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千秋楽とスピンオフ

作者: カラン

※2016年 第二十三回文学フリマ東京にて、サークル「木の葉スケッチ」合同誌『ISM』に寄稿させていただいた短編です。軽くグロテスクな表現や暴力的な表現があります。

序、「私の死神」第一〇〇〇回公演


 月は雲に隠れ、窓の外は土砂降りの雨だった。時折光る稲妻が、部屋の消えたランプや、赤茶色のカーペットを浮かび上がらせる。

 若いメイドの歩みは、闇に浮かぶ細い線とは裏腹に力強かった。部屋の中に入って扉を閉める。その瞳は獣のようにギラギラと輝いている。

「イアナかい?」

 女に背を向けて、揺れ椅子に座る中年の男は、落ち着いた声で彼女の名前を呼んだ。呼ばれた女は冷静を装いながら、後ろ手に握るナイフが月の光を反射しないように角度を調整する。

「はい、ご主人」

「君もこっちにおいでよ。今日は月が綺麗だ。そこからも見えるだろう?」

「はあ……そうですね」

 女は口だけは丁寧ながらも、その声色は無愛想どころかぶっきらぼうにも取れた。普段からそういう性格なのだろう、男も動じずに話を続けた。

「ふむ、赤い月もいいものだね」

「……炎のようでございますね」

「炎……うん、そうだね」

「……少し、懐かしい気分になります」

 女の目に殺意が灯る。なれない手つきがナイフを導く。揺れ椅子が引き倒され、ティーカップが割れる。カーペットに肩をぶつけて転がる身体。女は男の手を思い切り踏みつけた。

「思い出すのです。あなたが焼いた私の故郷の姿を」

 男はメイドの行動に動揺する様子もなく、静かに微笑む。

「……ふふっ、……君に会えて嬉しいよ。死神。さあ、僕の呪いを解いてくれ」

 冷たい刃は男の熱い血潮を求め、彼の胸に――

「地獄に堕ちろ、サデク! 今日がお前の人生の終幕だ!」

 紅が細い指を染める。静寂がカサカサと音を立てて二人をじっと見守っている。男は安らかな顔で、息を吐きながらゆっくり目を閉じた。呪われた血が、カーペットに染みていく。

 女は立ち上がり、炎に叫ぶ。否、宣言する。

「お父さん、お母さん! ついに、私……やったわ!」

 単純明快復讐劇、これにて閉幕。なんて素晴らしい勧善懲悪!

 拍手は喝采。ありがとうございます。ありがとうございます。誠に勝手ながらカーテンコールは無し。アンコールも無し。皆様ご観劇ありがとうございました。次回公演は明日。皆様どうぞ足をお運びください。

 <私の死神>今日はこれにて閉幕。改めて、この復讐劇の素晴らしき主役に拍手を、拍手を!



一、客席から


 イアナ・ノッツがその男に会ったのは、母に連れられて来たノロルの街の劇場であった。当時、彼女は十五歳だった。イアナはその日、舞台が終った後、ホールから出て行く客の流れの中で母とはぐれてしまったのだ。でも、イアナは親に愛されているという自覚のある生意気な娘だった。なので大人しく壁際に行き、母が自分を捜しにくるのを待つことにした。少し経って、客がそこそこ減ってきたとき、イアナに声をかけてきた男がいた。

「君、一人で来たのかい」

 自分に親しげに話しかけてくる知らない大人の男にイアナは警戒した。イアナは村育ちの田舎娘だ。街にいる人間には必要以上に警戒しがちだ。よく見ると、彼は身なりが良く、その佇まいも品が感じられた。靴だって、観劇にきた観客の中でも、おそらく一等良い物だ。只者ではないとイアナが警戒していると、彼はそれを感じ取ったのか、帽子を外して優しそうな笑顔をイアナに向けた。

「ああ、警戒しなくてもいい。ちょっと気になっただけなんだ。君みたいな年代も見に来るなんて、珍しいと思ったからさ。君も今日の舞台を見に来たんだろ? どうだった?」

 どうだったと言われても、今回の舞台は、この男が言うようにイアナのような年代が見るものではない演目だったため、イアナには正直よくわからなかった。

 イアナが男を無視していると、「あー……君には、まだ早かったのかな」とぼそりと男が言う。突然子供扱いされた気がして、イアナは少しカチンときた。十五歳の少女は、こういうところに敏感である。

「まあまあだと思いました」

 生来負けず嫌いのイアナは思わず言葉を返した。

「台詞回しがとても面白いと思ったし、それに……主役とその親友役の役者はよかったと思う。でも、ヒロインの……なんて名前だっけ。そう、ジル役。その役者が悪いのか、脚本が悪いのか、分からないんだけど、なんか薄っぺらいなって思うのよね。親友を殺してしまった主人公に永遠の愛を誓うシーンとかも『いつ主人公を好きになったんだろう?』って思うし、全体的に違和感がある。主人公を愛してるなんて、いくら台詞で言っても感じられないし。……えっと、私の感想はこんなとこ、かな」

 イアナは対抗心剥き出しに、周りの客や母が話していた感想を適当にそれらしくまとめて言ってのけた。イアナ自身は、今回の劇は恋人役も含めて嫌いではなかった。愛などわからないが、そういうものだと思っていた。だから後半は完全に受け売りなのだった。

 男は少し驚いた顔をした後、嬉しそうに顔をほころばせた。イアナは気持ちわるいなと思った。こういうとき、好意的に接してくる都会の大人はみんな詐欺師にみえる。

「へえ、じゃあ、君は、どうすれば良かったと思う?」

「え、いや……し、知らないです」

 言ってのけたと思って、ほっとしていた所へ更に質問をぶつけられ、イアナは戸惑った。そんなところまで考えていなかったのだ。敗北に追い込まれたイアナだったが、都合のいいことに、ここでイアナの母親がこちらに向かってくるのが見えた。

「イアナ!」

「お母さん」

「ん? ああ、お母さんと来てたのか。ごきげんよう、奥様」

 母はイアナのそばにいる男に気がつくと、警戒するどころか、少し嬉しそうな、それを隠すような顔した。イアナにはその理由はわからない。

 イアナにとって、そこの男ほどの人間は親以外みな「おじさん」と「おばさん」の二種類でしか判別できない。しかし、一般的に大人から見れば、サデクの顔は整ったほうだった。それに加えて、この紳士的な微笑みと品のある佇まいだ。多くの女性は、サデクに話しかけられただけでも多少嬉しくなってしまう。

「ご、ごきげんよう。えっと……」

「あはは、すみません。怪しい者ではないのです。お嬢さんと偶然お会いして、少しおしゃべりを。お嬢さんの感想はとても興味深い。舞台を見る目が養われているのですね」

「ああ! そうだったのですか。娘の相手をしてくださってありがとうございます。ほらイアナ。あなたも御礼なさいな」

「え……」

 イアナは何故御礼をしなくてはならないのかと思った。正直嫌だったし、それが顔にも出た。

「いえいえ、お気になさらず。私も楽しい時間を過ごせましたから」

 イアナの渋い顔に気がついたのか、気がついていないのかはわからないが、男は笑って言う。

「ついでに、不躾ながら、提案したいのですが。君、イアナといったね。また明日……、いや、この劇の最終公演まで、毎回ここへ見に来る気はないかな? チケット代の心配はしなくていい、僕が出すから」

「同じ劇を?」

「そう。同じ劇を。何度も見ると、違った発見があるものだよ。どうかな」

 イアナはそこまで好きな劇でも無かったので、この得体の知れない誘いを断ろうと思った。しかし、イアナの前へ前のめりの母親が出てくる。

「本当ですか。まあ……素敵なお話です。お誘いいただいてありがとうございます。……イアナ、こんなことめったにないわ。いい機会だからお受けなさい」

「で、でも、村からここまで馬車が……」

「おや、失礼。村からいらっしゃっているのですね。ここら辺だと……セーノルあたりかな? そのあたりなら、私が馬車の迎えを出しましょう」

「本当ですか! イアナ。ここまで言ってくださってるんだから」

 こうなってしまっては、普段は大人しそうな母でも、もう自分の意見を聞いてくれないことをイアナは知っていた。しかも、残念ながら母は熱しやすく冷めやすい。


 イアナの村に馬車がやってくる。

 イアナの住むセーノルの村は、アサンノル地方の中心であるロノルという街から数キロ東側にある、そこそこ大きな村である。といっても、街から少し離れれば、山も見えるし自然もある田舎である。 一つ小さな織物工場があり、イアナの父はそこを経営している。とにかく、娯楽には欠ける場所であった。

 このアサンノル地方を収めているのは、ノルバリス家とかいう貴族らしいが、政治に関して良くも悪くも目立ったこともなく、印象は薄い。故に、この村の住人も政治に対して感心は薄かった。

「なあイアナ、今日もロノルの街に行くのかい?」

 イアナが出掛ける支度をしていると、イアナの家の近所に住んでいる中年の女性が声をかけてきた。

 セーノルの村の住人の多くは、舞台を見るという形の残らないものに、金を払うという行為が理解できないと思う者が大半であった。馬車を使って街に行ってまで、となると尚更だ。

 村で舞台を見るのは、イアナと、街で育った母くらいなものなのだ。

「その……本当に、その人が全額払ってイアナを舞台に連れて行ってくれるの?」

「はい、そうです」

「へえ……よかったねえ。だけど……私は心配だよ、騙されてるんじゃないかって」

「……いい人ですよ」

 そうは言ってみたものの、劇場で声をかけてきた男のように、他人のために金を払ってまで舞台を見せる人間のことは、イアナだって理解できない。でも母が行けというのだから行くのだ。街育ちの母のことだ、ああいう変わったことをする金持ちもいるというのなら、行ってこいというのなら、おそらくは大丈夫……だろう。いや、それは今や口実にすぎない。

 イアナはあの男に興味があった。彼はどこか、自分の周りの人間とは違う気がする。単に街の人間だということもあるかもしれないが、たぶんそうではない。彼からはは非日常の匂いがする。

 ここにある人にも物にも、イアナは昔から関心を持てなかった。母に連れられて舞台を観に行くことはあったが、正直よくわからないものも多い。とにかく、退屈だったのだ。

 さて、イアナは今回劇場の男と舞台を観に行くのは二回目になった。前回、母は付き添いで一緒に街へ行ったが、やはり同じ劇を見るのは退屈だったようだ。今回からはイアナ一人で行くように言われた。

 イアナが一人で行くということになると、サデクは馬車に付き添いをつけると言っていた。付き添いは、痩せ細った背の高い黒髪の男で、劇場の男はグレイと呼んでいた。グレイはイアナと言葉を交わすことはなく、話しかけてもわずかに反応を返すだけで口を開かない不気味な男だった。イアナはグレイが苦手だった。

