Episode-3:深紅
「───それともう一つ。
母の遺書に記されていた重要事項を、君に教えておく」
冷めてしまったコーヒーを飲み干して、アンリはテーブルに肘をついた。
「君のお母様が逃亡を決意したのは、単にフェリックスを恐れていたからじゃない。
ミレイシャ、君を守るためだったんだよ」
アンリの言葉に反応し、ミレイシャははっと顔を上げた。
アンリの母、イルマが遺した遺書の内の、最後の五枚。
そこに記されていたのは、他でもない二人の父、フェリックスについてのことだった。
実のところフェリックスは、長年アンリとイルマから懐疑をかけられていた。
共にキングスコートの屋敷で暮らしていた頃から、二人に動向を怪しまれていたのだ。
全く見覚えのない若者を急に職場で連れるようになったり、妻や息子にすら頑なに自分の仕事の内容を語らなかったり。
思い返せば不審なエピソードは数多く、フェリックス自身も二人が訝っていることを承知していた様子だった。
だが、アンリ達がフェリックスを問い質したことは一度もなかった。
プライドが高く、秘密主義であった彼の機嫌を損ねないようにするためだ。
例え不満があっても、絶対に口には出さない。
僅かでも怪しい匂いのする事柄には、疑いの有無に関わらず言及してはならない。
そうして一定の距離を置くことで、家族という繋がりは瀬戸際で保たれてきたのだ。
少なくとも、アンリが高校進学のため実家を離れるまでは。
ところが、数年前のある日。
フェリックスとイルマの関係がいよいよ修復不可能の段階まで悪化し、離縁の話が持ち上がるのは最早時間の問題となった頃。
偶然か必然か、何気なく立ち寄ったフェリックスの自室で、イルマがあるものを見付けてしまった。
普段は必ず施錠されていて、本人以外は絶対に立ち入ってはならないと固く禁じられていた二階の書斎。
そこが、当時はたまたま開いていたのだという。
前日の晩、中で何者かと電話をしていたフェリックスは、間もなく相手と口論になって部屋を後にした。
その際に酷く立腹した様子で出て行ったのをメイドが見ていたので、鍵をかけ忘れたのはただの失念である可能性が高かった。
人一倍慎重で計算高いフェリックスが、こんな些細で単純なミスを犯すだなんて。
終ぞなかったことだが、昨晩の口論がよほど当人の感情を乱したということなら、有り得ない話ではなかった。
昨晩に出て行ったっきり本人は未だ帰っておらず、特に連絡も来ていない。
となれば、今なら夫の秘密を覗き見ることが、できる。
長らくフェリックスの浮気を疑っていたイルマにとって、それは絶好の機会だった。
いけないことをしているという自覚はあれど、沸々と沸き上がる好奇心と猜疑心には抗えず、気付けば彼女は初めて夫の部屋へと足を踏み入れていたのだった。
「だが、母の期待は別の意味で裏切られた。
フェリックスの自室には、これといって怪しい点がなかったそうだ。
用心深い父のことだから、貴重品を堂々と置いておくこともしないだろうが、それにしてもなにもなかったらしい。
女の長い髪の毛でも落ちていれば、母はきっと発狂する勢いで怒っただろうがな」
掃除の行き届いた綺麗な空間に、控えめなインテリアが数点。
それから、部屋中の壁に沿って並べられた本棚。
塵一つ落ちていない室内にはこれといって怪しい物はなく、医療関係と帝王学の本が中心に取り揃えられた本棚にも、特におかしい箇所は見当たらなかった。
まさに、研究一筋のフェリックスの性格が顕著に現れた書斎。
夫の不義の証拠を見付けてやろうと躍起になっていたイルマにとっては、この結果は嬉しくも腹立たしくもあるものだった。
やがて、粗探しをすることに疲れ、結局なんの収穫もないまま部屋を後にしようとした時。
最後の最後で、彼女の目にあるものが留まってしまった。
デスクの一番下の引き出しが、僅かに開いていたのだ。
他は全て施錠されていたため、鍵がかかっていなかったのはそこの一ヶ所のみだった。
もしかするとフェリックスは、部屋を出るまでこの中にあるものを確認していたのかもしれない。
誘われるように引き出しへ手を伸ばしたイルマは、スペースの奥に怪しげなファイルが保管されているのを発見した。
「中に仕舞われていたのは、一見するとなんてことはないファイルだった。
仕事に必要なデータなんかは、当然職場の方で管理しているだろうから…。収まっていた書類は恐らく、父のプライベートに関するものだ。
……仮に、人目に触れても問題はないと、高を括っていたのか…。
部屋の扉も、デスクの引き出しも開けっ放しで外出するなんて、あの人らしからぬミスだった」
ファイルに収められていた数枚の書類には、世界各国の人名とおぼしきワードが記されていた。
振り分け方に特徴はなし。
名前の人物達が一体どこの誰で、フェリックスとどういった関係にあるのかも不明。
ただ、中には屋敷の使用人達の名前が並んだものもあり、これらに全く法則性はないというわけでもなさそうだった。
