13 真衣の心
木曜日。明日のご飯を作ることにしたけれど、そのことをお父さんに言いそびれたまま、私は学校にいた。
明日は23日、天皇誕生日だ。
過労で倒れたばかりなのだから、祝日は仕事へ行かずに家にいるだろう。言わなくても大丈夫だとは思う。
とはいえ、万が一ということがある。言っておくに越したことはない。
そうは思うけど、今までまともに会話をしたことがない関係だから、話を切り出すことにものすごく緊張する。で、話しそびれるんだ。
お父さんにどう切りだせばいいのか、お昼のときに真衣に相談したい。
ところが、4限目の終わるチャイムが鳴ってすぐに立ち上がった真衣は、佐藤さんと大園さんに捕まってしまった。
私は鞄からお弁当を取り出して待っていたが、10分たっても話は終わらないようだ。
どうしよう。
ため息が漏れる。
真衣とは毎日一緒にお昼を食べる約束をしているのだから、真衣の元へ行って「ご飯にしよう」と声をかければいい。
それなのに、他の人と楽しそうに笑っている真衣を見ると、このままでいいのではないかと思えてくる。
真衣だって、幼なじみのよしみで親しい振りをしてるだけで、私のことなんて本当は友だちと思っていないかもしれない。
バカな考えだ。
真衣はそんな子じゃないと冷静に考えている自分もいるのに、どうしてだか感情の制御ができなくて、ネガティブな思いに捉われる。
そんな自分が嫌で嫌で仕方ない。
こんな醜い私に友だちがいないのは当然だ。
私は一人で席を立つと、真衣に何も告げずに教室を出た。
どこに行こうかと考えて、中庭に行くことにした。
お弁当は持ってきている。植物でも眺めながら食べたら、ささくれ立った心が癒されるかもしれない。
中庭へは、1階にある渡り廊下から出られる。
廊下と言っても、花壇など一部を除き、中庭や屋外の多くはコンクリートの床となっていて、廊下と外の区別はほとんどない。校舎と校舎を繋ぐ部分にだけ簡易の屋根がかけられていて、一応その下が渡り廊下ということになっている。
屋根の下から道をそれると、近くにある中庭へ通じているのだ。
私は渡り廊下に出る扉を開けた瞬間、後悔した。
「さ、寒い……」
一人だと言うのに、思わず声が出る。目の前が息で白く染まる。
コートを持たずに出た外は寒すぎだった。
雪はまだ一度も降っていないけど、空を見上げると、いつ降り出してもおかしくない曇り空だ。
空一面が灰色の雲に覆われていて、切れ間はない。
とりあえず足を踏み出してみたけど、寒くて寒くて堪らない。
どうしよう、戻ろうかな。
立ち止まって、辺りを見回す。誰もいない。
当然だ。
誰がこんな寒い中、外で食べるんだ。
でも、今更、教室には戻れない。
真衣はきっと佐藤さんたちとご飯を食べているだろう。私が一人で消えたことを怒っているかもしれない。
真衣のそばで、一人でお弁当を広げる勇気はない。佐藤さんたちとは親しくないので、私も一緒に食べるなんてことはもっと無理だ。
学食を利用しないのに、混んでる食堂で一人でお弁当を広げることも私にはできない。
他に食べる場所も思いつかない。
どんなに寒くても、外で食べるしかない。
決めて、私は再び歩き出した。
もう少し歩くと、花壇の前にベンチがいくつかある。そこで食べよう。
そう思ったとき、後ろから走ってくるような足音が響いた。
肩を掴まれる。
突然のことに驚き、声が出ない。
「やっと見つけた」
それは真衣の声だった。
振り向くと、膝に手を当てた真衣が荒げた息を整えていた。
「真衣、なんでここに……」
「なんでって、一緒にお昼食べようって約束している友だちが黙って出ていったら、心配になって探すでしょ!」
真衣は体を起こすと、私の顔の前に怒った顔を突き出した。
その反応は想定していなかった。
「心配……してくれたんだ」
「当たり前じゃない。それとも、茜は私のこと、友だちって思ってないの? 親友って思ってるのは私だけ?」
私は慌てて首を横に振った。