 劇場で待っている男の所まで行くとホッとした。安堵して、それからイアナは、自分に舞台を見せてくれる男の名前を知らないことに気がつく。

「あの……私、名前……」

「イアナ、だろ?」

 イアナは彼の声で呼ばれる自分の名前に、心臓が跳ねる心地がした。嫌悪にも似たそれを振り切り、イアナは小さいため息をつく。

「ううん、そうじゃなくて」

「うーん、そうだね。……黙ったままなのはいけない、か」

 男は、何か紙の束を出した。すこしくたびれた紙の束は纏めて紐が通され括られている。その一番上に、イアナが見た舞台のタイトルが書いてあった。

「これって……」

「脚本。で、これが僕の名前」

 タイトルの横に、小さく <サデク・ハールド>と書いてある。それが男の名前だった。

「アンタがあの劇の脚本を書いたの?」

「うん、恥ずかしながら」

「黙っていたのは、私が感想を正直に言わなくなると思ったから?」

「そう。どこまで黙っていられるかなって思っていたけど」

 この男はずっと黙っている気だったのだろうか。にこやかな表情をしながら失礼な男である。どうせなら、偽名でも名乗られていたほうがまだマシな気もした。

「で、今回はどうだった? 前みたいに感想をくれると、僕としては嬉しいんだけど」

「どうだったって……うーん、感想っていうかさ、この前は確信まで持てなかったけど、もしかして、親友が死ぬときの主人公の台詞の言い方変わってる?」

「あはは! よくわかったね、そう、ちょっと変わってるんだ。穏やかで優しい感じだったのが、ちょっと感情的で激しい声で言うようにした。気がついてくれて、嬉しいよ」

 サデクがイアナの頭を触ろうとしたので、イアナは一歩下がって避けた。脚本家という職業の人間は、何となく尊敬には値する。しかし個人としてはまだ警戒している体なので、そうすぐに慣れ慣れしくしないで欲しかった。褒められたのは単純に嬉しかった。


 次の公演では、主人公の役者が変わった。交代で主人公役をしているらしい。所謂ダブルキャストだ。演技に大きな差は無かったが、もう一人の主人公役の方が見慣れていたので、不思議な感じがした。

「主人公がダブルキャストって珍しくない? もしかして役者にこだわりはないの?」

「いや、そんなことはない。二人とも優秀な役者でね、今回は実験的に二人に主役をやらせて、競わせる形にしてる」

 主役ありきの舞台でそんなことをするのは、珍しい試みなのだと観客が語っているのが聞こえた。

 恋人役の台詞が変わったのは第六公演からだった。

【ああ、ジャック! 愛してる!】だけだった台詞が修正されたのだ。

【ああ、ジャック! あなたが恐ろしい! なのに、わたしはあなたを愛しているの!】

 それは、恋人の為に親友を失った主人公への言葉だった。自分の愛の盲目さを自覚し、それでもなお、主人公を愛しているという。彼女の主人公への愛の形はわかりやすくなったが、大筋は変えられない。彼女は、まともでない主人公を、まともではないと知りながら愛する女になったのだ。

 イアナはその頃には、サデクに対し素直に接する努力をしようとしていた。自分でも、彼に対し特別に警戒していることを自覚していたのだ。なので、わからないことを恥じず素直にたずねた。

「怖いのに、愛してるってどういうことなの?」

「僕がそれを語るのは野暮じゃないかな」

 サデクが笑う。作者の気持ちを考えなさい。そんな途方もない問題がイアナの前に投げっぱなしにされた。

 最終公演でも、台詞が改変された。

 主人公と親友が話をしているときに、乞食が何度も物乞いをして邪魔をする、少し笑えるシーンだ。

 いつもは親友と主人公は乞食に邪魔をされて苛つきながら何度もはね除けるのだが、最終公演の特別演出で、親友が乞食に小銭を恵んで「頑張れよ」と声をかけた。何気ない、ストーリーには何の影響もないシーン。それでも通っていた観客数人は小さく拍手をした。最終公演だけを見ていた観客にはわからなかっただろう。

 それだけではなかった。終盤になり、親友は主人公とぶつかり、破れる。舞台にはいつも倒れた親友が一人倒れて暗転し、場面が変わる。しかし、今回は、あのシーン限りの出番と思われた乞食が、倒れている親友を見て、嘆き悲しむシーンが追加された。もう一度、今度はリピーターではない観客からも拍手が起こった。イアナも拍手をした。

「なんか、嬉しいね。ああいうの」

 いつも講演後に感想を話すカフェでイアナは興奮気味に言った。

「そうだろう? 最終公演ではいつも、ああいう演出を入れることにしているんだ。役者と話し合ってね。楽しいものだよ」

「そうなんだ」

「……今日は、ホールを出てからずっと笑顔だけど、面白かった?」

「うん……いいね」

 イアナは上から目線で頷いた。それから、少し間があって、イアナはサデクとの楽しい観劇がこの最終公演までだということを思い出した。サデクが、紅茶を一口飲んで口を開く。

「……さて、君とはこれで最後になるわけだけど、どうする?」

「どうするって?」

「うーん……」

 どうせ次も誘うのだろう、とイアナは思っていた。サデクだって、イアナとの観劇が楽しかったのはおそらく事実であったし、イアナも察していた。しかし、サデクの提案は予想の斜め上を行った。

「君にとっては突然の話かもしれないけど……、君、役者になる気はない?」

 イアナは目を丸くした。イアナは家の一人娘で、婿養子をとって父の織物工場を継ぐ予定だった。簡単には頷けない。でも、ちょっと悪くないとは思ったし、単純に嬉しかった。

「そ、それは……才能があるってこと?」

「役者の才能はやってみないとわからない。そこまで僕はわからないんだ。でも、君は今度僕が書こうとしている劇の主役のイメージに合っている。君が演じたらどんなに素晴らしいだろうと思うよ」

「何の役?」

 サデクはうっとりした目でイアナを見つめた。イアナには、なんだかそれが恐ろしかった。サデクが少し口を開くと、小さく粘ついた音がする。わずかにイアナの首に鳥肌が立つ。

「死神だよ」


 イアナは、役者の話をもったいないながら断った。やったことも無い。想像もつかない。家業を継ぐ自分にしか、将来像を見ていなかったのだ。敷かれたレールしか見てこなかったイアナにとっては、別の道は戸惑いの元でしかなかった。

「そうか……でも、ありがとう。僕は生きた感情を舞台に吹き込みたい。もっと生きた感情に触れたい。そう思わせてくれたのは君だ。ありがとう、イアナ」

 最後にサデクがこう言って締めて、二人の期間限定での定期観劇会は最後となった。

 でも、イアナはまたサデクと会うことを予感していた。イアナは確かに役者に興味があった。それでも迷い無く断れたのは、ここで断っても、サデクが何か別の手段で自分を役者にするのだろうと、なんとなく予感していたからだ。

【ここで頷いて欲しい】【頷いてくれるだろう】そんな気持ちを、サデクから一切感じなかったからだ。それでも、【死神を演じて欲しい】という思いだけは本気なのだとわかった。

 サデクは有無を言わせないわけではない。でも、あの人は何か別のことを考えているようだった。それだけが、イアナの心に引っかかり、種として植わった。


◇◇◇


 サデクに最後に会った日から、数ヶ月が経った。

 イアナはある日、一人でロノルの街へ向かっていた。舞台を観るためだ。サデクと会わなくなってから随分経ったが、イアナは小遣いを貯めて舞台を見るのが趣味になっていた。さすがに、同じ舞台を何度も見るということはできなかったし、二度とやる気は無かった。

 劇場に行く度に、誰かさんを探して周りを見たりもする。しかし、最終公演以来、彼を見ることは無かった。

 少し前、サデクが手紙を寄越してきた。脚本の仕事をしばらく休み、自分の家の仕事に専念するそうだ。更に数日前、彼の妻が亡くなり、葬儀を行ったとのことだった。イアナはそのときに初めて彼に妻がいたことを知った。そして手紙には、今回観に行く舞台のチケットが同封されていた。

 イアナは少しだけ後悔していた。皮肉にもサデクに話を持ち掛けられたのがきっかけで、役者に興味を持ち始めていたのだ。サデクの脚本で、自分が舞台の上に上がるのを想像してみる。夢をみるだけなら自由だ。イアナは婿養子を取り、父の工場を継ぐ。それはほぼ決定していた。ただの夢だ。

 でも、もし、もしもう一度サデクが目の前に現れて、役者になってくれというのなら、イアナは村を飛び出して舞台の上に上がりたかった。サデクがイアナを新しい世界に連れて行ってくれる日を、イアナは期待しないようにしつつも待ち望んだ。

 イアナは美しいお姫様ではない。報われることを望まれるような努力家でもない。風変わりな名探偵でもないし、悲しい過去を背負った殺人鬼でもない。それでも、サデクさえ来てくれたら、舞台の上で主役になれるかもしれないと夢を見てしまう。もう死神の役だっていい。

 言ってしまえば、それが役者でなくともいいのだ。サデクが望むなら、連れて行ってくれるのならば、どこだっていいのだ。

 思えば、イアナはサデクのことばかり考えている。イアナはそれに気がつくと、胸の中に激情の炎が灯るのを感じた。悔しい、ような気がして、胸のあたりを掻きむしりたくなったが、歯ぎしりをする程度で我慢した。

 サデク脚本の舞台も、あの日以来無い。「生きた感情」がどうとか言っていたわりに、と、イアナはがっかりした。ポスターを見る限り、脚本家は女性に変わっている。サデクに大きく影響を受けている脚本家なのか、言い回しや演出の細かいところはサデクのそれを思い出させた。むしろ、サデクの脚本よりも感情の描き方が丁寧で面白いと感じることもあった。

 その脚本家の姿を、イアナは何度か見たことがある。オドオドとして大人しそうで、おおきな眼鏡をかけた背の低い女性だった。

 今回の舞台は、復讐劇だった。男に捨てられた女が男を殺す話だ。噂によれば、役者は違えど主人公を初めとした登場人物の名前が、以前サデクと観た舞台と一致するので、世界観を借りた二次創作的続編なのではないかと言われている。イアナにも、そう見えた。

 イアナはサデクの姿を劇場で満足いくまで捜し、そして諦めて帰路へついた。

 しかし、イアナはその日のうちに、サデクと再会することとなった。


 村の見えてくる場所までくると、赤い光が見えた。夕焼けかと思ったが、村があるのは東の方向だ。なにかがおかしいと想い、イアナは目を凝らした。

 イアナは目を疑った。村が燃えていた。炎が赤く、空を染めていた。

 イアナには何が起きているかわからなかった。夢を見ている心地だった。一歩ずつ、村の方へ歩いた。空気が乾いてくる。熱風が髪を揺らす。

「イアナ」

「あ、あなたは……」

 一人の知り合いが、酷い火傷を負って逃げてくる。イアナはその姿に、脳が痺れるようなショックを受けて、一歩だけ後退ってしまった。

「なんですか……? 何があったんですか?」

「ああ、よかったイアナ……、あなたは……無事なのね。あなたの家は、その……残念だけど……とにかく……村から離れたほうがいいわ」

「……何があったんですか?」

 女性は咳き込みながら、苦しそうに途切れ途切れに話した。

「領主様が……突然村に火を放った……。反逆罪だって……でも、それが誰だかわからない……。そんな集会していた人なんて誰も……」

「どういう……領主って」

「ごめんなさい、もう……のドガ……痛……」

 そこで彼女はイアナの足下に倒れてしまった。死んでいるかどうかまで、考えないことにした。薄情だろうか、彼女の防衛本能はそう判断したのだ。確かめたら、きっと忘れられなくなってしまう。

