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オルクス  作者: 和達譲
Side:THE PAST
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Episode-2:深紅



「君のお母様、……ルイーシャ・アッシュは、君を身篭るまで、キングスコート家の本邸で小間使いとして雇われていた女性だった。

美人で気立てが良く、働き者で、同僚からの評判も良かったそうだ」


「そんなことはどうだっていい。それよりオレは、母さんとフェリックスの関係が知りたい。

母さんは、……ルイーシャは、あの男の愛人だったのか?」



濡れた頭をタオルで擦りながら、ミレイシャは苦い顔で問うた。


アンリは湯気の立つコーヒーを一口飲むと、バッグから例の写真を取り出した。

それを、ミレイシャに向けてテーブルに置いた。



「ルイーシャとフェリックスの間に疚しい関係はなかったよ。君の母親に落ち度はない」


「……じゃあやっぱり、母さんはあの男に無理矢理孕まされたって訳か。

立場を利用して、下手に抵抗できないのをいいことに、あいつは、オレの母さんを…!」



一枚の古びた写真を手に取って、ミレイシャは怒りに肩を震わせた。


そこに写っていたのは、紛れも無い自分の母だった。


何十人と並ぶ使用人達の中で、一際美しい容姿をした若かりし頃のルイーシャ。

メイド用の制服をきっちり着こみ、列の左端ではにかんだ表情を浮かべたその姿は、見るからに純情な乙女のそれだった。




「ッなんで、母さんだけ……!」



まだ、右も左もわからなかったろう年頃の、無垢で潔白な若者に、あの男は。

あの男の汚れた手が、母の清廉な肌に触れたのか。


どんなに怖かっただろう。不安だっただろう。

異国の地でたった一人、寄る辺もなく健気に生きていた彼女に、突如魔の手は迫った。


望まない妊娠。

出産すべきか、それとも堕胎するべきか。

産めば、間違いなく子供を不幸にさせてしまうだろう。

かといって、罪のない命を無理に摘み取るようなこともしたくない。

例えそれが、愛した人の子でなかったとしても。


きっと、何度も葛藤したことだろう。

何度も悩み、後悔し、繰り返し己の運命を呪った末に、お腹の子と共に逃げることを選んだのだろう。

この子を不幸にさせないためには、この方法しかないと。


一寸先は闇。

目の前に立ちはだかるは、入り組んだ迷路。

それでも、彼女は先へ進むと決めたのだ。

たった一人でも、手探りで進むしかなくても、我が子と自分がひっそりと生きていける場所を得るために。


どうか、あの男に見付からない家を。

自分とこの子が、新しい人生を歩んでいける土地を。


後にたどり着いた先が、ここプリムローズであったのは偶然だったけれど。

今のミレイシャにとって、当時のルイーシャの選択は正しかったと言えよう。




「……今更こんなことを言っても、君の怒りは到底治まらないだろうが。亡き父に代わって、謝罪させてくれ。

君達親子には、本当に辛い思いをさせてしまった。

謝って許されることではないが、君が望むなら、俺はどんな罰でも受けるつもりだ」



奥歯を噛み締めて必死に怒りを堪えるミレイシャに、アンリは頭を下げて謝罪した。

フェリックスの犯した罪は、当人亡き今、息子の自分が背負うべきものであると。


するとミレイシャは、アンリの態度を見てゆっくりと目を伏せ、一つ浅い溜め息を漏らしてソファーに座り直した。




「───いいよ、そういうの。オレが謝ってほしいのはあんたじゃない。

あんたは悪くないってことくらい、解ってるんだ」


「……だが、君の仇敵ともいえるフェリックスは、今は既に亡くなっている。

ならば、父の代わりに俺が償う他ない」


「だからって、なにもかもあんたが背負う必要はないだろ。

親の罪はその子供が引き継ぐのが相当だっていうなら、オレだって一応はあいつの息子になるんだし。

………もし、キングスコートの名を継いだあんたが、オレと違って真っ当に、順風満帆な人生を送っていたなら、小言の一つでも言ってやりたいところだったけど。

見た感じ、そういうわけでもなさそうだしな」



"苦労したんだろ、あんたも"