自信を持って親友と公言できない私だけど、そう思っているのが私だけじゃないとわかって嬉しい。
「ちょっと、怒ってるのに何を笑ってるのよ」
そう言われて初めて、自分が笑っていることに気づいた。
緩んだ頬に手をあてる。
「親友って思ってるのが私だけじゃないってわかって、嬉しくて」
いつもならこんなことを素直に言えない。
でも、私は変わりたいんだ。
素直になれない自分はもう嫌だと思っていて、真衣にもお父さんにももっと素直になりたい。
真衣は呆気に取られたような顔をした後、笑った。
「それならいいのよ。それより、ここは寒すぎ! もっと暖かいところで食べようよ」
「う、うん。でも、どこで?」
真衣は少し考え、笑った。
「私、いいところを知ってる。こっち」
私の手を引いて歩く。
やがてベンチが見えてくる。
中庭だ。
中庭に面した教室の一つに、中庭側にドアのある教室がある。
真衣はそのドアをノックもなしで開けた。普通の教室は中庭側にドアなんてないので、ここは何の教室だろう。
「せんせー、ここでお昼を食べさせてー」
真衣は奥に向かって声を張り上げた。
すぐそばにはベッドが二つあり、その奥のデスクには白衣を着た短髪の男性が座っている。
どうやら保健室のようだ。
あの先生は養護教諭だろうか。
私は保健室を一度も利用したことがないので、養護教諭がどんな先生だったか、うろ覚えだ。若い男性だった気がする。
真衣は相手からの返事も待たずに上がり込んだ。
保健室で食事なんてしていいのかな、と思ったところで、真衣は保健委員だと思い出す。
道理で保健室に慣れているわけだ。
こちらを見た先生は、私たちを見て顔をしかめた。眼鏡をかけていて、神経質そうな雰囲気の先生だ。
「鈴木、おまえなー。ここはお昼を食べるところでも、遊ぶところでもないぞ」
先生は立ち上がってこちらに来た。
「保健委員なんだからいいじゃん。友だちは委員じゃないけど、一緒に。ね?」
真衣が私の腕に自分の腕を絡めて、私を隣に引き寄せる。笑顔を作ろうと思ったけど、引きつってしまう。
ギロッと睨むような先生の目が怖い。謝ってしまいたかった。でも、それさえできずにいると、真衣は続けた。
「ほら、こんな寒い日に外で食べたら風邪ひいちゃうんだから、風邪予防って思えば、保健室利用の意義があるでしょ?」
真衣は片手を顔の前に立てて拝むようにして頼んだ。先生は真衣のおでこを小突く。
「あたっ」
「普通に自分の教室で食べればいいだけだろ」
「女子高生には色々と事情があるんです」
真衣はおでこを押さえると、頬を膨らませた。私の腕を離して、そのまま先生の横を通り過ぎ、奥へ行く。
「ま、真衣……」
小声で呼びかける。真衣は振り返らない。
気まずい。
真衣と先生を見比べて迷った末、先生に頭を下げると真衣を追いかけた。
先生は長く息をついた。
「ったく。授業が始まる前に出て行けよ」
「ありがとうございますー!」
先生は「調子よすぎ」と言いながら、もう一度わざとらしい声でため息をつく。真衣を呆れた目で見ると、廊下側の扉を開けて、保健室から出て行った。
「真衣、良かったのかな?」
不安になって聞くと、真衣は「大丈夫だよー」と笑った。
先生のデスクの後ろにあるテーブルとソファのセットに、真衣は腰掛けた。
私もその隣に座る。
「あの先生、怖いふりしてるけど、なんだかんだ言って優しいのよね。たぶん私たちのために席を外してくれたんだと思う」
「そうなんだ。次に会ったら、私がありがとうございましたって言ってたって伝えてくれる?」
「そんなにかしこまる必要はないけど、どうせ委員の活動で会うしね。了解」
お腹空いたー、と笑う真衣と一緒にお弁当を広げて、食べ始めた。
「それより、茜。向こう見てよ」
「え?」
真衣が指さすのは、私たちが入ってきたドアの方だ。
指の先を見ると、カーテンを開けている窓からは中庭が見える。冬なので咲いている花は見当たらないが、落葉する植物は少ないようで、この時期も緑の葉をつけた草木が臨める。