 煉瓦で出来た工場は黒く焼けて、木造の家にいたっては元の形を留めていない。どこの家のものかはわからない食器や小物が、そこら中に散らばっていく。

 イアナは自分の生活の全てが、こんなにも突然にあっけなく終るということに納得ができなかった。せめて自分の目で、実感せねばならなかった。そうして、炭になっていく彼女の故郷へ歩いていった。

「お母さん……」

 一言だけ、それらしいことを呟く。やはり、夢をみているようだった。もっと、もっと近づいて、この目で確かめないと納得できない。

 そのとき、誰かがイアナの腕を掴み、引き止めた。それが誰なのか、イアナはすぐに思い浮かんだ。わかったのではない。ただ、一番会いたかった人物と、その人が一致しただけだ。やはり夢のようだ。

「燃えているね」

「……サデク!」

 イアナは振り向いてその男に縋った。胸のあたりをくしゃくしゃにして、やっと動揺を露わにできたのだ。

「危ないよ、イアナ」

「村が、村が! どうしよう、家族がいるの! お母さんも……」

「では、君はこれから天涯孤独というわけか」

 サデクの言葉は、帰る場所を失った少女にかける言葉にしては、穏やかで冷たかった。イアナはサデクのどうでも良さげな態度にショックを受けたが、同時に冷静を取り戻して来た。そして、やっとこの現実を受け入れることができた。

 村は、イアナの持っていたものは彼女の身一つ置いて、全て炎に奪われてしまったのだ。

「おいで」

 サデクはそれだけ言った。その短い三文字が、イアナが待ちこがれた言葉だった。イアナは差し出されたその手が、舞台の上へ引き上げてくれるのだと期待を膨らませた。

 しかし、サデクがイアナを連れて行ったのは、サデクの家ではなかった。


◇◇◇


 サデクは街門にある家のドアをノックした。黒い塗装は塗り直されたばかりなのか、ぴかぴかしている。

「ここ、あなたの家じゃないの?」

「ん? ああ、僕の友人の家だ。大丈夫、悪い奴じゃない。君は多分、ここで暮らす」

「サデクは?」

 そのとき、ドアがあき、家の主人らしき男がでてきた。温厚そうな紳士だ。つまらなそうな人だな、とイアナが思ったとき、紳士はみるみる血相を変えて、顔を真っ赤にして目を吊り上げた。

「サデク! お前何しに来たこの悪魔!」

 突然怒鳴られ、イアナは固まった。友人ではなかったのか、とサデクを見ると、サデクは苦笑している。

「久しぶりだっていうのに悪魔、ときたか……いや、君は相変わらずだね。ラエニ。ああ、イアナ、少しあそこで待っていてくれ」

 突然の怒号に固まっているイアナに、サデクは少し離れた公園に行くように言った。イアナは色々と口出しをしたかったが、ラエニと呼ばれた男にすっかり萎縮してしまったので、黙って頷いた。あんな怖い人のところに引き取られるのだろうか、と考えながら、背中で男がサデクを怒鳴りつけるのを聞いていた。


 しばらくして、サデクとラエニが公園に迎えに来た。

「イアナ、久しぶりだね」

 数十分しか経っていないのに、出会い頭サデクがそう言うので、イアナは小さく吹き出した。

「久しぶりって……数時間しか経ってないよ」

「そう? そうか。そうだったっけ」

「もう」

 そのあたりで、サデクの横に立っているラエニが咳払いをしたので、イアナはさっと佇まいを直した。

「あ、あー、君が、イアナだね?」

「はい」

「今日から君の家族になる。ラエニだ。よろしく。……さっきは恐がらせてすまないね。彼から事情は聞いた。お金の心配ならいらないし、すぐには無理でも、そのうち家族のように」

「あ……ありがとう、ございます。よろしくお願いします……」

 イアナは、あんなにも険悪だったのにどう言って自分を預かることになったのかと驚いた。それでも、差し出された手を大人しく取って握手をする。

 ラエニをどうやって説得したのかと思ってサデクを見るが、彼は何も言わず、イアナの前にかしずくように、目線を合わせた。

「イアナ、また君とはお別れになってしまうね」

「どうして?」

「僕はもうすぐこの街を離れることになる」

 イアナは、私も連れて行って、と言いたかった。サデクが少し近づき、イアナの髪の毛を耳にかけた。耳を掠めるサデクのかさついた指の感覚に、少し驚いて息を詰まらせる。その動作ひとつで、イアナの心臓が一気に騒ぎ立て、喉が急激に乾いた。

 イアナはサデクに抱きしめられた。そして頬に、柔らかく優しい感触がする。イアナは一瞬混乱して、サデクが頬にキスをしてきたのだとわかった。イアナは身体が干涸びてしまったようにバキバキに固まった。

「また会えるさ、必ずね」

 唇が触れた頬が熱い。身体全体に彼の体温が残り、イアナはどう処理すればいいかわからない気持ちに支配された。

 そして、サデクはまたイアナの前から消えてしまった。

「イアナ、といったね。君はサデクの友達と聞いたんだが」

 サデクが去って、まだ呆然とするイアナに、ラエニが訝しげに話しかけてきて、イアナははっと我に返った。友達という響きは違和感があったが、一応頷いておいた。

「は、はい。一緒に、舞台を見たんです。何回か……それで脚本についていろいろと」

「脚本? ああ……そうか、他には?」

「他に?」

 質問の意味が分からずイアナが首をかしげるとラエニは「いや、なんでもない」と話を終えてしまった。

 先ほど怒鳴られたときは驚いたが、イアナは、確かにこのラエニという人はサデクを気にしているのだと思った。なんだかんだ、友人として認識はしているのだろう。

「……サデクに、また会えるといいな」

「はい」

 イアナは甘酸っぱい気持ちに胸をいっぱいにして頷いた。


 しかし、数日後、顔を青くしたラエニが言った。

「サデクが、急死したらしい」

 ラエニはサデクの親類からの手紙から知ったという。床に視線を落としたままそう言った。それをイアナから、乾いた笑いが出た。

「嘘でしょう」

 それは決して現実逃避ではなく、本心だった。

「確かに、アイツは少しタチの悪い嘘をつくことがあるし、そういうこともあるかもしれないな。でも……死体は確かに見つかってる。西にある墓地に、弔われるそうだ」

「でも……でも……サデクは生きている気がするんです。どこかで」

 イアナは苦々しく目を伏せる。何度もサデクの薄い唇の感触を、頬の上に思い出そうとした。

 あの瞬間まで、サデクは自分よりも一回りも年上で、自分のことなど子供扱いしかしてくれない、自分が追いかけても荷物になるだけなだのだと、そう思っていた。初めて会ったときから、心が奪われることを恐れて、その心が報われないことを恐れて、必要以上に警戒して距離をとろうとしたほどだ。

 しかしあのとき、彼に【自分に憧れても良い】と、【好きになってもいい】と、彼に言われたような、そんな気がしたのだ。彼は確かに【また会える】と約束したのだ。

 だから、納得ができなかった。イアナの世界で初めて唯一の興味対象を、自分の知らないところで失うという理不尽を許せなかったのだ。

「生きてたとしても、もう君はアイツに関わるべきではない」

「どうして、ですか」

 ラエニは、何度も言い淀んだ。しかし、イアナは真摯に待った。そんなイアナの真っ直ぐな視線に負けて、ラエニは諦めたようにため息を漏らした。

「君が……知らなかったというのは驚いたし、知らない方が幸せだったかもしれない。でも黙っているわけにもいかないんだろう」

 ラエニは出来るだけ感情を抑えるように努めているようだった。

「アサンノル伯爵、セラーダ・ノルバリス。ここら一帯の領主は……君の村を焼いたのは、彼だ」

 イアナはそれを聞いて混乱した。領主? そうだとして、彼が変な理由をつけて自分の村を焼いた理由もわからない、自分を助けた理由もわからない。

 頭を殴られたような衝撃に身体が震えている。それが本当に震えているのか、錯覚なのかわからない。

「彼は、……脚本家では? それに、ノルバリスって」

「脚本家は彼の秘密の副業だった。サデク、という名前は……彼の偽名だよ。僕もそっちで定着しているし、今は普通にペンネームにしてるみたいだけど……。とにかく、いいか、もう彼の影を追うのはやめたほうがいい」

 そして、イアナはやっと、領主、セラーダ・ノルバリスの正体を知った。彼女はその辺りの政治には疎く、ずっと脚本家だと思っていたのだ。イアナはキスされた頬がかゆくなって、あの感触を剥がすように爪で引っ掻いた。

「サデクは……昔はあんなやつじゃなかったんだ。役者だったころは本当に普通のやつだったんだよ。わたしだって、自分の恋人が突然アイツと結婚するまでサデクを友人だって疑わなかった。他にも……アイツに狂わされた役者が多い。狂信者みたいなやつも中にはいる」

 ラエニは、堰を切ったように、サデクについて語りだした。ずっと我慢していたのだろう。誰かに聞いてもらいたかったのだろう。出番を今か今かと待ち望んだ役者の台詞のように、ここぞとばかりにそれは吐き出された。

「いつからかサデクはおかしくなった。いや、アイツは最初からおかしかったんだ。俺が気がつかなかっただけで。……だからアイツは、アイツは【呪われて】しまったんだ。悪いことは言わない。アイツは優しそうな顔をしているが、優しそうなだけだ。これ以上騙されて痛い目を見ないうちに、アイツのことは忘れた方が良い」

 イアナは既に、一方的に吐き出されるラエニの言葉もろくに聞けず、棚に寄りかかった。

 優しそうな仮面の下に、サデクは何を隠していたのだろうか。イアナは悲劇のヒロインのように、脱力して膝をついた。

【何の役?】

【死神だよ】

 サデクの声を思い出すと、イアナの頬は憎悪に火照った。頬が、首が、肩が熱を持って紅潮するのを感じた。

 死神、死神! 上等だ。まずはアンタを殺してやる。絶対に許さない。いつかアンタに会いにいき、そしてこう言ってやるのだ。

【今日がお前の人生の終幕だ】って!


