Episode:ミレイシャ・コールマンの慟哭
ミレイシャ・コールマン。それがオレの名前。
母さんがつけてくれた、大切な名前だ。
友人知人はオレのことを愛称のミリィやミレイなどと呼ぶが、母さんだけはミーシャと呼んだ。
他の誰でもない、母さんだけが呼んでくれるその響きが、オレは好きだった。
物心つく前から、オレと母さんは二人だけで暮らしていた。
オレに父さんはいなかった。オレが生まれてすぐに、病気で亡くなったんだそうだ。
以来、母さんは女手一つでオレを育ててくれた。
オレに寂しい思いをさせないよう、どんなに忙しい時でも笑顔と鼻歌を絶やさずに。
オレに父親の記憶はないが、ありったけの愛情を持って接してくれる母さんがいてくれたから、特に寂しいと感じることはなかった。
もし、オレの母さんが母さんでなかったら、オレはもっと性根の腐った人間になっていたかもしれない。
ルイーシャ・コールマン。それが母さんの名前。
自身の夫であり、オレの父さんでもある人物とは、籍を入れる前に死別してしまったのだという。
だから、ファミリーネームは生まれた時から変わっていないんだと、昔教えられた。
ポーランド人の父と、イギリス人の母のもとに生まれたルイーシャは、金髪に碧い瞳をしていて、息子のオレから見ても美しい女性だった。
明るくて、優しくて、怒ると少し怖いけれど、いつもオレのことを一番に考えてくれる。
料理上手で人当たりも良く、ご近所でも評判だった彼女を、オレは自慢の母親と尊敬していた。
身寄りのない親一人子一人の生活は厳しいものだったが、それでもオレは幸せだった。
手狭なアパルトメントの玄関をくぐれば、いつも笑顔で出迎えてくれる母さんがいて。
限られた材料でも、毎日美味しい料理を作ってもらえて。
貧しくとも不幸を感じさせない家庭であろうと、母さんは常にオレの見えないところで努力していた。
そのおかげでオレは、母さんとの暮らしに不満を感じたことは、自分の人生を悲観したことは、一度だってなかったんだ。
いつか、オレが大人になったら。
うんと働いて金持ちになって、母さんに楽をさせてやる。
住まいも、こんな小さな借家じゃなくて、もっとでかくて広い家を買って。
値段を見て買い物をするのではなく、欲しい時に欲しいものが買える暮らしを実現させてみせる。
餓鬼の頃、それを本人に話したら、母さんは泣いて喜んでくれたっけ。
「ねえ、母さん」
「おかえり、…。
ッどうしたのその怪我は?!なにがあったの?他に痛いところは?ばい菌は入ってない?
待ってて、今すぐに手当てを…」
「なんで、オレには父さんがいないの」
小学四年の夏。
オレは、生まれて初めて母さんと喧嘩をした。
その日はいつも通りに学校に行って、授業を受けて、午前中まではなんてことのない一日だった。
そして放課後。
久しぶりに友達を我が家に招待しようと思い、オレは当時特に仲の良かった三人の少年に声をかけた。
今夜、うちで一緒に夕食を食べないかと。
三人は二つ返事でOKし、おばさんの手料理がまた食べられるなんてと喜んでくれた。
以前母さんの作った焼き菓子を分けてやったことがあったから、母さんが料理上手であることを覚えていたんだと思う。
だが、そんなオレ達の間に割って入ってきた奴がいた。
そいつは隣のクラスの少年で、体格の良さだけで学校のボスを気取るような、嫌な奴だった。
彼は、数人の取り巻きを引き連れて、突然オレに絡んできた。
"こいつの家は貧乏だから、そんなところで出された料理を食べたら、きっと腹を壊すぞ"と。
見るからに馬鹿にした顔で、口ぶりで、ケタケタと笑いながらオレをからかった。
"料理の上手い下手に、貧乏は関係ないだろ"
オレはすぐに反論したが、少年はそれを無視して、更に畳み掛けるようにこう言った。
"お前の家が貧乏なのは、親父に捨てられたからだろ"
母さんの話によれば、オレの父さんは病気で死んだはずだった。
だからきっと、こいつの台詞はオレを怒らせるための出まかせに違いない。
その時はそう思って、オレはなにも知らないくせに勝手なことを言うなと益々怒った。
"だったらどうして、お前の家には父親の写真がないんだ?"