私たちのいる室内はストーブで温められていて、とても心地良い。
なるほど。
ここは確かに、患者さんがいなければとてもいい場所だ。特等席と言えるかもしれない。
「それで、なんで私に何も言わず教室を出たの?」
食べ終わり、一息ついたところで、真衣がそう切り出した。
私は口に入れていた食べ物を飲み込み、お茶を一口飲む。
「……なんかさ。他の友だちと笑ってる真衣を見てたら、私って一人なんだなって思って。真衣しか友だちいないし。でも、真衣が私のことをどう思っているのか疑っちゃうときもあって、なんか、虚しくなったというか……」
私はしどろもどろに答えた。
真衣がため息をつき、私は肩をビクッと揺らした。
今のため息の理由は、何。
真衣にどう思われたのか、怖かった。
「茜は、他の子と笑ってる私をどう思ってるのよ」
「どうって……羨ましいなって思う。みんなと笑いあって。私はそういうことできない」
もう一度、お茶で喉を潤わせた。
「人見知りなのかな。自分から親しくするのって苦手で。真衣とのときだって、真衣から積極的に話しかけてくれたよね。あれがなかったら、私は真衣とだって友だちになれなかったかも」
隣の家に住んでいれば、無条件に仲良くなれるわけじゃない。
幼い頃、自分から話しかけることができなくて、むっつりと黙っているような私に、真衣が根気よく笑いかけてくれたんだ。だから、真衣とは普通に話せるようになった。
今ではバイトを始めて、仕事の話であれば気負わず話せるようになった。
崇さん相手だって、仕事の延長だからどうにかなっている。
ただ、それだけなんだ。
「そっか。茜にはそう見えるのね。私さ、茜が思っているような人間じゃないよ」
真衣はソファにもたれかかった。口元は笑っているのに、目が笑っていない。
「私って臆病なのよ。一人になるのが怖い。仲間外れにされるのが怖い。だから、親しくなるのは無理かもって思えるような、ちょっと嫌な相手でも、とりあえず笑っておくの。笑って、相手の言うことに頷いて、良い子のふりをしておくの。本気でみんなと仲良くしたいんじゃない。波風を立てたくない、ただそれだけ」
「真衣……」
なんて言えばいいのか、わからなかった。真衣がそんな風に思っていたなんて、考えたこともなかった。
「だから――」
真衣がこちらを見る。
その目は今にも泣き出しそうで、ドキッとした。真衣のこんな顔は初めて見る。
「人の目なんて気にせず一人になれる茜はすごいと思う。きっと私なんかより、ずっとずっと強い」
そんなことないよ、と言いたかった。真衣はきっと私よりも強い。
でも、何をもって強いとするのか。そんな答えなんて出るわけがない。
きっと誰もが弱くて、誰もが他人を強く感じ、羨むのだ。
他人の気持ちを全部知ることなんて出来ない。こうやって心のうちの一部を見せてもらっても、それが全てではない。
人は自分の心しかわからない。
いや、自分の心でさえ、自分でもわからなくなって、ままならないものなのだ。
本当は心のうちの比較なんてやりようもないのに、相手の心を決めつけて、比較して、勝手に自分の方が劣っていると決めつける。
自分は異質なのではないか。
自分は誰よりも弱いのではないか。
そう思い込んでしまうんだ。
完璧な人間なんてきっといない。
自分の考えをどう伝えればいいのか迷っていると、廊下側の扉が音を立てて開いた。
私と真衣が驚いて見ると、先生が帰ってきたところだった。
「ただいまー」
「って先生! 気をつかうなら昼休みの間ずっと席を外しててよ」
真衣が文句を言うと、先生は私たちを見た。
「なんだ、おまえら。まだいたのか。あと5分で予鈴鳴るから戻れよー」
「え、ほんと? やばっ」
私たちは飲みかけのお茶を一気に飲んで、広げたままだった弁当箱を片付ける。
立ち上がると同時にチャイムが鳴った。
「茜、急ぐよ」
「うん」
「先生、ありがとうー」
「ありがとうございますっ」
お礼を言いながら保健室を飛び出すと、バタバタと足音を立てながら廊下を駆け抜けた。