 セラーダ・ノルバリスの急死はすぐに広まった。次期領主は彼の親戚に移ったらしい。病気を患っていたとか、死んだ奥方に呪い殺されただとか、いろいろな噂が流れた。

 当然、ラエニの所に住んでいるイアナの耳にも届いた。

 イアナはあくまで、サデクはどこかで生きていると疑わなかった。彼を殺すのは、自分の激情であると決めつけた。彼が生きているという根拠の無い確信があった。

 興味にしろ憎悪にしろ、イアナはもう一度彼に会いたいと願わなければ、生きる意味がない。彼女は村や家族を奪われた代わりに、サデクから生きる意味を賜ったのだ。だから、この物語はこう言って終ってもいい。

 めでたしめでたし。と。



二、舞台の上、「私の死神」初演


 雨が降り、田舎の小道はカエルが跳ねる。馬車の音が聞こえてくると、カエル達は一斉に草むらの中へ散って行った。

 とある田舎の屋敷に向かっているこの馬車の中には女が二人、弱気な女性セイル、そして、十九になったイアナだった。


 四年と数ヶ月。セラーダ・ノルバリス、もといサデクの手がかりをイアナが見つかるまでにかかった時間だ。

 イアナはしばらく、ラエニの元でちょっとした手伝いをしていた。同時に街の劇場にも通い、そうかからないうちに、劇場の係員として働き始めた。

 劇場の係員をしながら、イアナは密かにサデクの姿を探した。

 サデクが被っていたものと、同じような帽子を被った人影を見るとはっとしてしまう。背格好まで似ている人を追いかけてみたりもしたが、結局別人だった。

 もう死んだことになっている人間を捜し回るなんて馬鹿らしいと思う。しかし、イアナにとってサデクのこと以外の物事は、考える価値のない、つまらないものだった。それは、憧れが憎悪に変わった今も揺るがなかった。他に考えることは無かったのだ。

 サデクがいなくなれば、役者や舞台への興味も薄れていってしまった。いっそ、金や住むところに困ったほうが、生きることに必死になり、サデクのことなど忘れられたのかもしれない。しかし、イアナにはラエニという親切な人が住む場所も食べ物も提供してくれる。

 ラエニに、どうして、手伝いをしているとはいえ、自分にこれといった見返りもなく親切にするのか聞いたことがある。するとラエニは苦い顔で、「サデクは、私が君を見捨てたら、きっと私に何かしら仕掛けてくるだろう」と言う。そして少し考えてから、「直接でなくとも、私の友人に何かするかもしれない」と付け足した。

「……私がいうのもなんだけど、サデクは……」

「わかってる。アイツの死後でも、アイツの影を意識しているのは私も同じだ。……本当は私も彼が死んだことを受け入れ切れていない」

 しかし数ヶ月ほど経つと、イアナは少しは冷静になってもきた。サデクの死をいつか受け入れなければならないことも、考えることにしたのだ。受け入れられる気は未だしなかったが、そういうことも視野に入れることにした。

 とりあえず、打ち込める趣味を見つけようとして、劇場の受付や雑用の傍ら、様々なものに手を出した。出来るだけ金のかからない、読書、刺繍などの手芸、詩や絵などの創作芸術、果てはオカルト研究にまで手を出した。

 一番続いたものは「散歩」だった。しかし、歩いていると無意識に忘れなければいけないことまで考えてしまうので、自ら控えようと判断するという結果に終ってしまった。

 そういえば、散歩中に同じ年代の人間と知り合いになった。散歩をやめてから、すぐに顔も名前も曖昧になってしまった。たまにイアナが働く劇場で会うと、思い出すのに多少苦労する。髪型を変えられると特に難しかった。

 イアナはある日、劇場で一人の女性と知り合うことになった。それが、気弱で背の小さな女性、セイルである。セイルはイアナより六、七歳ほど年上の女性で、サデク亡き後劇場に出入りしている。

 女性の作家は珍しがられたが、なにぶん、セラーダ・ノルバリスの急死に伴い、【サデク】が失踪したことになったので、急遽、関係者のつながりで呼ばれたのだそうだ。作風はサデクに非常に影響を受けているらしく、イアナも初めて見たときは脚本が変わったことに気がつかなかったほどだ。

 知り合ったのは、挨拶する機会が偶然あったからだが、それをきっかけに、イアナはセイルとある程度親しくなることに成功した。ここまで他人に深く関わろうと思えたのは、彼女にサデクの影を感じだからだ。結局、イアナはサデクが関わらないことには充実できないのだろう。

 イアナはある程度セイルと親密になったときに、世間では故人となっているサデクの話を振った。するとなんと、セイルは元々セラーダ・ノルバリスの家に仕えるメイドで、今も彼の元で働いているというのだ。

 彼女は、自分の名前を名義としてサデクに貸し、劇場に来ては脚本家として成り代わっていたという。

 イアナには驚きの連続であった。こうしてセイルを説得し、サデクに会えることになるまでに、多くのことを省いている。しかしながら、イアナがここに至るまでに四年かかった。

 この四年間セイルに出会うまで、情報らしい情報は無く、サデクの居場所どころか、生死さえ疑わしかった。サデクとの共通の知り合いなどそれまでいなかったし、唯一のそれと言える保護者のラエニは、「もうサデクには関わらないでくれ。あいつは死んだことにしたい」の一点張りだ。

 それでもイアナは一生をかけてサデクを捜すつもりでいた。もう少し大人になれば、領主関係の大人にも関わりに行って、どうにかして手がかりを掴んでやろうと考えていた。

 いつか彼の死を受け入れる日が来ると思っていた。それでも一生サデクを殺してやりたいと呪い続けるつもりだった。こんなに簡単にサデクを殺す機会がくるなど思わなかった。

 今だって、夢を見ているようだ。イアナは内心焦っていた。サデクに会い、殺す。何度も考えて来た、考えなかったことなんてなかった。しかし、実際にこうして機会が回って来て、自分はそれを実行する覚悟が足りないことを自覚していたからだ。


 馬車はやがてとある屋敷の前で止まる。

「あっ、イアナさん、こちらです」

「はい、今行きます」

 セイルはイアナを手招き、屋敷の中へ招き入れる。イアナは四年ぶりの再会に期待と不安を高まらせながら、セイルに続いて屋敷の中へ入っていった。それなりに古い建物らしいが、手入れは行き届いているらしい、掃除用具を持ったメイドがそのあたりをせかせかと動き回っていた。

「実は……イアナさんの話、卿から少し聞いたことがあるのです。今まで黙っていてすみません!」

 サデクはどんな風に自分のことを話したのかも気になったが、「卿」という呼び方が妙に面白くて、イアナは呑気に笑いをこらえていた。しかし、セイルが扉の前でノックをして「サデク様、お客様です」と言うのが聞こえて、すぐに姿勢を正した。

「ああ、開いているよ」

 久しぶりの彼の声を、思ったより感動も覚えず無感情に聞いた。扉が開き、イアナとサデクはあっさりと再会する。

「……っ」

「……イアナ?」

 イアナは自分の肩が震えているのがわかった。サデクが、イアナを見て驚いたように目を見開く。二人は目が合ってもしばらく言葉を交わさなかった。どうして何も言えなくなってしまうのだろう。

 こうして実際に会うまでに五年も経っているのだ。サデクに会ったら何を言うかずっと考えてきた。イアナの次の台詞は、「ご機嫌麗しゅう、ロード・ノルバリス」のはずであった。自分の村を焼いた領主が、お前であることを知っているぞと、皮肉まじりにご挨拶するつもりだった。

 しかし、こうして五年越しの再会を果たしてしまうとどうだろう。イアナは予想以上の緊張に、背中が汗と湿気でじっとりと塗れるのを感じた。会って殺してやりたいと願って止まなかった村の仇は、どうしてこんなに、心地よい胸の高鳴りをもたらしてしまうのだろう。目の前にいるだけでイアナを狂わせる。理の皮を剥がし、根底にある執着が暴かれる。

 イアナは胸がいっぱいになって何も言えなくなってしまった。サデクも少しの間黙っていたが、しびれを切らしたか彼から声をかけてきた。

「……背が、伸びたね」

「そ、……そう? 自分ではよくわからないけど」

「本当に……久しぶり、イアナ」

 懐かしいという気持ちは不思議と無かった。思えばイアナは、ここまでサデクのことばかり考えていたので、今更本人に会っても、今まで毎日脳内で会っているようなものだったかもしれない。イアナも、この会話でようやく落ち着きを少し取り戻した。

「うん、久しぶり、あの、……ロード・ノルバリス」

「ロード? はは、爵位はもう親戚に譲ってるし、今更そんな関係じゃないだろ?」

「あ……、そう、だね」

 やっとのことで、考えていた呼びかけをしてみると、サデクは笑って検討違いなことを言い出した。

 身分のことよりも、自分の村を焼いた元領主として何か言うことは無いのかと呆れる。もしかすると、無かったことにする気かもしれない、とイアナは少し心配になった。

「僕が、死んだことになってて驚いたと思う。だけど……いや、この話はまた後にしよう。立ち話もなんだしね。とりあえず、そこの椅子に座って。今何か飲み物を持って来させるから」

 サデクはイアナを客間のソファに座らせて、使用人に紅茶をもって来させた。持って来た使用人は、昔馬車の迎えできていたあの痩せた男だったので、イアナはここでやっと懐かしさを感じた。

「イアナ」

 紅茶がテーブルに置かれ終らないうちに、サデクがさらりとこう言った。

「僕と、ここで暮らさないか」

「え?」

 イアナはきょとんと目を丸くした。世間話のように言われたけれども、あまりにもイアナの心の底にある願望に沿いすぎた。元を辿れば、サデクへの執着は「サデクと一緒にいたい」という言葉に変換されるはずのものだったのだ。今は憎悪と殺意に向いてしまったけれど。

 しかし、自分の村を焼いておいて、復讐されるという発想は無いのだろうか。イアナはまた心配になった。それとも、これから罪滅ぼしでもするつもりなのだろうか。

「うん、突然でびっくりすると思う。でも、君にまた会ったらそうしようと思ってた。ラエニには連絡をいれてあげよう」

「でも、私……」

「ああ、お金のことは心配しなくていい。前もそうだっただろ? 領主は辞めたけど、脚本の仕事を別の名義でやってて、その収入がけっこう入ったんだ。大きな贅沢ばかりしてなければ、君一人くらいどうってことない」

 あまりにも好条件すぎた。ここでサデクと一緒に、しかも遊んで暮らせという。ここで終わってめでたしめでたしと言っていいくらいだ。そして、いつか覚悟ができたら殺せばいい。

 いつでも、復讐は為せる。それも、覚悟ができるまでの猶予つきでだ。

「あの、サデク。それはその、嬉しいんだけど、一つ聞いていい?」

「いいよ」

 イアナは聞きたいことがたくさんあった。自分の村を焼いたこと、自分と暮らしたい理由、ラエニの言っていた彼の【呪い】のこと……だが、あまり知りたがるのもがっつくようで恥ずかしい。なので、イアナは少しずつ聞くことにした。

「……どうして私を連れて行かなかったの?」

 いざ質問しようとすると、言葉選びに困った。できるだけ簡潔に、冷静を装いながらを意識してイアナは聞いてみる。それでも、サデクの目を見ると、イアナの複雑な激情を見透かされるような気持ちになって、イアナは勝手に気まずくなった。

