2 ヤンキーとネギとゴボウ
「なあ」
少年が立ち上がり、口を開く。
「おまえ、桂木茜か?」
違う、と言ってしまいたい衝動にかられた。だけど、嘘がばれたときも怖い。
「そ、そう……ですけど」
どうして私の名前を知っているんだ。
疑問を口にする勇気はなく、訊かれたことだけ答えた。
少年はため息をつくと、煙を吐き出した。こちらに足を向け、タバコを携帯灰皿に押し付ける。
それを見て、思わず「灰皿」と言葉が漏れる。すぐにハッとして、両手で口を押さえたけれど遅かった。
少年は「アあっ」と濁点の付いてそうな声ですごむ。
「ご、ごめんなさい。携帯灰皿持ち歩いてるなんて律儀だなって思って」
見かけによらず、という言葉は飲み込んでおく。ケンカを売りたいわけじゃない。
少年は不機嫌そうな声を出す。
「あー……ダチにもだっせえって言われるけど、客先でタバコ捨てたらババアにどやされる」
「ば、ばばあ?」
「うちの母親。ほら、おまえも知ってるだろ。コンノ家政婦紹介所の所長」
「所長さん」
ある女性の顔が脳裏に浮かぶ。
数年前、いつもお世話になっている家政婦の今井さんが風邪で休んだとき、代わりの家政婦として所長さんが来てくれたんだ。所長でも現場の仕事をしているんだ、と驚いた覚えがある。
少年の母親ということは40代くらいの年齢だと思うけど、30代に見える若々しい人だった。
そう思い返していると、「……って、ああ!」と少年がいきなり大きな声を上げたので、心臓がバクバクする。
今度はなんだ。
少年は一気に距離を詰めると、ブルゾンのポケットから取り出したスマホの画面を、私の顔の前に突きつけた。
その拍子に、突き出した彼の腕の辺りでネギとゴボウがぷらぷらと揺れる。
ネギとゴボウ。
なぜ、ネギとゴボウ。
目はスマホよりもネギとゴボウを追ってしまう。見間違いかと思いたくなるけど、スマホの明かりで間違いないことはわかった。少年が肩から斜めがけしたメッセンジャーバッグから、ネギとゴボウが飛び出していた。
「おまえな、4時半に約束をしてるのに、寒空の下、何時間待たせるんだよ。もう7時も過ぎてんだぞ」
ようやくスマホに目を移すと、19:16と表示されている。バイトが7時までなので、終わってから着替えて歩いて帰り、まあそんなものだ。バイト先と家は歩いて10分ほどの距離である。
それより、約束ってなんのことだろう。
今度は少年の顔をまじまじと見た。
意思の強そうな瞳が印象的で、彫りが深めの顔つき。わりと整っている。
でも、金髪ピアスで睨まれると、いくらイケメンでも怖いのでやめてほしい。
彼をどんなに観察しても、自分の中で答えを見つけられなかった私は、少年に尋ねることにした。
「あの、所長さんの息子さんがどういう用件でしょうか」
「オレは紺野崇だ。コンノ家政婦紹介所から今井の代わりとして紹介されてきた。今日から2週間だけ、桂木家を受け持つことになったんだ。今日はその挨拶と、早速仕事をするつもりで来たんだが……」
「は?」
今井さんの代わりということは、家政……婦?
いや、男だったら何だ。家政、夫?
