Episode-5:ミレイシャ・コールマンの慟哭
ミーシャ。愛するミーシャ。
世界にたった一人の私の息子。かけがえのない宝物。
あなたを産んだその日から、私の人生の全てが変わった。
ミーシャ。私の子に生まれてきてくれてありがとう。
私をあなたのお母さんにしてくれて、ありがとう。
生まれたての小さな手が、弱く私の人差し指を掴んだ時。
私はこの子の母として、一生守り抜いてみせると心に誓った。
オレと母さんの関係はいつまでも変わらなかった。
思春期の頃には、オレがグレたせいで少しギクシャクした感じになってしまったが、それももう昔の話だ。
今思えば、あの期間があったからこそ、一層オレ達の絆は深まったように思う。
オレが成人を迎えた日には、二人でちょっと高いワインを開けて祝った。
無事に育ってくれて良かったと、泣きながら笑う母さんを見て、オレも思わずもらい泣きしてしまったのはいい思い出だ。
あなたは昔から優しい子だった。
誰に教わるまでもなく、困っている人には率先して声をかけて、弱いものいじめをする人を許さなかった。
家でも積極的に家事を手伝ってくれて、私の助けになろうと頑張ってくれた。
小さな体で、細い腕で、私の代わりに一生懸命重い荷物を運んでくれる姿を見た時。
私は、自分の非力さをふがいなく感じると共に、あなたが健やかに育ってくれていることを実感して、嬉しかった。
オレの親は母さんだけだ。
オレは母さんを愛しているし、貧乏でも十分幸せな生活を送れていたから、父がいないことを不満に感じることはなかった。
ただ、自分にとっての頼みの綱が、母さんだけであるという事実が心許なくて、どうしようもなく不安になる時もあった。
母さんがいなくなったら、オレは一人になってしまう。
いつか来るであろうその時が恐ろしくて、オレはいつも母さんを心配していた。
母さんもそのことに気付いていたから、出来るだけたくさんの人と仲良くなりなさいと、オレに教えた。
この世で最も大切で、最大の武器となるものは、人との繋がりであるからと。
勉強が出来なくてもいいから、友達のことはなにより大切にしなさいと。それが母さんの教えだった。
いつ自分が力尽きてしまうかわからないから、母さんは出来るだけ人脈を広げて、オレを孤独から遠ざけようとしていたんだと思う。
昔、あなたが自分の髪を嫌いだと言ったことがあったわよね。
あなたのお父さんと同じ、鮮やかな紅蓮色。
ふとあなたの赤を見る度に、あなたは紛れも無いあの人の子なんだと思い出して、私は切なくなった。
あなたが私と似ていないことを悩んでいたように、私もまた、同じ悩みを抱えていたから。
ミーシャ。あなたは間違いなく、私がお腹を痛めて産んだ子。
それは確かなはずなのに、髪も、目も、顔付きも、私と同じところはほとんどなくて、時に寂しさを覚えることがあった。
まるで、あなたと私は無関係なんだと、神様に言われているような気がして、たまらなくなる時があったわ。
母さんの涙を見たのは、オレの人生でたった二度だけだ。
一つは、オレの成人を喜んで流していた嬉し涙。
もう一つが、オレがまだ餓鬼だった頃の話だ。
当時、オレが家に帰ると、母さんは欠かさず玄関まで出迎えにきてくれていた。それが当たり前だった。
だが、その日はたまたま出迎えがなかった。
不思議に思ったオレは、母さんを探して家中を歩き回った。
そして、母さんの自室で、座り込んでいる母さんの姿を見付けた。
オレが赤ん坊だった頃の服を大事そうに抱えた母さんは、しくしくと声を殺して泣いていた。
オレが駆け寄ると、母さんははっとした顔でオレを見た。
でも、すぐにいつもの笑顔に変わって、飛び付いたオレを優しく受け止めてくれた。
事情はよく分からなかったが、それでもオレは必死に母さんを慰めようとした。