「そう、だな……色々あったんだけど……。まず、この屋敷は、僕の死んだ妻名義の別荘だった。それで、ここで妻の葬儀を執り行うことになって、いろいろと忙しかったんだ。それに……ああ、そうだ。ラエニから聞いてないかな? 僕が【呪われてる】って」

「聞いたことある。どういう意味なのかわからなかったけど、それ以上教えてくれなかった。なんなの? 【呪い】って」

「まあ、そのままだよ。僕は呪われてしまって、人との関わりが難しくなり、急死したことにして行方をくらました。そして、こうして街から離れたところで暮らさなければならなくなった。どう呪われたのかっていうのは……まあ、そのうちわかるよ」

 今すぐ教えてほしかったが、イアナはサデクのもったいぶりたがりを身を以て知っているので、大人しく引くことにした。

「僕も君を連れていけたらよかったんだけど」

「え、あ、ありがとう……」

 もしそれが社交辞令だったとしても、あのときも共にいたかったという言葉をサデクの口から聞けて、イアナは四年越しの安心を得た。それに、ここで拒まれたら、もう彼に復讐する機会もなかなか巡って来ないだろう。

「じゃあ、わたしここの家に……住んでいい?」

「うん、決まりだ。そうだ、ここで暮らすなら明日、僕の妻の墓に一緒に行くのはどうだろう? この屋敷の裏にあるんだ」

「奥さんの?」

「そう。そうだな、では久しぶりに街に行って観劇もしよう。君が通っていたロノルの街ではなくて、反対の方向にあるもっと大きいところがある。そこでついでに花を買う。どうかな?」

「じゃあ、そうする」

 今日は本当に、何もかもがイアナの理想に動いている。サデクとの再会を何度も想像していたけれど、この現実は想像以上に都合がいい。

 まるで世界が、早くサデクを殺せとお膳立てをしているようだ。

 イアナはサデクの養子ということになり、こうしてサデクの別荘である街から離れた屋敷に暮らすこととなった。


 ◇◇◇


 その夜のことであった。

 慣れないベッドだからか、慣れない部屋だからか眠ることができず、イアナはベッドの中で今日のことをふわふわと振り返っていた。

 やはり、すべてが順調に運びすぎて気持ちが悪い。それに、イアナはまだ、サデクを殺す覚悟ができていなかった。

 サデクを前にすると、言いようの無い高揚感が上ってくる。胸を焦がすような気持ち。そしてそれは、殺意とはほど遠いものだった。四年間、彼への憎悪と殺意を腐る程煮詰めて募らせてきたというのに、彼を前にすると、それが浄化されるように忘れ去られてしまう。

 この状態を、イアナはどう言って良いかわからない。

 何度も、サデクを殺すイメージをしてきた。それでも、現実に移すというのはやはりただちにできるものではないと冷静になって思う。

 ふと、窓の外からズルズルと重いものを引きずるような音が聞こえた。気味が悪いとも思ったが、嫌な想像ばかり働いて眠れる気もしない。イアナはいっそ、その正体を確かめることにした。

 まずはそっと、窓の外を覗いた。先ず見えたのは、庭を歩く不気味な使用人グレイだった。グレイがメイドと一緒に何か大きなものを運んでいるように見える。イアナは目を凝らし、何が引きずられているのか見ようとした。

 木陰の影から、月明かりが当たるところまで来ると、イアナは嫌な予感がした。その輪郭が、色が、はっきりと、人の形を映す。悲鳴を上げそうになって、あげられない。身体が麻痺したように動かなかった。目が離せなかった。夢を見ているようだった。

 それはサデクの死体だった。

 グレイが死体をどこかに引きずって行く。イアナは恐怖よりも、不思議と怒りが沸いて来た。誰の許可を得て死んでいるんだ、と理不尽にサデクを詰った。もう一人のメイドが誰なのか、イアナは確かめてやろうとして、また目を疑った。

 それはイアナだった。メイド服を着ているが、髪型も背丈も、イアナのそれに見えた。

 夢を見ている。イアナはそう自分に言い聞かせた。そうでなければ、この状況に説明がつかない。イアナは自分の精神を守る為に、窓から離れ、ベッドにもぐって、目を閉じた。外から聞こえる音が、聞こえなくなるのを、毛布の中で待っていた。


 いつのまにか眠りに落ちていて、朝になっていた。メイド姿のセイルがイアナを起こしにきて、イアナは神妙な気持ちでベッドを出た。部屋のすぐ外で、何事も無かったかのようにサデクが立っていた。イアナを待っていたらしい。イアナは目を擦りながら、昨夜のことが夢だったと結論付ける根拠を得て安堵した。

 サデクとの朝食を済ませ、イアナはサデクと約束通り外出することになった。

 行った劇場は、イアナがいた街よりも大きく、舞台装置も豪華だった。内容は、有名な劇の悪役に焦点を当て、「いかにして彼が悪役になったか」という、本筋の裏話のような悲劇となっていた。

 改めて考えると、イアナは街にいたとき、セイルの名義ではあるがサデク脚本の舞台ばかり見ていたということになる。サデク脚本ではないものは新鮮ではあった。

 舞台が終わると、昔のようにカフェで紅茶を飲みながら感想を話し合った。

「私、アンタのじゃない脚本の舞台を見て思ったことがあるんだけど……」

「何か気がついた?」

「今回の脚本のほうが登場人物に人間味がある」

「ああ……その点は僕の未熟ということで」

 聞けば、今回の脚本は一部では有名な者らしい。彼故に今回のような原作付きの劇が許されたとかいう話だ。

 しかし、イアナの興味の対象はいつだってサデクだ。

「アンタ、あまり他人に興味ないでしょ」

 それを聞いたサデクのカップを持ち上げる手が止まった。イアナは続ける。

「私もそうだから、なんとなくわかるよ。アンタは上辺の人間関係、そこそこうまくやってたよね。簡単に破壌もさせてたみたいだけど……」

 イアナの場合、他人への興味が薄いというのは、正確には【そうだった】のだ。もちろん、サデクに出会う前までの話だ。

 任意の他人を、どういう人間なのか、それに興味を見いだせない。表現することができない。人より何か別に興味があるのか、または、何事にも興味を持てないか、というのが主な要因だ。イアナの場合、後者であったものが、今は前者の状態になっただけかもしれない。

「……そう、か。興味……うん、そうなのかもしれない」

 サデクは憂い顔で遠い目をした。何か思い当たることがあるようだ。

「僕はちょっと人と感覚がズレてる。そこが脚本にでてしまうんだろうね。でもだからこそ、模索のしがいもあるのものだよ」

 サデクは、若い頃――現在の歳は三十三だというので、十年以上は前らしい――役者をしていたらしい。そこから、舞台の脚本に興味を抱き、脚本に転向したのだという。

 イアナは昔サデクが役者だったことに妙に納得した。顔がいい、というのもあるが、所作が綺麗だと常々思っていたのだ。あと、少し喋った感じが胡散臭い。

 サデクは帰りに、花屋で適当な白い花を買っていった。


 屋敷の裏にある墓は、大きな敷地の中に一つ小さい墓標があった。柵で囲ってある面積は広いのに、墓自体は小さくて物悲しい。サデクが小さな墓を指した。

「ここが妻の墓だ」

 近くで見ると、いたって普通の墓だった。ただ手入れは行き届いているようだ。少ないながら既に前供えたと思われる花も供えられている。そして、サデクはそこに一輪新しい白を添えた。

「奥さんってどんな人だったの?」

「ん? ああ……そうだな、私のことは嫌っていたよ。でも私が妻になって欲しいと言ったら妻になった」

「どうして」

「わからない」

「……奥さんの死因は? 病気だったの?」

 サデクはじっと、墓に刻まれた女の名前を見つめたまま答えた。

「自ら命を絶った。僕の目の前で、窓から身を投げた」

 ため息を吐くように、胸に詰まったものを溢れさせるようにサデクがいうものだったので、イアナは少し感傷的にもなった。

「妻は僕のことを、憎んでいたかもしれない。僕は、彼女について別に不満に思ったことはなかったし、ましてや憎んでもいないけれど」

「ふうん。愛してるんだね、その、奥さんのこと」

 すると、サデクがふっと吹き出した。イアナは自分の台詞はそんなに恥ずかしいものだったのかと思った。

「どうしてそう思うのかな?」

「え、だって……」 

 サデクの目が弧を描くのが、何故か気味が悪くてイアナは言葉を止めて、心がざわつくのに耳を澄ませた。サデクの目を、口元を、見つめると、何かが「怖い」と思いながらも目を離せなかった。何かが、胸に詰まる。ぐつぐつと何か黒く粘ついた何かが煮立つ。大きな泡が、ゆっくりと弾ける。言いしれぬ衝動が耳の後ろをざわざわと駆け上がった。

「前に、僕は呪われている、と言っただろう」

 イアナの内心が大荒れなのに、サデクは察さず、構わずおしゃべりを続ける。

「僕の事を呪ったのは、いったい誰だと思う?」

 やけに楽しそうな声が、イアナの心をかき混ぜる。衝動の名前が、見えてくる。イアナはここにいる理由を思い出す。どうして今まで忘れていたのか。今、イアナはサデクと二人きりで、殺してやるのには絶好のチャンスだったのだ。

 イアナは、できるだけの力で、サデクを墓石目がけて押した。固い石が、サデクの後頭部にうまいこと当たった。サデクは墓石に赤い跡を残して地面に倒れた。まだ息はある。これくらいで死なないのは、殺すほうも殺されるほうも得しない。でも、今や役割を与えられたイアナは、彼に言ってやりたかった台詞があるのだ。

 幕が上がる。焦がれていた人生の絶頂がここにある。

「あ、会いたかった。セラーダ・ノルバリス! 会いたかったよ……!」

 横たわり、ぐったりしているセラーダの上にまたがり、イアナはその首に手をかけた。固くて、柔らかくて、思ったよりは細く、自分のよりは太い首。ぐっと力を込める。セラーダの目を見つめながら、イアナは台詞を続ける。

「ねえ、四年前の二月に、私の村を焼いたよね。セーノルの村を焼いて、私に【燃えているね】と声をかけたよね? なあ、聞けよ。なあ、あんた四年間何してたんだよ。私のこと考えた? あの舞台の続きは? 良く眠れてた? それともあんたを呪った奥さんのこと考えてたのかな? なあ、おい、どうでもいいよなそんなこと、死ねよ、ほら、今すぐ――」

 でも、イアナは最初からただの田舎娘で、死神などではない。直接人の死に関わったことなんてない。いくら死神を演じようと、イアナは怖くなる。あのサデクの顔が見たことも無いほど赤くなり、青くなり、変わっていくのを間近で見てしまったのだ。気がつけば、イアナはその手を離してしまった。

「あ……サデク……」

 殺さなければ、目の前の死にかけの男にとどめを刺さなければいけないのに。イアナはもう一度サデクの首に触れる勇気を失ってしまった。足がすくむ、そのとき、濁り始めているサデクが、イアナを見つめた。そして、ちらりと目配せをする。イアナがサデクの見つめる方を見ると、地面に一本のスコップが刺さっていた。

