第2話:平穏な日常に差す翳り
到着を知らせる汽笛を鳴らすバス。二人は荷物をまとめると、既に乗客が降車したために誰もいないそれから降りた。
ヘクトは不安げな表情をしながら、凛音は何かを考えている様子で。
二人はそれぞれ話したいことがあったが、先に堰を切ったように話し出したのは凛音だった。
「その刻印。何かに害を為すことは無いはずだけど、手袋で隠しておいた方がいいかもね」
「そうだな。このレセンタルでは特にそうした方がいいだろう」
「ええ。それじゃあ、また昼に会いましょう。詳しい話ができるようにしとくわ」
二人はそれだけを話すとそれぞれの職場へと赴いた。
……。
二人が仕えているのは、レセンタルレミューと呼ばれるレムリアの中央に位置する国。
ここは、かつて『騎士の国』という異名があった程、多くの名だたる騎士が属していた国で、ヘクトのゼーゲブレヒト家のような騎士の血筋を引く多くの者たちが、現在もこの地で生計を立てている。
現在のこの国では、国王が過度に神を信仰しており、悪魔の類、転じて悪に関わるものを毛嫌いしており、国民にもそれは浸透しつつある。
それは、魔術などの術式は悪に通ずるといった理由で気軽に使用することができず、王宮の魔術師が術式を使用する際には申請書が必要とされるほどのものであった。
悪魔に関する書物等はあるとはいえ、それは悪魔が現れた際に即座に対処できるようにする為である。
悪魔の儀式の刻印が手にあるなど知られれば何をされるか分からない。凛音が刻印を隠すように言ったのはそういう考えのもとにあった。
……。
国の中央に構える巨大な白亜の城壁に囲まれたレセンタル城。
城壁の東西南北にはそれぞれ城門があり、その先にある城下町を見回りするのが騎士たちの午前の仕事の主である。
その見回りに赴くため、南城門前に向かっていたヘクトは深く考え込んでいた。
それは、言うまでもなく右手の刻印のこと。凛音には害はないと言われたものの、「魔術の才がないから」とそういった勉学には手を出してこなかったため、魔術関係の知識が乏しいヘクトにとっては、不安の種でしかなかったのである。
すると、その姿が深刻な悩みを抱えている雰囲気を醸し出していたのだろう。
先に到着し、念入りに体をほぐしていた共に見回りをする一回りヘクトより年上の騎士、アーサー・ラウンドがヘクトの肩に手を回し話しかけてきた。
「おいおい、どうしたぁ? そんな顔して? 夫婦喧嘩でもしたってか?」
「断じて違う。そもそも凛音とはそんな関係じゃないと何回も言ってるだろう。誰があんな凶暴な奴と」
「そうか〜? 口ではそう言っても仲は良いんだろぉ? それにガキの頃から一緒に住んでるんだしナニしててもおかしくな」
「アーサー!!」
「ははは! 悪い、悪い。顔を赤らめながらそう怒るなって。それで何を悩んでたんだ? 力になれるかは分かんねぇが、おっさんで良ければ、話を聞いてやるぜぇ?」
最初の戯けた会話は、二人にとっていつものこと。
そんな日常が気を少し楽にしたこともあり、一瞬アーサーの言葉に甘え、相談することも頭によぎったが、彼がこの国一の騎士であることと、王に忠義を尽くすことが騎士としての勤めと考えていることを思い出し、ヘクトはその申し出を断った。
すると、アーサーは心配そうな顔をしながら「そうか。まぁ、何かあるなら言えよ?」と、ヘクトの頭をポンと叩く。
いつものヘクトなら、いつまでも子ども扱いをするなと怒るところであったが、やはり不安の種の存在が彼には大きすぎたのか、今回は手を払い除けるだけでアーサーを促すと早々と見回りへと赴くのであった。
……。
レセンタルレミューでは、悪は毛嫌いされているということは、邪悪な存在や賊達にも知れ渡っているようで、見回りで異常が見られることは滅多となかった。
仮にあったとしても、それは酔っ払いの対処ぐらいであり、それを知っているヘクト達は、特に身構えることなどもなく気楽に話をしながら、朝市で賑わう雑踏の中を見回りをしていた。
目に入るのがいつもと変わらない日常を過ごす民達の様子だからか、ヘクトの沸き上がる不安も多少は落ち着いたようであった。