急に冷静さを取り戻したミレイシャは、落ち着いた声で静かにそう言った。


その言葉に、アンリは返答をしなかった。

無言でふっと目を逸らし、ミレイシャの追求から逃れるようにポーカーフェイスを装った。



実際、ミレイシャの指摘通り、今のアンリは相当に酷い顔をしていた。

母の死で酷く落ち込んでいたミレイシャに負けないほどに。


青ざめた肌に、淀んだ瞳。

身嗜みには気をつけているようだが、取り出した煙草をくわえる唇には血の気がなく、髭剃り跡もいつもより甘い。

せっかくの美貌も、重暗いオーラで陰っているせいで、まるで浮浪者のような雰囲気だ。


この顔は、とても脳天気な生き方をしてきた奴の顔じゃない。

アンリの姿を一目見た時から、ミレイシャはそのことを察していた。

だから、今更八つ当たりをする気分にはならなかったのだ。



互いに、しばしの沈黙が続く。


厨房から聞こえる作業の様子と、一定のリズムを刻む秒針と、窓ガラスを叩く雨音。

客の少ない店内には、その程度の微かな物音しか響いていない。


やがて気まずさに耐えられなくなったアンリは、懐からジッポを取り出して、口にくわえた煙草に火を付けようとした。

そこへ、ミレイシャがやや身を乗り出してきて、アンリの口元に向かって人差し指を向けた。




「それ、オレにも一本くれない?」



掠れた声で発せられた一言は、一見前後のない台詞だった。


アンリはパッケージから更に一本取り出すと、ミレイシャに差し出した。

ミレイシャは受け取った一本を自分の唇にあてがうと、アンリの手中にそっと顔を近付けた。


ボ、と小さく発火する音と共に、オレンジ色の小さな炎が揺れた。

アンリとミレイシャは、共に口元を近付けて一つの炎を分け合った。




「……俺が君の存在を知ったのも、つい最近のことなんだよ。

それまでは、自分に兄弟がいるなんて思いもしなかったし、きっかけがなければ、一生知らないままだったかもしれない」


「きっかけ?」


「そうだ。

君が母親に俺のことを教わったように、俺に君のことを教えてくれたのも、母親だった。

もっとも、君と違って、俺の母親が遺してくれたのは遺言書じゃなく、遺書だったけどな」




今アンリが思い浮かべているのは、一年程前のあの日のことだった。



アンリもミレイシャも、帰宅して母の異変に気付いたという点は共通している。

ただアンリの場合は、自分が発見した頃には既に手遅れだった。


薄暗い部屋の中、陰った天井からぶら下がった細い両脚。

あの時の光景に、今尚アンリは蝕まれ続けている。

三日に一度は夢にも見るほどに。


相談できる相手はいても、誰かに話すことで嫌な記憶が全く無くなる訳ではない。

他のことに意識を集中させても、ふとした拍子に何度でも母の姿がちらついてしまう。


ミレイシャだけではない。

アンリもまた、ずっと苦しんでいたのだ。

痩せた肩も、目の下の隈も、母の死をきっかけに未だ元に戻らないまま。



「君のお母様や君の気持ちと比べるつもりはないが、実の親が自ら命を絶った姿というのは、想像を絶するものだよ。

例えそこに、良好な親子関係がなかったとしてもね」



当時の様子をかい摘まんで説明するアンリの姿を、ミレイシャは食い入るように見詰めた。

そして、自分よりも彼の方が応えているようだと、心の中で納得した。


病死か、自死か。

残された側がより傷付くのは、やはり後者で間違いないだろうと。




「母の遺した遺書に、君の存在が示されていた。

昔、屋敷の小間使いとして働いていた若者に、父が手を出したこと。その女性が、妊娠発覚を機に行方をくらましたこと。

……まだ幼かったから、当時のことを俺は全く覚えていないが。

もしかしたら、その女性は今もどこかで生きているかもしれない。俺の腹違いの兄弟にあたる子も、無事でいるかもしれないと。

母らしい、淡々とした文体で、そう書かれていた」