 イアナはそのスコップに手を伸ばす。そして、深呼吸をして、

「……ありがとう」

 先ずは腹にスコップを突き刺した。次に振り下ろして、頭蓋を砕いた。血だまりがイアナの足元を濡らす。肉片が飛び散る。そのおぞましい光景に、イアナの意識は何度もそこから逃げ出そうとした。望みを叶える高揚感と、人の道を外れる冒涜感だけがイアナの手を動かしている。

 目を逸らさなかったのは意地だ。この瞬間がイアナの、人生の絶頂であると疑わなかったからだ。

 それでも目の前が、チカチカと点滅する。

 暗転。そして照明。暗転と照明が繰り返される。暗転、照明、暗転、照明、暗転照明暗転照明暗転……照明。

 いつのまにか陽は落ちていて、月がセラーダの死体を照らしていた。あたりには木々のざわめきと、イアナの呼吸音だけが響いていた。

 イアナはそのスコップで、見事セラーダ・ノルバリスを殺してみせたのだ。

 こうしてイアナは救われ、セラーダ・ノルバリスは生きた感情によって殺されたのだ。すべての役割(ロール)を果たしたイアナを、精神的な疲労と体力の消耗が襲う。目眩が、する。

 これからこの死体をどうするのか、イアナはどこへ逃げるのか、それとも逃げないのか。そんなことは、考えなくて良い。何故なら、こうしてイアナは死神を見事に演じ切ったからだ。見事に復讐劇を果たして見せたからだ。そうして物語は終わる。後のことは蛇足でしかない。

 聞きたいことが山ほど残っていたとしても、四年前抱きしめ返せなかったことを後悔していようとも、サデクの死によって物語は終わるのだ。

 拍手が自然と起こり、彼女は喝采に包まれる。

 皆様、この素晴らしき復讐鬼に、美しい死神に拍手を、拍手を!

 木々のざわめきの中に、小さな拍手の音がする。……拍手の音?

「……そこにいるのは誰なの?」

 イアナは振り返った。そこには、不気味な使用人グレイが立っていた。弱気なメイドのセイルもいる。二人が木の影から出て来て、イアナに拍手を送っていた。

「なんなの? 二人とも、どうしてそこに……どういう、こと」

 拍手の音は二人分ではない。屋敷の者が次々に現れ、イアナを囲み、拍手をする。キャストがそこに揃っていくのは、カーテンコールのようだった。イアナは呆然として立ち尽くした。

 そして、最後に出てくるのは、主役——

「初演おめでとう、イアナ。とても、素晴らしかったよ」

 花束を持ったサデクと、あの夢で見たメイドのイアナだった。

 これは夢の続きなのだろうか。足下に転がる死体も、間違いなく彼だ。でも、サデクが目の前にもう一人いる。そしてイアナももう一人。ではここにいる自分はなんなのだろう。ここにある死体は何だろう。生きている死体が、拍手が、イアナの前で現実を巣食おうとしていた。

 偽物のイアナを傍らに、サデクはイアナに花束を渡す。ふわりと、胸の中から甘い香りがした。

 何がなんだかわからず、イアナは呆然と腰を抜かしてしまった。サデクが笑って、イアナの肩を叩いて囁いた。

「でもね、イアナ。台詞を忘れているよ」

 照明が落ちる、役者は消える、……幕が閉じる。


「【今日がお前の終幕だ】」


 ……ご観劇ありがとうございました。改めて皆様、この素晴らしき復讐劇に、死神に、大きな拍手を!



三、「私の死神」最終公演、そして


 セラーダ・ノルバリスは、元々共感能力や罪悪感に欠ける人間であった。幼少の頃は、無責任な発言や衝動的な行動のせいで、よく嫌われた。人との交流がまともにできないのは、次期領主として特に生き難いものだ。

 そこで、彼なりに考え、彼は役者をやることにした。身分を隠すためにサデク・ハールドという偽名を使ってまでだ。普通の人間を演じる能力を身につけようと思ったのだ。顔は良く、そこそこ才能もあった。出演に至ったのは、脇役ばかりであった。それでよかった。英雄でも、悪役でもないただの人間の役ができたらよかった。

 そのうち、彼は脚本にまわり、自ら人間の感情を模索することになる。

 その甲斐もあり、彼は比較的社交的で口のうまい人間として大人になり、上辺だけの人間関係を多く作りつつも、ある程度よく好かれる人間として今のサデクがある。

 彼にとって、世界は一つの舞台であった。人は役者であった。観客をみんな、舞台の上に引き上げて、自分の脚本の【役者】として支配した。しかし、どの役者も、彼の脚本の上で動く限りは【役者】の枠を越えることは無い。

 イアナ・ノッツもまた、舞台に引き上げる観客の一人だった。儚げな雰囲気の見た目の中に、激情の可能性を持った人。セラーダ・ノルバリスは衝撃を受けた。彼女こそ、主役にふさわしい。

 彼女の為に、舞台を用意したい。終らぬ舞台を、いつまでもいつまでも、セラーダ・ノルバリスは近くで見つめていたいと思ったのだ。

 彼女の生きた感情こそ、唯一この舞台で人の心を動かすことができる。彼女だけが、この舞台上で唯一の生きた人間なのだ。


 イアナがベッドで目覚めると、悪夢の続きとも言うべき光景が待っていた。すぐそばにサデクがいたのだ。

「おはよう、イアナ」

 落ち着いた低い声は、本当に何事もなかったかのようにイアナに挨拶をした。

 昨日のことは夢だったのかとも思ったが、サデクは先に「夢ではないよ。君は昨日、見事復讐を果たしてみせた」と喜ばしいことのように先置きしてきた。

 それなら今目の前にいるのは何者なのだろう。と思ってイアナが黙って見つめると、サデクはイアナのベッドに腰掛けて話し始めた。

「僕はね、信じがたいかもしれないが……不思議なことに、一日に一人、増えてしまう。それが僕の呪いだ」

「ふえる……?」

 起き抜けに聞くのには、信じがたく頭の痛くなる話だ。イアナは朝食後、ゆっくり話を聞くことを所望した。そして、改めてイアナはサデクの呪いについて説明されることになった。

「四年ほど前の事だ」

 サデクが長い話になりそうな切り出しをした。イアナはその一言に様々な予測を立てつつ神妙な顔で聞いた。

「僕は、その日妻と一緒に過ごすはずだった。一緒に食事をしたり、街にでて買い物をしたり……でも、この館の中にいるときに、気がつくとわたしは妻を見失っていた。不思議なこともあるものだと思った。私は館の中で妻を探して、……そして、私を殺した妻を見つけた」

 サデクの口調はあくまでも淡々としていた。つまり、その日初めてサデクが【増えた】日であり、その女が始めにサデクを殺した人間であったということなのだろう。

「妻は私の呪いに怯えて気をやってしまってね。そのまま、身を投げて死んでしまった」

「じゃあ、奥さんは無意識に呪ったって事?」

「わからない。一つ言える。僕の呪いを終らせることができるのは、君だけだということだ。これは僕らの問題なんだよ」

 イアナは眉間に皺を寄せた。

「どうして私?」

「さあ、どうしてだろうね。でも、君は僕を殺したいと思っているはずだ。心からね」


「君に僕を殺して欲しい」


 イアナはそれに対して、即答した。

「嫌」

 たしかに、イアナはサデクを殺す為にここに来た。だがそれは復讐のためだ。彼に望まれてのことは本意ではない。それに、サデクのことだ。イアナが断ったときの手を用意しているだろう。別の手があるなら見せてもらおうかと思ったのだ。そしてその予想はあたった。

「そう、か。いや、こうして復讐の舞台を用意しておいたのは逆効果だったね。大丈夫。だからって君を追い出したりなんかしないよ。……入っておいで」

 すると、イアナの部屋に、もう一人のメイド服を着たイアナが入って来た。一瞬ゾッとしたが、こうして明るいところで見ると、イアナとは雰囲気は似せているものの全くの別人であった。

「あの、呼んだ?」

 口調はイアナのそれであるのが、むしろ違和感を加速させ不快な気持ちになる。

「イアナ。紹介しよう。彼女はここで【イアナ】を演じている役者だ。君が来るまでは彼女が僕を【減らして】くれてた」

 つまり、イアナもサデクも【ダブルキャスト】だとでもいうのか。……くだらないし、笑えない。

 サデクはおぞましいことを、また淡々と述べた。それらしい女に、イアナを演じさせ、イアナの変わりにしていたということだ。

 イアナ本人にとっては、鳥肌が立つほど不快だ。縁を切ることもこの際考えてみるべきだろう。

「君が僕を殺してくれないなら、彼女に引き続き頼むだけだ。そんなわけだから、頼むよ」

「ええ……いいけど。うん、わかった」

 【イアナ役】はスカートの中から、ナイフを一つ取り出した。今、ここで? とイアナが面食らっていると、彼女はあろうことか、サデクの首に腕をまわし、いじらしげな視線を送っている。サデクもそれに応え見つめ返す。

 そして、二人の顔が近づいてきたので、イアナは思わず両手で目を隠した。それでも、指の隙間か二人の唇が触れるのをしっかりと目撃してしまった。

「ちょ……」

 そして、彼女は回した手に持ったナイフを首に——

「何してんの!」

 イアナは【イアナ役】を押しのけ、サデクを思い切り蹴って床に倒した。昨日サデクを殺したときよりも顔と首と肩が熱くなって、嫌な汗がだらだらと流れているのを感じる。

「気持ち悪い! 気ッ持ち悪い!! 何それ、そんなこと目の前でやらないでよ! 本当にやめて! 最低! そんなこと毎日私の目の前でやったら絶交するから!」

 イアナは興奮のままにサデクを怒鳴りつけた。もはや今すぐにでも縁を切ればいいくらいだが、イアナの執着はなんとか折れなかったらしい。サデクは肩を揺らして可笑しそうに嗤っている。

「でも君は殺してくれないだろう?」

「殺せばいいんでしょ! いいよ、アンタなんか殺してやる! 増える前に殺せばアンタは死ぬんでしょ!? 二人殺せばもう増えないんでしょ!?」

「……だ、そうだ」

「わかった」

 【イアナ役】はサデクからそう聞くと、あっさりとその場を引き下がった。

「さて、イアナ、前のように同じ舞台を何度か観に行くのはどう? 毎回とは、行かないかもしれないけれど」

「……いいよ。うん」

 そうしてまんまと、イアナ・ノッツはセラーダ・ノルバリスの養子兼、死神を請け負うことになった。


◇◇◇


 一日のうちに、セラーダ・ノルバリスを二人殺せば、完全に殺すことはできる。それは言うほど簡単なことではなかった。イアナは本当にただの娘だ。サデクというよく知っている人間を一人殺すだけで、精神も体力も多くすり減らしてしまう。とても、もう一人とは行かなかったのだ。特に精神の安定には、殺したあとに、もう一人の生きているサデクが必要だった。屋敷内ではイアナの精神を癒せるのは彼くらいだった。

