないと帰りが遅くなりますよ」
私は話を打ち切るように立ち上がった。
「ああ、そうだな……」
「私が手伝うと返って時間がかかっちゃうので、作り置きは崇さんにお任せしますね」
続けて立ち上がる崇さんを横目に、二人分の湯飲みをキッチンへ置きに行くと、私は一人で2階にある自室へ戻った。
何をするでもなく、ベッドにごろんと寝転がる。
「はあー」
無意識にため息が出る。
私と崇さん。
家族が家事をしてくれないのはどちらも同じなのに、どうしてこんなに対照的なんだろう。
家事ができない私と、家事のエキスパートな崇さん。
私は人任せにしすぎなんだろうか。甘やかされすぎなんだろうか。
「お父さんに甘やかされた記憶なんてないと思ってたのに……」
☆
いつの間にか眠っていたようで、ノックの音で目を覚ました。ノックが何度か続くうち、ぼーっとした頭がクリアになっていく。
そうだ、崇さん……!
勢いよく起き上がると、扉を開けた。
「すみません、寝てました」
「あ、起こしたか。悪かったな」
「いいえ。それで?」
私はぼさぼさになっているであろう髪の毛を手櫛で整えながら、彼を見た。
崇さんが働いてくれている間、悠長に寝てしまうなんて不覚だ。
「作り置きが終わったからお暇しようと思って」
「ああ、できたんですね。遅くまでありがとうございます」
部屋を出ると、1階におりて、玄関まで見送ることにした。
外に出て、バイクの元に向かった崇さんが振り返った。
「そういえば、聞こうと思ってたんだが」
「なんでしょう」
「仕事は23日までの予定なんだが、24日25日はクリスマスのご馳走とかいるのか? オレはクリスマスの予定ないし、なんなら23日の仕事を24日に変更してもいいぞ」
クリスマスと聞いて、笑みが固まる。顔が強張っていると自分でもわかる。
「いりません」
「だが」
「クリスマスなんて、大嫌い」
私は崇さんから目をそらすと、吐き捨てるように言った。
崇さんの息をのむような音が聞こえ、驚かせてしまったのかもしれない。
でも、彼の表情を確かめる勇気はなかった。
「それでは、ありがとうございました。また明後日お願いします」
私は崇さんを見ないようにして頭を下げると、家の中に戻った。玄関扉を閉め、その扉にもたれかかる。
自分のなんとも言えない気持ちを整理できなくて、胸が苦しい。
やがて、バイクの走り去るエンジン音が聞こえ、私は肩の力を抜いた。
たった2週間の付き合いだ。
友だちになるわけでもないし、次に会うのが気まずいなんて思う必要もないのよ。
言い聞かせながら2階に上がろうとして、私はケーキの残りのことを思い出した。
もう遅い時間だけど、大丈夫かな。
ジーパンのポケットに入れていたスマホを取り出し、時間を確認する。10時すぎだ。
おじさんもおばさんも寝るのが早いとは聞いたことがないし、起きているはず。
捨てるよりはと思って、鈴木家に届けることにした。
ケーキを取りにキッチンへ行くと、とても綺麗に片付けられている。流し台には水滴ひとつなかった。
晩ごはんの食器も湯呑みも洗わせてしまったようだ。
冷蔵庫にはマグネットでメモ用紙が貼られている。
なんだろう。
メモをはがして読むと、昼の3時から買い出しや掃除をしに来て、よかったら私の学校のあとに料理を教えるとのことだった。
手伝いではなく、教えるになっている。あれはやっぱり手伝ってほしかったのではなく、教えるという崇さんの好意だったようだ。
あれだけ嫌がっておいて厚かましいかもしれないけど、教えてもらえるなら教わりたいと今は思う。私だって料理くらいできるようになりたいんだ。
さらに読み進めると、バイトなどで都合のつかない日があれば連絡してほしいと、LINEのIDと電話番号まで書いている。
どういった料理を作り置きしているのかも書いてあるけど、それらの確認は明日でもいいだろう。
「嫌そうにしてたのに、変な人」
やっぱり見た目と違って意外と律儀というか、生真面目というか。
たった2週間なんだから、適当に働いて過ごしても文句も出ないだろうし、私のことなんて放っておけばいいのに。
いい人ってこういう人のことを言うのだろうか。
私は冷蔵庫からケーキの箱を取り出し、お隣に向かった。
インターフォンを押して出てきたのは真衣だった。
お風呂に入ったあとのようで、ワンピースタイプのもこもこの部屋着にレギンスを穿いて、髪の毛はまだ濡れている。
「……どうしたの」
学校でのことを引きずっているのは私だけではないのか、真衣の声は少し低かった。
「あの、遅い時間にごめんね。バイト先からケーキをもらったんだけど、食べない?」
私は箱を掲げて見せた。
「その箱、favoriの。そっか。ここのところよくケーキをもらっていたのって茜からだったんだ」
「うん。店長が残り物をくれるんだけど、一人じゃ食べきれないから」
「あああ、羨ましい。ていうか、この時間にケーキ食べるのは悩ましいけど、favoriのケーキなら食べちゃう。美味しいから大好きなんだよおおお」
途端にテンションの上がる真衣の反応に、笑いがこみ上げる。何だかんだと普通に会話ができている。
「美味しいもんね。でも、真衣なら体が細いんだから、時間とか気にしなくても大丈夫だよ」
「それ、茜が言う? 茜の方がすらっとしてて細いじゃん。私、茜より身長低いのに、体重は同じくらいだって自信あるよ! ちびで寸胴なんてやばすぎなんだからね」
「そんなことないと思うけどなあ」
「そんなことあるの。でもいい。今日はこれ食べて、明日からダイエット頑張る」
「来週か再来週にはまたケーキをお裾分けに来ると思うけどね」
「うう、その日だけダイエットはお休みする」
「まあ、頑張って。それじゃ」
「あ、ねえ。一緒に食べていかない?」
自分の家に戻ろうとしたところで、真衣は招くように扉を大きく開けた。
「ごめん、私はもういただいた後で」
「それって……」
「ん?」
真衣は急に黙り込んだ。どうしたのだろうか。
「あのね、さっき」
「うん」
「あの……」
どうしたのだろう。真衣は言いよどむ。
続きを待ったけど、真衣は話を諦めたようだ。
「うう、やっぱりいい。また明日学校でね。おやすみ」
「お、おやすみなさい」
真衣がどんな言葉を飲み込んだのかわからず、閉じられた扉をしばらく眺めていた。