「毎度毎度思うんだが、その鞘の無い剣は何とかならないのかよ? 見てて危なっかしいぜ」
「何だ〜? 心配してくれてるか? 可愛い奴め。先々々代様が無くしちまったんで何ともならねぇなぁ〜」
「じゃあ、新しいのに変えるとかしたらいいじゃねぇか?」
「残念ながらそれは無理だなぁ。この剣が悪の手に渡るようなことがあってはならない。それが、代々『ラウンド』の姓と共に受け継いできたおっさんの使命だからなぁ〜」
そんなたわいない会話をしていた二人だったが、気がつくと町の中心部に到着していた。
ここからは、ヘクトは西、アーサーは東へと分かれるという手筈になっていた。
アーサーはヘクトに軽く手を振るが、ヘクトは背を向けたまま手をひらひらと振り返しただけで早々と雑踏の中へと入っていた。
実のところ、ヘクトはアーサーから離れていたいと思っていた。
諸々の事情があったこともあるが、やはり一番は右手のことをアーサーに知られることを避けるためであった。
幼い頃から面倒を見てくれているアーサーなら、或いは大丈夫なのではないかと会話の途中で思いもしたが、やはり何かしらの対処を施されるのでは、という考えが拭いきれなかったので、ひとまず離れることを選んだのである。
王宮に隠しきれるのか。王宮に、とりわけ玉座に座る王にこれが知られれば果たしてどうなってしまうのか。そして、これから自分はどうなるのか。
そんな不安がヘクトの頭の中で反響するのを制止させたのは、町の二人の子供達だった。
「あれぇ? ヘクト兄ちゃん、どうしたの? 凛音ちゃんと何かあったの?」
「駄目だよ。夫婦の問題には気安く触れてはいけないだって、パパが言ってたんだ」
「あぁ、そんなんじゃないからな? ちょっと考え事をしてただけだよ。まったく、どんだけの奴がこんな認識をしてんだよ……」
話しかけてきた子供達は、ヘクトによく遊びをせがんでくる顔見知りで、ヘクト達のような王宮の騎士に憧憬の念を抱く、根っからのレセンタル気質の子供達だった。
手には、何処かで拾ってきたと思われる頑丈そうな木の枝が握られており、今まで剣技の真似事をしていたことが見て取れる。
そして、そのうちの一本をヘクトに差し出し、一緒に遊べと言わんばかりに輝く目で見つめる。
「あのなぁ、お前ら。俺は、暇でぶらついてるってわけじゃないんだぞ?」
「えー、いっつも遊んでくれんじゃん。それに、見回りなんてしなくってもここは平和だって!」
「そうだよ。それに、国民の一人一人の要望に応えてこそのレセンタルの騎士なんじゃないの?」
「口ばっかりは達者になりやがって。少しだけだかんな」
嘆息をしながらも、木の枝を受け取ると果敢に挑んでくる二人を軽く、そして華麗に受け流していく。
その華麗さに魅了されてか、いつしか周りには人集りが出来ていた。
時にヘクトの華麗な技に歓声が上がり、時に攻めきれない子供達に落胆の声が漏れる。
その時であった。そんな観衆の盛り上がりで騎士の存在を認識できたのか、町の若い女が当惑顔で群衆へ駆け寄り、ヘクトに呼びかけた。
「騎士様っ! あぁ、ヘクト卿でしたか」
「ん? 君は八百屋の看板娘ちゃんじゃないか。どうした、何かあったか? そらよっ!」
その存在に気づいたヘクトは、今までと同様に華麗でありながら力のこもった横薙ぎで子供達の手にする木の枝を弾き飛ばすと、湧き上がる歓声を背に、顔馴染みの元へ近づいた。
「もう十年程誰も住んでいない空き家に怪しい人物が入っていくのを見たのです」
「怪しい人物? このレセンタルでか? また珍しいな。ただ、住人が久方ぶりに帰ってきたとかじゃなさそうなのか?」
「それにしては、ローブのフードを深く被っていましたし、何より鍵を開ける際に魔術を使っていたようにも見えたのです」
「魔術を? 弱ったな、魔術師ときたか。まぁ、行くしかないか。案内してくれるか?」
ヘクト自身としては、魔術を使うことに関しては何も気にしていなかった。
しかし、市民の前で国の方針に逆らうことなど出来はせず、何より市民を平穏な日々を脅かすやもしれない存在を無視をすることなど出来なかったので、子供達や群衆に別れを告げると足早に件の空き家へと向かった。