「その場にあった分だけでも、ざっと300人分の人名が記されていて、中には丸で囲われたものもあったそうだ。
一貫性はない。ただ、印の付けられていた名前は、300人中たった6人のみだった。
……その中に、ルイーシャ・アッシュの名前もあったんだ」
例の小間使いの女にも印が付けられているという点は引っ掛かるが、他に妙な部分はない。
であればこれは、フェリックスの眼鏡に適いそうな人物リスト、かなにかなのだろう。
あの人は他人を物のように秤にかけている節があるし、そう考えればこんな悪趣味も有り得ない話ではない。
ファイルの中身に特に重要性を感じなかったイルマは、適当にそれらしい想像をして、今度こそフェリックスの自室を出た。
しかし、理解の及ばないものを強引に自分の解釈で飲み込んでしまうと、悪い後味がずっと残ってしまうもの。
当時はああ推測したものの、実際のところはどうなのだろう。
その場では考えることを放棄したイルマだったが、疑問は以後も消えることはなかった。
故にこそ、最後には遺書に遺したのだ。
自分はとうとうあのファイルの謎を解き明かすことが出来なかったけれど、息子のアンリならひょっとして、という微かな期待を込めて。
「ここで一旦話が変わるんだが、ミレイシャ。
君は世に伝わる神隠し現象について、なにか知っていることはあるか?」
「え。……なんだよ、いきなり。
神隠し…って、あれだろ?巷で囁かれてる都市伝説みたいな。
世界規模のなんとかじゃあ、都市の伝説ってことにはならないけど」
「じゃあ、一応はその存在を認知しているんだな?」
「まあ。で、それがなんなわけ?今までの話とどう繋がんの?」
突然話題を切り替えたアンリに、ミレイシャは怪訝そうに首を傾げた。
するとアンリは、バッグから一冊のファイルを取り出し、中に閉じていた一枚の書類をミレイシャに向けてテーブルに置いた。
「俺の母は変わり者だったが、ずば抜けた記憶力の持ち主でもあってな。
フェリックスの自室で見付けたという例のファイルの中身を、思い出せるだけ書き出してくれたんだ。
特に、印の付いていた6人は印象深かったから、間違いないらしい」
アンリがミレイシャに見せたのは、イルマの遺書の、最後の一枚の写しだった。
正確に言うと、フェリックスのファイルの中身を複写したものを、更に複写したもの。
端的に言うと写しの写しということになる。
そこにはアンリの直筆で30人分の人名が書かれており、中には話にあった通りミレイシャの母の名前もあった。
「母の没後、俺は独自にフェリックスのことを調べた。
昔から怪しいと思っていたし、母から委ねられたこいつの謎も、解明してやりたかったからだ」
右手の人差し指で写しの端を二回叩くと、アンリは鼻から息を吸って続きを話した。
「そして、気付いた。
この30人の内、17人が例の神隠し事件の被害者の名前と一致すると。
印の付けられた6人に至っては、君のお母様を除いて全員だ」
イルマが思い出せた範囲でも半数を超えたということは、この一致はただの偶然とは言い難い。
あのファイルの内容は、神隠し現象によって亡くなった者、乃至現在も消息が不明のままである者を一覧に纏めたリスト、と考えるのが妥当といえる。
となると、残る疑問は二つだ。
何故そんなものをフェリックスが所有していたのか。
そして、唯一神隠し被害に遭っていないミレイシャの母親までもがリストに載っていた訳とは。
そこまでをアンリが説明して、ミレイシャは再びはっと顔を上げた。
「───まさか。
いや、有り得ないだろ。この一致はただの偶然ってことも、……。
冗談きついって、マジで」
「残念ながら、俺は君に対してジョークは一言も言っていない。
君の気持ちは解る。俺自身、いくらなんでもそれはないだろうと何度も思った。
本当に、全てはただの偶然で、父を疑うあまり目が曇っているんじゃないかと、何度も葛藤した。
……だが、どうしたって最後には同じ結論に行き着くんだ。
確証はまだないが、その結論に至るまでの俺の考察を、君にも教えるよ」
"あの人の血を分けた一人として、俺には君に全てを説明する義務がある"
そう言ってアンリは、自分が目にしてきたキングスコート家の歴史と、父フェリックスの人となりを大まかにミレイシャに語り始めた。
新薬開発のため、多く被験体を必要としていたフェリックスは、一体どうやってその人材を確保していたのか。
研究に専念していたという割に、これといった成果を出さず、開発中であったらしい薬とはどのようなものであったのか。
それから、今は亡き前妻の存在。
多くの情婦を抱えていながら、唯一妻以外に妊娠をさせた相手がルイーシャであった訳。
フェリックスの死後、ただの弟子に過ぎなかったヴィクトールに、遺品の全てが譲渡されたのは何故か。
尽きない疑問と、深まる謎。
考えればとても恐ろしい話だが、もしこれらが事実であるとするなら。
自分達の父は、世界の闇の中心にいたかもしれない。