 イアナはあらゆる手段で彼を殺した。精神面では慣れていくしかないので、せめて体力の消耗を抑えるために頭を使った。時間をかけず、できるだけ一撃で彼を殺さなければならなかった。今のところは使っていない燭台の支えで、動けなくなるまで顳顬(こめかみ)あたりを殴ってから、心臓のあたりをよく狙って刃物で刺す、という方法が有力だ。しかし、やはり二人殺せるほどまでは消耗は抑えられない。どうしても、一日一人が限界だった。その代わり、イアナは必ず自分の手で一日一人、サデクを殺した。それはイアナの意地であった。

 サデクは用心深いというよりも、あまり人を信じない。だから【イアナ役】というイアナのスペアを未だに捨てていない。常に裏切られる可能性に備えているようだ。

 だからイアナはサデクに信用されたい。信用された上で裏切りたい。かつてサデクがイアナにそうしたように。

 ちなみに毒殺は、毒の扱いと管理が難しく、他の使用人にも不評だったので断念した。

 最近思いついたのは爆弾だ。屋敷にいるセラーダ・ノルバリスを二人ともふっとばすことができたら理想だ。だが、手に入り難い。

「あの……サデク、ちょっといい? 欲しいものがあって」

 当然、相談できるのはこの男しかいない。考えると、こうして金銭面や衣食住までサデクに依存しなくてはいけないこの関係も、イアナにとってはかなり厄介だ。サデクはイアナから何かをねだられるのは珍しいからか、すこし驚いているようだった。

「いいよ、言ってみて」

「ええと……爆弾、作りたいんだけど」

 それを聞いてサデクが無言で大げさにのけぞった。でも何故かすごく嬉しそうにニコニコ笑っている。

「爆弾! 爆弾か……。僕に?」

「うん……」

「いいね。物騒だけど、爆発は好きなんだ。破壊の象徴として、痛快で気持ちがいいよね。今日は材料を買いにいこう。作るときはせいぜい気をつけてくれよ」

 サデクは口調はいつも通りを装っているようだが、彼なりにワクワクしているようですぐに出掛けることになった。

 サデクと街に出ると、何でも手に入れられるようだ。そもそも、今の時代は物が多すぎるとも言えるが、爆弾の材料まで揃えられる店を知っているのは珍しいかもしれない。

 イアナは街に出るとき、帽子を被っているサデクの服装を少し気に入っている。黒くて、短い鍔がついた帽子。装飾はされていないが、シンプルな形が、サデクによく似合うと思う。初めて会ったときもサデクはこれを被っていた。

「作り方は書庫にそういう本があったはずだ。帰ったら一緒に探そう」

「いいの? その……アンタを殺す為のものだけど」

「最近君は慣れが見られて、可愛げが無い」

「か、可愛げ」

 サデクがばっさりと言った。殺しに慣れはともかく、可愛げは関係あるのだろうか。

「とにかく、変化があるのは良いと思うよ。他人を少し巻き込むくらいなら、多分後処理はどうにかできるし……ああ、でも屋敷を壊されたらちょっと困るな」

「……アンタを困らせたくてやってるんだけど」

「そうだったね、でも君だって屋敷に住んでるんだから困るだろう」

「まあ、確かに」

 イアナは帰ってすぐに、時計の針を利用した時限式の爆弾の制作に取りかかった。しかし、制作には思ったよりも時間がかかり、半日ほど消費してしまう。館のこともあって、実用はもう少し保留することになった。


◇◇◇


「君は最近、爆弾の制作に忙しそうにしているね」

 サデクは中庭で紅茶を飲みながら憂いた。イアナは「まあね」と冷たく返す。

「でも、毎日アンタのこと減らしてあげてるよ」

「そうだね。良い仕事をしてくれてると思うよ。でも……やはり慣れてしまったのは残念だ。感情の欠如は重要な問題だ」

 イアナはティーポットをとると、淀みない動作で、セラーダ・ノルバリスの頭を殴った。ティーポッドの破片が芝生の上に散らばる。中の紅茶が、セラーダの服にシミを作る。思っていたよりも、脆いティーポッドだったようで、イアナはまだ死にきれないセラーダの様子に顔をしかめた。

「残念、死んでない」

「知ってる」

 イアナは素早く、躊躇をしないうちに、頭から血を流す彼の胸めがけて、何人ものセラーダ・ノルバリスを殺した懐のナイフを振り下ろした。肉を破り、骨を削り、白い手が血で染まる。イアナは息を詰めてその感触に耐えた。

 セラーダ・ノルバリスの死体を前に、イアナは肩で息をしながら、青い顔で呟く。

「慣れてる? はは……」

 本当に慣れているなら、とっくに一日中に二人殺せるだろうな、とイアナはため息をついた。精神がすり減ると、体力もそれに引っ張られて消耗する。精神の健康と肉体の健康の直結を身を以て感じられる瞬間だ。

「……誰?」

 ふと背中に視線を感じて振り返ると、不気味な使用人グレイが木の陰からこちらを見ていた。

「ああ、グレイ……さん? 見てたんですね」

 グレイは相変わらず何も言わず口をぐっとへの字に曲げる。サデクといるとき以外、気がつくと物陰から視線を送ってくるくせに、見つめ返すと逃げていくので、今回も逃げていくのかとイアナは不気味に思いつつ見つめ返した。

 しかし、何故か今日はグレイが物陰からおそるおそる出て来て、周りをキョロキョロしながら、ひょこひょことイアナの前まで歩いてくるのでイアナは驚いた。

「……ィ、イアナ」

「……え?」

 グレイが掠れた声を出した。何の事情で今までかたくなに声を出さなかったのかは知らないが、何か伝えようとようやく声を出したらしい。サデクがここにいないのにも関係はあるのだろうか。

「んんっ、あー、あ〜……声出すのひさしぶりだから……声が……」

 グレイがこのような口調だったことにも戸惑ったが、それよりグレイの要件が気になり黙って続きを聞くことにした。

「……あの、さあ? お、お、お前、本当に……サデクの呪い解く気、あるのか?」

「え……? いきなり何ですか」

「本来、俺は喋らない役だ、でも、お前が、今の生活をどうにかする気があるのか、きっ、気になるんだよ。す……、最近ご主人に構ってやってないから、明らかにあの人、ちょっと……イラついてる」

「そんなこと……。最近もいろいろな方法を試して、ちゃんとサデクのために……」

「た、試してるっ、てぇ……?」

「……なにか私、見当違いなことしてるんですか?」

 イアナなりに「セラーダ・ノルバリスを殺す」という方法で呪いを解くという方法に、まったく疑問を持たなかったわけではなかった。しかし、呪いをかけたと思われる奥方の望みが、話を聞く限りはセラーダ・ノルバリスの殺害以外に考えられないのだ。

 しかし、グレイが突然イアナの胸ぐらを掴む。

「あ、あ、あンの……奴の呪いなんて、と、解けるわけないだろ! だいたい……お前がサデクに……ぎゃあ!?」

 そのときだった。グレイが悶絶してその場に倒れ込む。あっけにとられているイアナの前に、丸まったその背中にはナイフが一本刺さっていた。イアナが少し首を持ち上げ、その先を確かめる。

「駄目だよ、役者が役以外の台詞を喋っては」

 サデクであった。ナイフを投げたのは、傍らにいる【イアナ役】のメイドのようだが、命令したのはサデクに違いない。

「ごめん……ちゃんと項を狙ったんだけど」

「いいよ、この距離でよく刺さったものだ」

 サデクと【イアナ役】が芝生の上にうずくまったグレイの元へ歩いてくる。グレイは半狂乱になって自分の背中のナイフをとろうとしているが、うまくとれないようだ。

「とって、とってくれよ! サデク! ここまで面倒みてやっただろ!? 前の代からさあ、よくやってたよな!? なあ、なあ、サデク!」

「ああ、そうだね。死体の処理まで覚えてくれて、本当に助かったよ。とても残念だ」

 サデクは流れるような動作で、何か小瓶を出してその中身をグレイにかけて、横から【イアナ役】が火をつけたマッチを投げた。サデクは立ち尽くしているイアナの手を引いて離れさせる。

「うわああああ! いやだ、うそだ、助けてくれー!」

 あっという間にグレイは火だるまになって、すぐ近くにいた【イアナ役】を追いかけている。人を判別できなくなってしまったのだろう。【イアナ役】は慌てる様子もなく走って逃げて、枯れ井戸の方へグレイを誘導していった。そして、グレイは井戸の淵にぶつかり、転んで、叫び声を上げながら井戸の中へ消えてしまった。

「すまなかったね。怖かったろう」

 サデクが火が燃え移ってしまった芝生を踏んで消火しながら言った。【イアナ役】はそのままどこかへ言ってしまった。あまりのことに、イアナが何も言わないでいると、サデクが微笑みを向ける。

「君、僕が君の村に火を放ったこと知ってるじゃないか。こういうこともするよ。何を驚いてるの」

「そんな、こと……」

 サデクはわざとらしく貼り付いたような笑顔で、イアナの前まで歩いて、顔を覗き込んで来た。

「ねえ、君は僕がいい人だなんて、思ってないだろう。まさか今更、そういう結末を望んでいたりするの?」

「……ッ!!」

 イアナはいても立ってもいられず、サデクを殴り飛ばした。パチンとゴツンが同時に鳴ったような音が響く。それは、殺す目的以外の暴力だった。サデクは芝生の上に膝と手をついた。

「死ねよ……!」

 見上げるサデクに、イアナは何度目かのそれを吐き捨てた。

「死んでよ……! どうして……アンタは、自分ばっかりかわいそうみたいな風に、自分だけが狂ってるみたいに! 呪われてるのは、あんたじゃない! 私なの! 私があんたを殺し続けないといけない呪いなのこれは! あんたが、私を死神にしたの、愛想の無い、知ったかぶりの、雰囲気だけで! それだけのために人が死んだの、村が無くなったの! あんたは死を恐れて死ぬべきなの、憎まれて呪われて死ぬべきなの、あんな最期を迎えていい人間じゃないんだよ! 死にたいなら勝手に死んでよ、呪われるなら一人で呪われてよ、呪いが解ける人間が私だけだなんて嘘だよ、詭弁なんだよ、今すぐあんたが自害したら終るんだもん! 死ね、今すぐ! 死ねよッ!! あんたなんか、大ッ嫌い!!」

 この台詞が台本のそれであれば、なんて長い台詞だろう。イアナは呼吸を乱しながら、一気にそれを吐き出した。酸欠気味になり、目の前が眩む。目に熱い涙が溜まった。こんなにも熱い台詞が吐かれている間、サデクは立ち上がり、服についた芝生を手で払っていた。そして、棒立ちで続きを聞いていた。彼に、イアナの言葉が届いているのか定かではない。イアナはそれを見て、悔しくてたまらず、興奮が酸欠と涙を煽った。目眩が激しくなり、イアナはそこに倒れそうになった。

