16 ケーキと真衣の事情
朝、目が覚めると、頭がズキズキと痛んでいた。
「あれ」
頬に手をやると濡れている。涙だ。昨日は泣いた記憶なんてないので、眠りながら無意識に泣いてしまったようだ。
「どうして涙なんて……」
答えなんてわかっている。悲しい夢を見たわけじゃない。
わかってはいるけど、わかりたくない。
私は何があっても何も感じないと思っていたのに、心の奥底では泣いてしまうほど悲鳴をあげていたというのか。
その事実を受け入れることが嫌だった。
手のひらで涙を拭い、体を起こした。ふと、枕元の置き時計を確認すると、起きる時間を15分ほどオーバーしていた。
「やばいっ」
泣いたせいで脱水にでもなったのか、動く度に頭へ痛みが響くけど、それどころではなかった。
私は急いで顔を洗いに1階へ下りた。
お父さんと会ったらどんな顔をすればいいのか。少し心配ではあったけど、杞憂だった。1階は静まり返っていて、人の気配がない。
洗面所で鏡を見ると、目は少し赤くなっていた。でも、泣いたとバレるほどは腫れていない。学校に泣いた目で行きたくなかったので、良かった。
顔を拭くと、ダイニングへ向かった。
のんびりする時間はないけど、お腹がとても空いていた。昨夜、晩ご飯を食べていないので当然だ。朝ご飯を食べないことには昼までもたない。
食卓にはメモ用紙が置かれていて、なんだろう、と手に取って読んだ。
メモはお父さんからだ。帰宅が遅くなったことへの謝罪と、今日も仕事で朝が早いので先に行くという内容だった。
「帰ってきてたんだ……」
今、お父さんがいないことに安堵すればいいのか。怒りをぶつけることができなくて、ガッカリすればいいのか。それとも、過労で倒れたばかりなのに、働きすぎるお父さんを心配すればいいのか。
どういう感情が正解なのかわからなくて、心が追いつかない。
とにかく朝ご飯にしよう、とキッチンの冷蔵庫を開ける。
「ん?」
何か違和感があった。それが何なのか、冷蔵庫の中を隅から隅まで眺めても、答えは見つからない。
気のせい?
首をひねりながら、朝ご飯と書かれたタッパーを取り出し、電子レンジにかける。
チンと鳴ると同時に気づいた。
慌てて、もう一度冷蔵庫を開ける。
当たり前ではあるが、さっき見た通りの光景が広がっている。でも、いつもの光景とは少し違った。
「やっぱり。なんで?」
いつもより、タッパーの数が少ないように感じる。
月水金で崇さんに来てもらっているうち、金曜日は土日の分も必要で、一番作り置きの量が多くなる。それなのに、他の曜日と同じか、あるいは他の曜日よりも少ないくらいかもしれない。
次に家政夫さんが入るのは明後日の26日。
これで足りるんだろうか。
私はスマホを取り出し、崇さんに連絡しようか迷う。そこでスマホに表示された時間が目に入った。
「あ、そうだった!」
寝坊したから時間がない。崇さんに確認するのは夜でもいいだろう。
体育館で行われた、校長先生の話が長くて退屈な終業式を終え、教室に戻った。
担任の先生から、「冬休み、羽目を外しすぎないように」と注意を受け、ホームルームも終わった。
教室内がざわついて煩くなる。みんな、冬休みやこの後のクリスマスパーティーに浮かれているようだ。
クリスマスパーティーは私には関係ない。さっさと帰ろうと鞄を持って立ち上がりかけたところで、「どういうこと!」と甲高い声が教室に響いた。
みんなが一斉に声のした方を見る。私も思わず腰を下ろして、教室内を見回し、声の主を確認した。
どうやら佐藤さんのようだ。佐藤さんと大園さんが真衣に何か言っていて、真衣は顔の前で手を合わして、謝るような仕草をしている。
何があったのだろう。喧嘩だろうか。
真衣が誰かと揉めている姿なんて初めて見た。
私は立ち上がり、迷った。
ここで見て見ぬふりをして帰ることは簡単だ。簡単なはずなのに、それでいいのか……と足は動かない。
困っている真衣を見捨てていいものなのか。それで友達と、親友と呼べるのだろうか。
鞄を持つ手に力をこめた。
それでいいわけ……ない。
今からしようとすることに、緊張が背筋をかたくする。喉がカラカラになり、貼り付きそうだ。声は出るだろうか。不安になる。
それでも、私は一歩を踏み出した。真衣たちの元へ行く。
「真衣」
呼びかけると、真衣は私を見た。続いて、佐藤さんと大園さんもこちらに目を向ける。
私はなんてことないように、平静を装って喋りかけた。
「真衣、どうしたの?」