"前に遊びに行った時、お前と母親が二人で映ってる写真はたくさんあったけど、父親の写真は一枚もなかったぞ"
"お前の母親、お前に父親のこと全然話してくれないんだろ?
いい人だったけど、病気で死んじゃったってことしか教えてくれない"
"でも、本当にいい人で、本当に病気で死んだなら、普通死ぬ前の写真くらい飾っておくもんじゃないのか?"
"そうしないのは、母親が父親のことを嫌いだからだろ。
捨てられたから、嫌いになったんだろ"
妙に確信めいた様子で、矢継ぎ早にそう言ってのけた少年は、してやったりな表情を浮かべながらも、眉間に深い皺を寄せていた。
今思えば、貧乏で頭も悪いくせに、友達が多くて幸せそうだったオレを嫉んでいたのかもしれない。
気に入らないから、適当にオレを傷付けるようなことを言って、自分が優位に立とうとしたのかもしれない。
けれど、当時のオレは、所詮推測でしかないその言葉に酷く惑わされ、狼狽えた。
そんなはずはない。
適当なことを言うな。
言い返そうと思えばできたはずなのに、詰まった喉からはなにも言葉が出てこなかった。
そうして追い詰められたオレを、少年は満足そうな顔で見下ろしていた。
オレの惨めさを、もっともっとと煽るように。
少年の態度が気に食わなかったオレは、ついカッとなって、衝動的に少年を殴り飛ばした。
しかし、彼の方もやられたままではおらず、すぐに殴り返してきて、やがて取っ組み合いの喧嘩となった。
友達が必死に仲裁に入ってくれたので、結果的には大事に発展する前に事が済んだ。
だが、やはり先に殴ったことを謝る気にはならず、傷だらけの体に鞭打ってオレはその場から走り去った。
でないと、早くここから立ち去らないと、少年にもっと酷いことをしてしまいそうだったから。
友達の制止の声が、少年のくそったれと叫ぶ声が耳に入っても、オレにはもう逃げることしか出来なかったのだ。
帰路を行く間は、プリムローズの街を全速力で走り続けた。
知り合いに声を掛けられても、足に疲労が溜まっても、立ち止まらずに走り続けた。
すると、途中横切ったパン屋のガラス窓に、一瞬だけ自分の姿が映ったのが目に入った。
真っ赤な髪に、金色の瞳。
夕焼けの暁色に染まった街並みでも、鮮やかに映えるこの赤い髪は、一体どこからきたのか。
母さんは金髪に碧い目だ。
じゃあこれは、父さんの遺伝子なのか。
オレの父さんはどこにいるんだ。どんな顔をしているんだ。
父親って、なんだ。
一度芽吹いてしまったそれは、待ってましたとばかりにみるみる花を開いて、オレの胸に一輪の黒を根差した。
「オレ、本当に母さんの子供なの」
「………クラスの子に、なにか言われたの?」
「質問に答えてよ。オレは本当に、母さんから生まれたの」
「……そうよ。あなたは間違いなく母さんの子。
母さんのお腹にいた時から、母さんはずっとずっとあなたを愛してるわ」
「じゃあ、この髪は誰の色?」
「……ミーシャ、」
「オレは母さんから生まれたんでしょ?なのにどうして、オレと母さんはこんなに違うの。
オレは母さんの、母さんだけの子供で、オレの親は母さんだけなのに!なんでこんなに違うんだよ!