我が家はコンノ家政婦紹介所から今井さんという60代の女性を派遣してもらっている。今井さんが2週間休むため、別の人が来ることも聞いていた。
私は改めて少年の姿を上から下までジロジロと眺めた。
服装はジーパンにカーキ色のブルゾンで普通だけど、金色の少し癖のある髪の毛と耳についたピアスは、家政夫という職からイメージする男性とはかけ離れている。
そして、最大の疑問点が若さだ。クラスメイトとそう変わらないように見える。
今井さんの年齢のせいか、家政婦に若い人の仕事というイメージがなかった。若い人がいたとしても、結婚して主婦になった人が働いているイメージだ。どう見ても独身の、しかも男というのは想定外だ。
いくら所長の息子さんと言っても、若い男に家政夫の仕事なんてできるのだろうか。今井さんは家の隅から隅まで綺麗にしてくれていて、こうすれば汚れが落ちやすいなんて知識も豊富だった。料理も驚くほど手早く作るのに、どれもとても美味しい。そういうスキルは短い年数で簡単に身につくものではないと思うんだ。
だいたい、高校生が学校の後で働くのは無理がある。夜に家事をしてもらうことも可能だけど、あまり遅い時間に異性が家にいるのは困るのだ。
少年はスマホをブルゾンのポケットに戻すと、真正面から私を見る。
「親父さんに連絡して、親父さんは仕事で不在だけど娘さん、つまりあんたが家にいるからってことで4時半に約束取ったんだけど」
「ええっ、聞いてない」
考えていたことすべてが頭から吹き飛ぶ。
最高気温がぎりぎり2桁という時期だ。晴れていても、12月の夕方以降なんて気温は1桁まで下がっている。今の気温は恐らく5度あるかどうかだ。
人が来るなんて知らなかったとはいえ、寒空の下で3時間近くも待たせてしまったのか。
さっきから少年の態度で機嫌が悪いと感じていたけど、それは怒るはずだ。
「すみません、バイクはここに置いて中へどうぞ」
門扉を開け、その内側にバイクを移動してもらうと、玄関の扉も開けた。
家の中は一日不在にしていて冷えているとはいえ、閉め切っていたので、外の寒さに比べたら暖かく感じる。
玄関を上がってすぐ右にあるリビングへ案内すると、ソファのそばにある電気ストーブのスイッチを入れ、コートを脱いだ。
私がソファを勧めると、少年は鞄をソファに置いて、ブルゾンを脱ぎながら座った。
「何か体を温めるもの持ってきますね」
「いや、おかまいなく」
私は首を横に振った。
「風邪をひいちゃいますから」
と押し切り、荷物はダイニングの椅子に置いて、キッチンにやってきたところで困った。普段は今井さんが作り置いてくれたお茶を飲んでいるので、お茶の淹れ方が怪しいんだ。
家政婦さん任せにしているせいなのか、家事ができない。というか、やったことがない。
お茶の淹れ方一つわからないなんて、私、やばくないか。
今まで気にしたこともなかった自分の現状に、心がヒヤッとする。
とりあえずは流しの後ろにある冷蔵庫を開けて、今井さんの淹れ置いてくれたお茶がないことを確認する。
うん、そうよね。今日の朝に飲み切った覚えはある。他の日の記憶と混同して、実はお茶が残っている……なんて微かな希望は願望でしかなかった。
どうしよう。
今井さんは一昨日に仕事をしたきり休んでいる。アメリカに住んでいる息子さん夫婦のところへ、定年退職した旦那さんと遊びに行くそうで、すでに日本を出国しているはずだ。連絡して頼ることはできない。
そもそも、体の温まるものってなんだろう。
緑茶、紅茶、コーヒー?
温かければなんでもいいのかな。
そう考えたところで、店から持って帰ってきたケーキのことを思い出した。
廃棄物とはいえ、まだまだ美味しく食べられる。お茶請けにケーキを出しても構わない……よね?
となれば、洋菓子に緑茶は却下だろうと思って、私は振り返って少年に問いかけた。
「紺野さん、紅茶とコーヒーのどちらがいいですか?」
我が家のキッチンは対面式となっているので、キッチンからダイニングとリビングを見通せる。少年はこちらを見ると、軽く頭を下げた。
「じゃあ紅茶でお願い」
「わかりました。もうしばらく待っててくださいね」
私は棚から紅茶の缶を取ったところで、また困ってしまう。ティーパックなら簡単なのに、我が家にあるのはリーフティーのみ。なんでもティーパックよりもリーフの方が美味しいのだとか。
自分では淹れないから、今井さんのそんな話を聞き流していた。どうして淹れ方を聞いておかなかったんだ。リーフの量がわからない私にはハードルが高すぎる。
……まずはお湯を沸かさなきゃね。
冷静に、冷静に、と心の中で自分に言い聞かせながら、やかんを探す。どこに何をしまってあるのかさえ、把握できていない。
流しや調理台の下の扉をいくつか開ける。片手鍋があった。
これでもいいかな?
片手鍋を取り出すと、その裏にやかんを見つけた。ようやくやかんに水を汲んで火にかける。
これだけでどっと疲れてしまった。でも、まだまだ。次はティーポットだ。
カップは食器棚に置いてあることを知っていたので、その近くを見るとガラスのティーポットもあった。
ティーポットの蓋を取って、カレースプーンですくったリーフを――どのくらいの量だ。ええと、まあ、なんとかなるよね、きっと。
私はカレースプーンで山盛り2杯のリーフをティーポットに入れ、お湯を注いだ。
あとは蒸らすだけだ。
大仕事をやりきったような達成感と安堵が胸に広がり、ホッとひと息ついた。
案外、簡単じゃない。
蒸らしを待つ間、ティーポットを眺めていると、すぐそばで声がかかり、顔を上げた。
「大丈夫か」
いつの間にか、少年がダイニングとキッチンの境目に立って、こちらを覗いていた。
「もう少しでできます」
と答えたのに、彼は戻らない。それどころか、眉がググッと寄り――……。
「その紅茶、濃すぎないか?」
「ええっ、そんなことないですよ」
たぶん、と心の中で付け加えながら、茶こしを使ってティーカップに注いでいく。
その水色は、黒かった。
あ、あれ?