 サデクの手が、イアナの左肩をやや乱暴に掴んだ。倒れそうになるイアナを支えたというより、暴力に近かった。イアナの意識は既に失せかけていた。サデクは構わず言った。

「僕も君が大嫌いだ」

 そして、今度は痕ができてしまうのではないかというほど強く掴んだ肩が、優しく持ち直された。そして今度は、イアナはサデクに抱きしめられた。

「君の正しいところが嫌いだ。無欲なところが嫌いだ。……どうしたって分かり合えない、理解してくれない。だから、どうしようもなく、僕は君のことが大嫌いだった」

 イアナは身体の力が抜けて、されるがままであった。あの時と同じように、イアナはサデクを抱きしめ返すことができない。大嫌いな男の胸は、とても不快だった。

 そんな風に思われていたのか、とイアナは思った。そんな風に思っているなら、アンタだって私のことを理解できていないと。

「君は僕に村を焼かれて、僕のことを殺して、君も少しは僕のことが解ったかな。僕は、生きた感情を君に伝えられたかな」

 でも、同時に安心感もあった。あらがえない幸福があった。食感は気持ち悪いが美味な虫を口に詰め込まれたような心地だった。そんな複雑な気持ちのまま、女の意識は落ちていった。

【僕も君が大嫌いだ】

 そう、よかった。嬉しいなあ。あんたも私のこと――


 サデクには何らかの悲劇があったのだ。彼の拗くれた心は、確かに悲劇の成れの果てであった。それをサデクは語りたがらないけれど、代わりにその拗けた心を見せつけることで、サデクは救いを求めていたのだと思う。

 彼は馬車に潰された哀れなカエルと同じだ。彼は殺され、弔われるのを待っている。それでも、彼を見た人は彼を憐れむ前に、その見るに耐えない姿に目を逸らして去っていく。かわいそうだ、でも、目に入れるのは辛い。そんな救いがたい存在だった。

 イアナにとってもそうだった。イアナの乗った馬車は、カエルを潰し、その感触に気がつかないかのように去っていく。でも、カエルは生き返った。生きてイアナに「助けてくれ」と言った。【僕を殺して欲しい】と懇願したのだ。だから、その声が聞こえた以上、イアナは振り向いて駆け寄って、助けなければならなくなってしまったのだ。彼をその手で救い上げ、冷たい土で包んで、花を添えなければならないのだ。

 イアナはもう一度、呪いを終らせる方法について考えてみた。

 爆弾を仕掛ける場所や、時間についても。

 呪いを終らせられるのがイアナだけなのではなく、呪いを終らせるのはイアナでなければならない。誰にでも解ける呪いだとしても、他の誰かが解くことを、イアナもサデクも許さないのだ。

 これは二人の問題なのだ。

 

◇◇◇


 始めは、奥方の墓。それから、中庭、屋敷の中の、部屋の中。イアナはサデクを放り出して、屋敷に爆弾を仕掛けていた。使用人や、メイドには内密なので、掃除中に見つからないような場所をよく考えて設置する。起爆は夕方の予定だ。時間についても念入りに実験を重ねて調整した。

「イアナ、探したよ。何してるの」

 爆弾を仕掛け終わった部屋をでると、サデクが話しかけて来た。帽子を被ったままで、先ほどまで出掛けていたようだ。後ろに、街で買ったらしい赤い花も持っている。

「探してたの? 今日は一人で出かけてたんじゃ……花を買って来たの? 奥さんに?」

「ちがう、これは君にだ」

「私に?」

「今日、誕生日だろ? ……違った?」

 イアナはどきりとして、口元を押さえた。

「教えてない」

「君の親御さんに聞いたのを覚えてたんだ。あ、花以外もあるよ、服とか、ちょっとしたアクセサリーとか……」

「そんな……いつのまに」

 花を受け取る手が震えている。イアナは自分の手を見て、他人事のように「私、嬉しいんだ」と思った。サデクはそれから小さい箱も出した。

「本当は、二十歳になる今日、君を迎えにいくつもりだった」

「え?」

 サデクは小さい箱からペンダントを取り出して、イアナの首にかけてやった。イアナは、近づいたサデクから心惹かれる香りがして、何故か殺意にかられた。いつもそうだ。サデクはふとした仕草でイアナを言いようの無い衝動に駆られさせる。

「今日、大人になった君を街に迎えにいって、ラエニのところから引き取るつもりだった」

「……迎えにくるつもりなんて、ないのかと思ってた」

「僕も君に会いたかった」

「……そう」

 窓から赤い日が指して、二人の影を濃く落とす。

 そろそろだ。イアナは部屋にある置き時計を見た。このままいけば、この屋敷は敷地内にある墓から、建物すべてを中の人間もろとも破壊するだろう。セラーダはここにいるのと、おそらくもう一人も屋敷内にいる。このままなら、イアナも、二人のセラーダとその他大勢と心中だ。

 呪いは終わり、何も無くなる。舞台も役者も、観客もすべていなくなる。ハッピーエンドの終幕。

「……」

 呪いという二人の問題に、この屋敷の人間を巻き込むことに関しては、イアナは少し考えもした。しかし……。

 イアナは何かを思い出す。イアナの執着が始まった日を。

「サデク」

 イアナは死神の役を与えられ、この舞台に立っている。唯一、感情を持って、本心から誰かに死をもたらす役目をもたらす役目。

 しかし、イアナは死神ではない。ただの田舎娘だ。最初から最後まで、サデクに憧れた日から、憎悪に巣食われた日も、殺した日も、今日だってそうだ。

 イアナは死神ではなく、イアナだ。ここは舞台ではなく、ただの屋敷だ。

「呪い、解いてあげようか」

 そして、これから救うカエルにだって、ちゃんと名前があるのだ。

「イアナ……?」

 イアナはサデクの手を強く引っ張って走り出した。

「外!」

 それだけ伝えると、サデクも引っ張られるだけでなく、自分の意思で走り出す。まだ戸惑っているようだが、イアナの言う通りにしてくれるようだ。

 さあさあ、皆様、いざ千秋楽。結末は変わらなくても、乞食の願いは叶うかもしれません。刮目してご覧ください。

 使用人やメイドの数人が感づいて逃げていく。分からない人間はその場に立ち尽くす。

 照明を壊せ、役者を殺せ、この舞台を終らせよう。このふざけた舞台から、引きずり下ろしてやるのだ。

 遠くから、墓に仕掛けた爆弾が作動する音がした。続いて、屋敷に続く火薬が発火して、爆破が連続して起こり、中庭から爆発が続く。爆風が炎を巻き上げ、二階の窓を蹴破った。

 イアナは人を押しのけ、玄関のドアに向かう、サデクがどんな顔をするんだろうと考える。もう一人の彼とすれ違った気がした。彼がどんな顔をしていたかは見えなかったけれど、きっと間抜けな顔はしてくれないのだろう。

 まだハッピーエンドではないのに笑ってしまいそうだ。外に飛び出す。背中に熱風が触れて、飛ぶ。

「あはははは! やったあ! ほら、サデク!」

「君、まさか、僕を生かすつもり?」

「アンタが嫌がりそうなことなんて、もうそれしか浮かばないもの。ほら、爆破すぐそこまできてるから、もっと走って走って!」

 ちょっと早いタイミングで、イアナは台詞を言った。

「さあ、セラーダ・ノルバリス」

 とびきりの、主役級の笑顔で。


「今日が、アンタの最終公演だ!」


 屋敷が炎に光る。セラーダ・ノルバリスの持っていたものが、炎に包まれて黒い炭と白い灰になる。正しい復讐だった。最初からこれは復讐劇だった。目には目を、歯には歯を。かつてセラーダ・ノルバリスがイアナから奪ったように、イアナも奪うべきだったのだ。痛快な破壊を以て、この舞台を盛り上げる最高の火力で!


◇◇◇


 主役の二人は小さな丘を駆け上がり、屋敷のほうを振り返る。

 黄昏が染める空の下、舞台であった屋敷からは、未だ炎が絶えず吹き赤い光を放っていた。

「燃えてるね、セラーダ」

「うん、参ったな。本当にこれ、君が?」

 セラーダは走った後で、肩で息をしながら、丘の上に腰を下ろした。

「そうだよ。アンタの為に。ねえ、これで呪い解けるかな」

「僕の呪いが?」

「奥さんの別荘で、奥さんの墓もあって、奥さんとの思い出もあるんでしょ、あの建物。結構奥さん絡みのものも消えたし、呪いも解けたりしてって」

 すると、セラーダは脱力したような、困ったような顔になった。イアナはそれがちょっとだけ面白かったので、それだけでも屋敷も爆破しただけのことはあったと思う。

「君は本当に、何もわかってくれないんだね」

「えっ、ええ……?」

「言っただろ。これは僕ら二人の問題だって」

 そんなこと言っていただろうか、イアナは首をかしげる。そのとき、イアナの腕が引かれ、セラーダの横に座らされる。

「ちょっと……」

 イアナが芝生の冷たさに驚いていると、セラーダの顔が目の前にあった。セラーダがイアナの髪を耳にかける。イアナの、少し昔の経験が脳内で警鐘を鳴らしたが、何もできず身体を強ばらせた。炎と夕日に照らされる二人の影が重なる。息が止まる。沈黙が流れる。

 大きな風が丘の上へ吹いてきて、火の粉がキラキラと舞い上がった。

「……呪いを解くには、結局のところ、こういうクラシックなものが一番というわけ」

 セラーダの唇が離れると、イアナは震えた息づかいで肩をゆっくり下げた。胸が苦しくて、下唇を噛む。

「呪いって、……呪いって結局何だったの?」

 イアナが尋ねると、セラーダは少し間を置いて、笑った。

「さあ、今となっては、どっちがどっちを呪っていたのかもわからない」


 悲劇を背負った悪役も、その作品のスピンオフにて報われることがある。しかし、悪役には変わりない。事実、多くの死体の上に、彼らの幸福がある。本当に、とんでもない事実だが、ハッピーエンドには奇跡、もしくは犠牲が必要なのだ。

 セラーダは悪人であり、哀れなカエルだった。イアナは平凡な人間であり、美しいお姫様ではなかった。故に、イアナのキスでは、セラーダは王子様になれないし、イアナもお姫様にはなれない。それがどうしたというのだろう。奇跡なぞ起こせなくとも、望む人とキスが出来たなら、それはそれで十分な幸せなのではないだろうか。

 呪いは解けるのではない。上書きされるのだ。より強い誰かの想いが、もしくは執着が、二人を呪い、縛り、奪うのだ。


 その後のことはわからない。舞台の幕が降りた以上、蛇足でしかない。二人で旅に出たとか、街に戻りセラーダが昔住んでいた家でひっそり暮らしたとか、セラーダが書いた脚本でイアナが主役の役者となり、舞台が大当たりしたとか……。

 何はともあれ「めでたしめでたし」と、そんなところなのだろう。



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