Episode:深紅
5月18日。PM3:21。
その日は生憎の雨だった。
針のような雫が絶えず降り注ぐ曇天の下には、一人の青年の姿があった。
カーキのブルゾンを羽織り、ベルベットのような赤い髪を持った青年だ。
しかし、雨曝しの青年を気遣う者はなく、青年も自らの有り様に気を留める様子がなかった。
ただ、じわじわと己の体温が奪われていくのを感じながら、青年はその場に留まり続けていた。
「やっと見付けた」
ふと、どこからかテノールの声が聞こえてきた。
青年が顔を上げると、すぐ側に男が一人立っていた。
黒いスーツを身に纏い、黒い傘を差した若い男だった。
公園のベンチに座っている青年と、いつの間にか現れたその男。
二人きりの公園は酷く閑散としていて、薄闇の寂しさが立ち込めていた。
男は青年に向かってもう一歩歩み寄ると、そっと自分の傘を差し出した。
「風邪、ひくぞ」
傘に隠れていた男の顔が、そこでようやく明らかになった。
青年と同じ真っ赤な髪に、濁りのないエメラルドグリーンの瞳。
やや肌色が不健康であることを差し引けば、男はとても端正な面立ちをした美丈夫だった。
男の声が途切れると、互いの息遣いはたちまち雨音に消えた。
平素は親子連れで賑わうこの公園も、こんな雨では人っ子一人寄り付かない。
まるで、ここだけ世界に置き去りにされてしまったかのような静けさの中、今は二人の深紅だけが灰色の景色に映えていた。
「誰だ、あんた」
青年が長い前髪の隙間から鋭い眼光を覗かせると、男は無表情のまま僅かに眉を寄せた。
「俺の名はアンリ。
君の兄だよ、ミレイシャ」
呪われた兄弟の対面は、絶望と悲嘆と敵意の渦中に果たされ、望んだ形での出会いとはならなかった。
ーーーーーーーー
その後、アンリと名乗った男に連れられて、ミレイシャと呼ばれた青年は公園を離れた。
日頃のミレイシャであれば、初対面の相手であろうとすぐに打ち解けることが出来ていた。
だが、今日の彼にはその元気がなかった。
いつもの明るい笑顔も、軽い足音も重く沈み、アンリの問い掛けに返す言葉は生返事ばかりだ。
なにを考えているのか、なにも考えていないのか。
突然現れた見知らぬ男に対してさえ、特に警戒心を見せる様子がない。
いつになくぼんやりとした表情を浮かべるミレイシャは、とっくに魂が抜かれているかのようだった。
そんなミレイシャを時折心配そうに振り返るアンリは、彼を伴って最寄りのカフェへと足を延ばした。
落ち着いた先は、店内の一番奥にある窓際のボックス席。
そこへ先にミレイシャを促し、アンリはまず近くを通り掛かった若い女性スタッフに声をかけた。
温かいコーヒーを二つと、ついでになにか拭くものを一枚用意してほしい。
注文を承ったスタッフが厨房にはけて行くと、アンリもようやく着席して一息ついた。
「おい」
「………」
「……おい、お前。
大丈夫か?酷い顔だぞ」
アンリの問い掛けに、ミレイシャは答えなかった。
正面にいるアンリを視界から追い出すように、目線はぼんやりと窓の外に向いている。
「とりあえず、これで体を拭け。このままじゃ風邪をひく」
アンリは上着の内ポケットから自前のハンカチを取り出すと、ミレイシャに差し出した。
それでも、ミレイシャは反応しなかった。
短く溜め息を吐いたアンリは、しぶしぶといった様子で一旦席を立ち、自らの手でミレイシャの髪を拭いてやろうと、彼の赤い頭に向かって手を伸ばした。
その時、ミレイシャがふと顔を上げて、アンリの腕をぐっと掴んだ。
「───誰なんだよ、あんた。
オレに兄なんかいない。オレの家族は母さんだけだった。
……気に入らない。オレと同じ色をしてる。
あんたは一体、何者なんだよ」
突然明確な意思を示したミレイシャは、低く冷たい声を絞り出して、アンリの手首をきつく握り締めた。
ミレイシャの腕の力に引き寄せられたアンリは、思わず前のめりに倒れそうになり、とっさに目の前のテーブルに手をついた。
その振動で置いてあったグラスが倒れると、中の水が決壊したダムのように一気に溢れだした。
「あの、お客様?どうされましたか?