でも、装いきれなかった声が震える。佐藤さんたちの視線の強さに、石にされそうな気持ちだ。
それでも、私は続けた。
「あの、真衣。一緒に帰ろう」
「茜……。うん、ありがと」
真衣は笑って私の元へ来た。でも、笑顔はいつものような自然なものではなかった。唇が引きつっている気がする。
真衣を追いかけるように、大園さんは高い声を尖らせた。
「まだ話の途中でしょ!」
真衣は二人を振り返った。
「ごめん。でも、私の話は終わったから」
「そんなに桂木さんが大事なの? 私たちよりも!」
そこで私の名前が出て驚く。
今、二人と話すよりも、私と帰ることを選んだせいなのか。
一体、何の話題でこじれているんだろう。
真衣はそれでも笑った。
笑っているのに、なぜだか泣きそうに見える。
「みんな友だちだし、どっちが大事だなんてことはないよ。みんな大事。でも、今日だけは譲れないの」
「それでも……!」
大園さんの言葉はそこで途切れた。佐藤さんが大園さんの肩に手をあて、首を横に振る。
大園さんは何を言うつもりだったのだろう。
パッと思いついたのは、私よりも自分たちを優先して欲しいということ。
小学生くらいの頃、真衣は私以外にもたくさんの友だちがいた。ときには他の友だちを優先していると感じ、私は嫉妬を覚えたのだ。
私よりも他の子が大事なのか、と。
今思えば、バカな感情だったと思う。私だけを大事にしろと言っているような要求が正しいわけない。
それでも、今でも、他の友だちと仲良くしている真衣を見ると、寂しく感じることがある。
それに近い感情なのかもしれない。
「ごめんね、二人とも。また冬休み明けにね。バイバイ」
真衣は申し訳なさそうな顔をしながらも、口元は笑みを浮かべ、手を振った。
佐藤さんは手をあげてくれたけど、表情が硬いままだ。笑ってない。
大園さんは睨むような目で私を見ている。
「茜、行こっか」
「いいの?」
私から二人と引き離すようなことを言っておいて何だけど、喧嘩別れして、3学期には何もなかったように笑えるのだろうか。
私の心配をよそに、真衣は頷いた。
教室を出るときに気になって振り向くと、二人はまだこちらを見たままだった。
私たちは学校を出て、駅までの道を無言で並んで歩く。
何か話を……とは思うものの、話題が見つからない。
いや、話したいことならある。さっきの喧嘩の原因についてだ。どうして喧嘩になったのか気になっている。
だけど、訊いていいのか……と考えると、言い出せずにいた。真衣から話さないなら、私には言いたくないのかもしれない。
そんな風に考えていたけど、駅が見えてきた頃、真衣は口を開いた。
「……今日のクリスマスパーティー、断っちゃったんだ。ドタキャンなんて、怒られて当たり前だよね」
「えっ!」
ドタキャン?
「あ、でも、そっか……そうだよね」
驚いた声を出してすぐ、私は気づく。言われてみれば、そうだ。
クリスマスパーティーに参加するなら、みんなとどこかでお昼を食べて、そのままパーティーの可能性が十分にある。
少し離れたところに住んでいる子もいるし、家に帰ってからもう一度学校の近辺で集まるのは手間だからだ。
私は不参加だからいいとして、不参加の私と一緒に帰っていること自体がおかしかったのだ。
佐藤さんたちから助けだすために、真衣に「帰ろう」と声をかけた。だけど、真衣がクリスマスパーティーに参加するなら、教室を出てすぐに別れて、真衣はパーティーに参加する別の友だちのところへ向かっても良かったのだ。
「ちょっと用事ができちゃって」
「用事って、なんの?」
尋ねながら、大園さんの最後の反応の理由に思い当たる。私が一緒に帰ろうと誘ったから、私との用事で断ったと、佐藤さんや大園さんは誤解したのかもしれない。
道理で私が睨まれていたわけだ。大園さんの中では『私のせい』ということになっているのだろう。
でも、私は帰宅して昼ご飯を食べたら、夜までバイトだ。真衣との約束なんてなく、私は関係ない。
真衣が喧嘩してまで優先させるなら、とても大事な用事なんだろう。でも、それが何なのか、ちっとも想像がつかない。
真衣は唇に人差し指をあて「ふふ、内緒」と笑う。
親友の私にも言えないことなんだ、と少し寂しさを感じてしまう。
気分はスッキリしないけど、あまり詮索するのもどうかと思って、それ以上は訊かなかった。
真衣とは家の前で別れて、帰宅後、お昼を取り出すために冷蔵庫を開け確認した。
「やっぱり少ない」
朝に気付いた料理の数だ。タッパーを取り出し数えてみたけど、明日には食べきってしまう数しかない。