なにか悲しいことでもあったのかと。痛いところがあるなら撫でてやると。幼いなりに頭を使い、拙い言葉でも伝わるように全身で心配を表現した。
すると母さんは、落ち着くどころか益々泣き出して、なにも言わずに思い切りオレを抱きしめた。
母さんも一人の人間で、時には辛くて涙を流すこともあると思う。
けれど、あの時の涙の訳を、オレは未だに解らないままだった。
時の経過と共に、あなたはどんどんあの人に近付いていった。
変声期を経て低くなった声は、特にあの人そっくりだった。後ろから話し掛けられた時、とっさに身構えてしまうことがあったくらい。
あなたが私の身長を追い越した頃には、まるでそこにあの人がいるようだった。
昔、喧嘩をして帰ってきた時の、鋭い目付きと冷ややかな表情をしたあなたが、まさにあの人そのものだった。
あなたの成長は喜ばしいものだったけれど、このままあの人の生き写しとなってしまうのではと思うと、同時に不安でもあった。
親として、こんなことを言うべきではないと、解ってはいるけれど。
それでもどうか、これ以上あの人と同じになってしまわないでと、私は内心願っていたわ。
たまに、母さんはぼんやりとオレを見ていることがあった。
母さんの目に映っているのはオレの顔で、なのに、母さんが見ているのはオレの顔じゃない。
そんな、遠く果てにあるなにかを見詰めるような目で、オレを眺めていることがあった。
時には、ふとオレの姿を目にして驚いたり、怯えるように引き攣った反応をすることもあった。
オレの機嫌が悪い時や、疲れて口数が少ない時なんかは、特にそうだった。
だからオレは、母さんのために喧嘩を控えるようになった。
当時のオレのピリピリとした雰囲気が、きっと母さんの心の負担になっているんだろうと思ったから。
隠し通すつもりだった。
出来れば一生、知らないでいてほしかった。
穏やかな人生を生きてほしかった。
世の中には、知らない方が幸せでいられることもあるから。
母さんがオレになにかを隠しているような気配は、ずっと感じていた。
でも、母さんがオレを心から愛してくれていることも知っていたから、言及はしなかった。
きっと、オレのためを考えて、あえて内緒にしていることもあるんだろうと思ったから。
母さんが自分から話してくれるその時まで、オレは待とうと思ったんだ。
ごめんね、ミーシャ。
私はあなたが思ってくれているような、いいお母さんじゃないの。
卑怯で、嘘つきで、臆病な私をどうか許して。
破ってはならない誓いを破ってしまうことを、どうか。
母さん。オレは母さんが大好きだ。
母さんの子として生まれたことが、オレの誇りで幸福だ。
大人になった今、昔立てた誓いをようやく果たせる時がきた。
バリバリ働いて、金持ちになって、でかい家を買って。
それで、これからは二人でのんびり生きていこう。
もう、母さんに疲れた顔はさせないし、ひもじい思いもさせない。
これまでずっと、母さんがオレを守ってくれたように。
これからは、オレが母さんを守るから。
ごめんね。
元気でいる内に、私の口から話してあげるべきだった。
けれど、それはもう叶いそうにないから、こうしてペンをとります。
今こそ、あなたに全てを明かす時がきた。
ありがとう、母さん。
あなたのおかげで、オレは幸せだった。
真実はきっと、これ以上ないほどの苦しみをあなたに強いることでしょう。
傷付いて、悲しくて、衝動的に命を投げ出したくなる思いをさせるかもしれない。
「母さん。」
『ミーシャ。』
でもね、ミーシャ。
一つだけ、昔から変わらない確かなものがある。
私があなたを愛しているということ。
それだけは、今までもこれからも、永遠に変わらないから。
あなたは私に望まれて生まれた。そして、愛されていた。
そのことを、どうか忘れないでいて。
「『愛してる』」
道半ばで倒れてしまう私を、許して。
『Lies and the truth』