今井さんの淹れてくれる紅茶は赤く透き通っていた気がして、何かがおかしい。
「えーと……」
これ、飲めるのかな?
ふ、不安だ。
「おまえさー、紅茶淹れたことないだろ」
その言葉にドキンとする。どうして淹れ終わったあとを見ただけでわかるのだ。
「茶葉は多そうだし、ポットの周りには茶葉をこぼしてる」
「え」
言われて気づく。缶からティーポットに移しただけなのに、パラパラと台に散らばっている。私、雑だ。
慣れた人なら、こういうところまで綺麗に扱うのだろうか。
「きわめ付けは、使わない片手鍋が出しっぱなし」
少年の指さした先には、確かに片手鍋を置いたままにしている。
「なんか危なっかしいと思って見ていたが、段取りがめちゃくちゃだ。慣れてないからだろ」
「うう……その通りです」
正論すぎて言い返せない。
「その、なんかすみません」
「謝ってばっかだな」
その言葉にまたもやドキンとする。
何かあれば、とりあえず謝っておけば波風は立たない。癖のようになっているのかもしれない。
出会ったばかりだというのに、少年に見透かされた気がした。
「あーあ、一缶3000円はするいい茶葉なのに、もったいない」
少年は私の横まで来ると、出しっぱなしにしていた紅茶缶を手に取った。3000円と聞いて、我が家の紅茶はそんなに高いものなのか、と驚く。
「これって高級なお茶なの?」
「いや、どうだろ」
「え、だって今いい茶葉だって」
「うちで飲んでるのは500円とか1000円の茶葉だからな。それに比べたら高いし、美味しいんじゃないか。でも、紅茶って本当に高級なのは5000円以上するぜー」
「5000円!」
「ダージリンティーなんかだと、10000円超えるものもあるんじゃねえか」
「い、10000円……」
洋服を余裕で買えるお値段だ。そんな値段の紅茶があるなんて知らなかった。
「これはアッサムか。なあ、牛乳はあるか」
「えーと、たぶん」
冷蔵庫を開けると、牛乳パックを取り出した。消費期限は大丈夫のようだ。
少年はティーポットの中身を茶こしで漉しながら片手鍋に移した。
「これだけじゃ渋いかな……生姜とスパイスか何かあるか」
「え、わかんない」
「勝手に見させてもらうぞ」
と、冷蔵庫の野菜室を開けてゴソゴソしている。
「あった」
少年が手にしているのは土生姜だ。次に、紅茶のリーフを置いていた棚を探している。
「お、カルダモンなんかあるのか。シナモンは見当たらないが、これがあればちょうどいい」
少年は独り言のように言った。私に背を向けているので顔は見えないけど、嬉しそうな声だ。
「あとは……砂糖は?」
「それはここに」
グラニュー糖の入った入れ物を差し出す。
「サンキュー」
生姜とカルダモンと牛乳で何をするのだろうと見ていると、「ぼさっとしてないで、茜は片付けろ」と注意が飛んでくる。慌てて台を拭きながらつぶやいた。
「……呼び捨て」
初対面でそれはいい気がしない。
「親父さんも桂木さんだし、どっちも桂木さんはややこしい」
「それはそうかもしれないけど」
お父さんの仕事は忙しいようで、帰宅が遅い。私が寝てから帰ってきて、起きる前には出かけるのだ。時には、帰ってきた形跡のないこともある。
私はそのことを説明した。
「だから、紺野崇がお父さんと私、両方一緒に会うことなんてないですよ。どちらも桂木で問題ありません」
呼び捨てにされた私は意地になって、わざとフルネームで呼んでみた。
「茜、それじゃ、家にほとんど一人でいるってことか」
「まあ、そうです」
少年改め紺野崇が眉を寄せて、私の顔をマジマジと見た。
「言いたいことは山ほどできたけど、茜に言っても仕方がないしな……」
「茜じゃなくて桂木さん」
いつまでも茜と呼ぶので、私は訂正を促した。しかし。
「茜」
「紺野崇、桂木さんって呼んでください」
「それなら茜もフルネームで呼ぶのはやめろ。オレはおまえより年上だぞ」
「えっ」
台を拭く手を止め、私も紺野崇、いや、崇さんの顔を見た。年上を呼び捨てにするほど図太くないので、さん付けにする。苗字でないのは、崇さんが名前で呼ぶことをやめないからだ。
「年上? 見えない!」
「見えなくても20歳だ。大人だ」
「えええええっ」
少年ではなく、青年。
しかも、成人した大人?