死の間際にアンリの母が示したものは、不器用だが確かな愛情だった。


最後の最後で、ようやく彼女は息子への愛に気付いたのだ。

その覚醒は遅すぎるものではあったけれど、強くアンリの心に訴えかけた。

生まれて初めて母の優しさに触れたアンリは、嬉しさと悔しさで涙が溢れて止まらなかった。


自分を気遣う言葉も、慈しむ優しい眼差しも。

こんな小さな紙切れにしたためるのではなく、生きている内に、声にして伝えてほしかった。

ペンを取った時の表情はきっと安らかであったろうから、その顔を、目を、真っ直ぐに自分に向けてほしかったと。


しかし、いくら悔いたところで、もう元には戻らない。

死んだ人間は二度と生き返らないということも、アンリは嫌というほど理解していた。



"個人的に言いたいことはまだあるけれど、その前に大切なことを伝えておくわ。

周りに誰もいないか、万が一にでも人に見られる心配はないか、改めて確認してから先を読みなさい"



便箋の枚数は、合計で22枚にも及んだ。

几帳面な彼女らしい、丁寧で細かい文字がびっしりと連なったそれらは、主に彼女の感情的な面が表れたものだった。


ところが、その9枚目から急に内容が変わった。

それが、ミレイシャについてのことだった。



父を亡くし、母をも失った自分は天涯孤独の身の上となってしまったのだと、悲嘆に暮れていたその時。

自室のベッドで一人母の筆跡を追っていたアンリの元に、彼の存在は微かな希望の光をもたらした。


名前も、顔も知らない。

どこにいるかもわからない。

生きているのかどうかすら、確証がない。


だが、母の最期の言葉に偽りがあるとも思えなかった。



"きっとお前は会いたいと言うだろうから、私の知る限りの情報を教えておくわ。

ただ、覚悟はしておきなさい。会ってもお前を受け入れてくれる人達とは限らないし、会えば必ず何かが変わるわ。

もうあの人の目はないと油断しないで。あの人が死んでも、あの人の遺志を継いだ者達は、今もお前を見張っているのだから"



明かしてくれた母でさえ、把握できていたことは三つの情報のみだった。


例の小間使いの女は、20歳そこそこの若さでフェリックスの子を宿してしまったということ。

行方をくらました後の行き先は不明だが、以後国外に出た様子はないということ。


それから、女の名前と外見的特徴などの表面的なプロフィール。

判明していたことは、たったこれだけ。



それでも、アンリは迷わなかった。


仲良くなれなくてもいい。

いっそ知らないままの方が良かったと、後悔してもいい。

どんな形でも構わないから、一目でいいから、その子に会ってみたい。


この世のどこかで、自分と血を分けた存在が生きているのだという事実さえあれば、アンリは満足だったのだ。



そして、見付けた。

あらゆる手段を使い、まさに血眼になって国内を探し回った末に、アンリはようやく彼を見つけ出した。


無人の公園に一人、寂しそうに黄昏れた赤い髪。

初めて目にしたミレイシャの姿は、全身の血が沸騰しそうなほどの高揚感をアンリに与えた。


"こいつだ"と。

本人に尋ねるまでもなくそう確信できたのは、互いの血が呼び合ったせいだったのかもしれない。




「出来れば、君のお母様にも一目お会いしたかったよ。

本当に、……残念だ」




小さく呟いて、アンリは三本目の煙草を灰皿に押し付けた。



ルイーシャの死と、アンリの来訪が重なったのは偶然だった。

だから、コールマン親子の所在を突き止めた当初、アンリはルイーシャにも会えるものと楽観していた。

今度こそ直接の被害者である彼女に、自分の口から謝罪できると思っていたのだ。


母を失い、互いの存在を知った。

母の死というきっかけがなければ、アンリもミレイシャも、一生その存在を知らなかったかもしれない。




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