お加減が悪いようでしたら、別室でお休みになられても…」
「……いや、大丈夫だ。騒いですまない。
始末は自分達でするから、君はもう下がってくれていいよ。
ありがとう」
アンリとミレイシャ。
水浸しのテーブルを挟んで向かい合った二人からは、ただならぬ雰囲気が滲み出ていた。
そんな彼らの様子を見て、なにやら揉めているようだと察した先程のスタッフが、注文の品をトレーに乗せて心配そうにやって来た。
アンリはそれに声だけで応じて、一先ず彼女を下がらせた。
こちらを睨むミレイシャから、一瞬も目を逸らさずに。
「……まるで野性の狼だな」
もう一方の手を使って掴まれた腕を解くと、アンリは取り出したハンカチでグラスから零れた水を拭った。
そして、用意してもらった真新しいタオルをミレイシャの頭に被せてやり、彼がもう一度掴みかかって来ないか警戒しながら再び席についた。
「ふう。気持ちは分からないでもないが、噛み付く前にまず人語で訴えてくれないか。
お互い人間なんだから、コミュニケーションの術は力付くでなくともいいだろう」
「………知らない奴から、いきなりお前の兄貴だ、なんて言われて、不審に思わない方がおかしいだろ」
「……まあ、それもそうだな。
そのために、わざわざ場所を変えたんだから」
"ここは濡れるから、どこか場所を変えて話をしよう"
このカフェに入る前に、アンリは確かにミレイシャにそう断った。
なんの説明もなしに強引に連れ回してきたのではない。
その際、ミレイシャは返事をしなかったが、無言でアンリの後をついて来た。
それを見て、アンリは彼が承諾を示したものと解釈した。
だが、実際のところは違っていた。
大人しく従うふりをして、ミレイシャはずっとアンリを疑っていたのだ。
いつ妙な真似をされてもやり返せるよう、自身も目に見えぬ牙を研ぎ澄ませながら。
20年越しにようやく果たした兄弟の対面だというのに、感動ムードは欠片もない。
これならいっそ、他人として接近した方が良かったかもしれないなと、アンリは困って眉を潜めた。
「君の言い分はもっともだが、俺は君の思っているような怪しい人間じゃないし、敵じゃない。
今はまだ信じられないかもしれないが、俺は確かに君の異母兄だ。証拠が欲しいならここに、」
「アンリ・F・キングスコート、だろ?
キングスコートの初代主席、フェリックス・キングスコートの長子」
「……俺を知ってるのか」
アンリとミレイシャが血縁関係にあるという決定的な証拠はなかった。
その事実を今まで隠蔽されてきたのだから、現存していないのは当然のことだった。
だが、アンリの手元には一枚の写真があった。
それは、遠い昔にミレイシャの母が、キングスコート家の小間使いとして働いていた頃の写真だった。
実はアンリは、前もってこの写真を用意していたのだ。
必要とあらば、最低限の物証としてミレイシャに確かめさせてやるために。
ところが、そうするまでもなく、ミレイシャは既にアンリの正体を知っていた。
自分を出産する以前の母の生い立ちも、ルーツも、全て把握していた。
ただ、目の前にいるこの男と自分とが兄弟であるという事実だけが、未だに認められないようだった。
「三日前に、母さんが死んだ。オレにとって、たった一人の家族だった人だ。
名前はルイーシャ・コールマン。けどこれはイギリス人の祖母の姓で、元々の母さんの名前は、ルイーシャ・アッシュだった。
おたくの親父から逃げるために、母さんはわざわざファミリーネームを母親の姓に変えて、オレに引き継がせたんだ。
そのことを、オレは母さんが死ぬまで知らなかった。
オレに父親がいない訳も、ずっと人目を避けるような生活を送ってきた訳も、何一つ」
つい三日前に、ミレイシャの母、ルイーシャは他界した。
急性心不全による、突然の死別だった。
昨日まで元気に笑っていた母が、その日家に帰ると、青ざめた顔で床に倒れていた。