どういうことだろう。
崇さんがこんな初歩的なミスをするなんて思えない。家政夫の仕事を始めたばかりならともかく、慣れてきた今頃にだなんて、不自然に思える。私の考えすぎだろうか。
今井さんはまだ休暇中なので相談できないし、やはりここは崇さんに連絡を取るべきか。
ただ、終業式の間に校長先生の話をろくに聞かず、ご飯が足りない場合はどうするのか考えてはいた。その結果、崇さんに連絡を取るのも躊躇ってしまう。
崇さんは契約を終えたのだ。
昨日、崇さんが帰る前に作り置きの料理が足りているのか、きちんと確認していれば、仕事の時間内に対応してもらえたのだ。
崇さんの不手際というよりは、私の確認不足が悪かったとも言える。
温めた昼食を食べながらも考え、仕方ないと結論づけた。
簡単なものなら私も作れるようになったんだから、足りない分は自分で作ればいい。
バイトが忙しくて作る余裕がなければ、コンビニかスーパーでお弁当を買えばいい。1日かそこらのことだ。きっとどうにかなる。
崇さんに教わったことが、まさかこんなに早く役立つとは思わなかったけれど。
食器を洗うと、出かける準備をして、バイト先へ向かった。
☆
クリスマスイブのバイトはとにかく忙しかった。
我が家ではクリスマスケーキなんて買わないから、クリスマスのケーキ屋さんというものを知らなかったんだけど、想像以上だ。
日頃から人気のあるケーキ屋さんなので、ここらのお店の中では特に混んでいたのかもしれない。
臨時バイトの女性が3人も入っていたので、辛うじて手が足りないということはなかったけれど、ひっきりなしにお客さんがいらっしゃるので、常に動いていた。
予約のクリスマスケーキのお客さんだけならば、ケーキを手渡し、お金を受け取るだけなので多少はスムーズだろう。
けれど、うちの店は予約外のホールケーキやカットケーキも置いている。
意外とカットケーキを買っていくお客さんも多くて、少し注文がややこしくなる。間違えないように気をつかいながらで、閉店する頃には肉体的な疲れと気疲れでぐったりしていた。
それでも、何とか今日の営業を終えた。
「足がパンパンだよ……」
「私も」
臨時バイトの人たちがこそこそ言っているのを聞いて、内心でものすごく同意していた。
今夜は足に湿布を貼って寝た方がいいかもしれない。何もしないと、確実に足の痛みや疲れを明日に持ち越す。
節々が痛む体で何とか片付けを終えると、私は「お疲れさまでした」と早々に帰ることにした。
早く家に帰って、ぐっすり眠りたい。疲れすぎてお腹も空いていないので、ご飯も食べずにベッドへ直行したい。
「あ、桂木」
「はい?」
裏口に向かおうとした私は足を止めた。店長を振り返ると、何やらこそこそ手招きをされる。
こそこそと言っても、店長は体が大きいので、全然隠せていないのだけども。
店長の元へ寄ると、他のバイトさんたちは私たちに挨拶をして先に帰っていった。私も「お疲れさまです」と皆さんに頭を下げると、店長に向き直った。
「なんですか。店長」
「ん、これ」
店長が私に箱を差し出す。それはケーキの箱だ。
「え」
考えるよりも先に、受け取ってしまう。
「なんですか、これ」
「みんなで食べてくれ」
「みんなでって言われましても……」
一体、誰と?
お父さんは、未だに甘いものが好きかさえ知らないままだ。例え好きだったとしても、昨日の今日で一緒に食べる気分にはなれなかった。
真衣と食べたいけど、クリスマスパーティーを断るくらいの大事な用事があるのだ。帰宅が遅くなる可能性もあるかもしれない。
それに、鈴木家もクリスマスケーキを用意しているはずだ。
崇さんは……無理だ。会いたいけど、仕事は終わったのに個人的に呼び出すことなんて、私にはできない。
結局、ケーキを一緒に食べる相手なんて思いつかなかった。
だいたい、私はクリスマスなんてしたくないのだ。クリスマスケーキなんて不要だ。
「店長、困ります」
私はケーキの箱を突き返そうとした。店長は受け取ってくれない。
「桂木が持って帰らなきゃ、傷んでしまうだけだ。食べられないなら捨ててもいい」
「ずるいです……」
さすがに、店長が作ってくれたものを捨てられるわけがなかった。
美味しいからというのもあるけど、店長が心をこめて作っている姿をバイトの合間に見ているのだ。
これはクリスマスケーキじゃなくて、ただのケーキだ。そう暗示をかけて、一人でやけ食いでもするか。
私はお礼を言って、店をあとにした。