ミレイシャは直ちに救急車を呼び、すぐさま病院で母の容態を診てもらったが、その頃にはもう手遅れだった。
ほぼ事故のような別れだった。
若々しく健康だったはずの母が、突然の発作に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
「自分の出自を知った時、正直嘘だろうと思った。
オレの母さんは嘘をつくような人じゃないし、思い返せば腑に落ちることもいくつかあったけど、それでもやっぱり信じられなかった。
まさか自分が、この国の王様の、息子だなんて。そんな、お伽話みたいなこと、有り得ないと思った。
……けど、あんたを見て確信しちまった。この赤い髪は、そんじょそこらじゃ見掛けない。
母さんが死んで数日としない内に、あんたがオレの前にふらっと現れるなんて。下手なヒューマンドラマみたいで、気分が悪いよ」
ルイーシャは特に病に犯されていた訳ではなかった。
息子のミレイシャも言う通り、命を落とす直前まで彼女は健康な女性だった。
無論本人もそのつもりで、常に自分の体調管理に気を遣って過ごしていた。
これからも長生きをして、息子の成長を見守っていくことを望んでいた。
しかし同時に、いつ自分が不慮の事故に巻き込まれるかわからない不安も、ずっと抱えていた。
自分が死ねば、息子は一人になってしまう。
そうならないであってほしいと願っても、いつその時が訪れるかはわからない。
故にルイーシャは、ミレイシャがまだ幼い頃から遺言書をしたためていたのだった。
愛する我が子へのメッセージを、出来るだけたくさん残しておくために。
自分がいなくなった後も、ミレイシャが前を向いて生きていけるように。
ミレイシャの成長に伴って何度も加筆修正を施されたそれは、まさにルイーシャの愛そのものと言える代物だった。
そしてその中には、ミレイシャの腹違いの兄であるアンリの存在のことも記されていた。
自分と違い、正妻の子として正式に生まれた彼と、いつか出会う日がくるかもしれないと。
だがミレイシャは、母の思い描く未来を知っても尚、そんな日は一生来なければいいと思っていた。
権力者の手篭めにされ、望まない妊娠であっても、生まれた自分を無償の愛で育ててくれた母と。
恵まれた環境下で堂々と家族と生きられる立場にあっただろう兄。
格差があることは考えずとも理解できたし、今更会って話したいことも特になかった。
まして、母を苦しめた悪党の正当な後継者でもあると思うと、筋違いでもミレイシャはアンリを疎まずにいられなかった。
片や、アンリもアンリでミレイシャとの血縁には複雑な思いをさせられてきた。
財も名誉も権力も、どれほどの大それた力に恵まれていても、母の愛に勝る幸福はない。
そのことを痛いほどに知っていたからこそ、アンリはコールマン親子の境遇を不憫に思うと同時に、羨ましくも感じていたのだった。
例え両親が揃っていても、最悪な家族関係で板挟みになっていた自分とは違う。
きっと母親に愛されて育っただろう弟は、せめて美しい思い出がある分、自分よりまともな人生かもしれないと。
どちらがより不幸で、幸福なのかはわからない。
同じ血で繋がっているとはいえ、各々の生き方は全く異なるものだった。
なにが正しいのか、どこで間違えたのか。
それを教えてくれる親も、共にもういない。
ただ、公園で邂逅した時。
ミレイシャがアンリの姿を見た時。アンリがミレイシャの姿を見た時。
燃えるような赤い髪が、言葉に出来ない強烈なオーラが、一瞬にして互いを同じものと認識させた。
数少ない情報を頼りに、会ったこともない弟を探しにきたアンリと。
母の遺言で、自分には兄がいるらしい事実だけを知ったミレイシャ。
相手がどんな姿形をしているかも知らなかった。
それでも、一目見た瞬間に二人は悟ったのだ。
こいつは、あの男の息子であると。