こんな……、目立つだけの赤い髪なんて、大っ嫌いだ!!!」
ずっと、自分の赤毛がコンプレックスだった。
どこにいっても目立って、今時こんなにはっきりした赤は珍しいと、出会う人出会う人に必ず指摘されるこの色が、ずっと恥ずかしくて嫌だった。
でも、本当はそうじゃなかった。
人からからかわれるのが嫌だったんじゃない。
赤い髪が嫌いだったんじゃない。
オレはただ、母さんと違う見た目に生まれたオレが、寂しかっただけなんだ。
父親がいないことが不満だったんじゃない。
オレには母さんしかいないのに、一目でオレが母さんの子だとわからないのが、悲しかったんだ。
「ミーシャ……っ!待って、行かないで!」
帰宅早々、玄関先で一方的にまくし立てると、オレは母さんの制止の声と手を振りほどいて、また走って出て行った。
このままオレの髪が夕焼けのオレンジに染まってしまえたなら、少しは母さんに近付けるのにと思いながら。
あんなことを言ってもしょうがないと、頭では解っていた。
母さんのことは大好きだし、困らせたいわけでもなかった。
けど、突然噴き出したものを上手く制御できるほど、あの頃のオレは賢くなかったんだ。
少し考えれば理解できることでも、目茶苦茶に絡まった幼い思考回路では、すぐには整理がつかなかった。
「───!お帰りなさい、」
「………。」
「晩御飯、出来てるけど…。食欲はある?
あ、それともシャワーを先にする?さっきまでお湯を使っていたからすぐに、」
「母さん」
「………。」
「さっきは、ごめん。
飯は、シャワー浴びてからにするよ」
あの後、仕方なく家に帰って、先程のことを母さんに謝ったけれど、仲直りした後も微妙にギクシャクした感じは抜けなかった。
以来オレは、自分からはあまり母さんに話しかけなくなった。
どうして、オレはオレなんだろう。
自分のことを特別いい人間だと思っていたわけではないが、その日から急に、自分がすごく嫌な奴に感じられた。
そのせいで、相変わらず優しい母さんとは、まともに顔を合わせられなくなってしまったのだった。
ーーーーー
「なあ、それってうまいの?」
「ア?これか?
……なんだお前、こういうの興味あんのか。ひんこーほーせーのお坊ちゃんだって聞いたけど」
「そんなんじゃねえよ。オレはただの、貧乏で頭の悪いクソガキ。
金ないからさ、試しに一本味見させてくれない?」
「ハッハッハ。マジでクソガキじゃんか。うちの学校、おれら以外にそういう奴いないと思ってたけど。
いいぜ。ただし誰にも言うなよ?結構キツめのやつだから、服についた匂いでバレねえようにな」
初めて煙草の味を知ったのは、中学に進学して間もなくの頃だった。
有り体に言うとオレは、これを機にグレたってことになるのかもしれない。
一見すると、ピアスは開けていないし、タトゥーも入れていないし、学校では真面目に授業を受ける普通の生徒にしか見えなかっただろう。
だが、その裏でオレは、身近な非行少年達と徒党を組み、彼らと共に酒を呷ったり、煙草を吹かしたりするようになっていた。
大人の目に触れると面倒なので、いつも人気のない場所でこっそりと。
一方的な暴力行為はしない。万引きも恐喝もしない。
犯罪は母さんの迷惑になるし、第一オレ自身、人を傷付けることが好きじゃないから。
だから、やっていることと言えばアルコールとニコチンの摂取くらいで、悪ガキと呼ぶにはまだ可愛いものだったと思う。
それでも、オレにとっては最悪の裏切り行為だった。
母さんが大切に大切に育ててきた体に、未熟な子供には毒であるそれらを流し込むことで、オレはオレを自分でおとしめていたのだ。
意味なんてない。
ただなんとなく、いい子ちゃん達と一緒にいるのが嫌になったから。
汚いものの中に紛れていれば、オレの体の奥底にある本当に醜いものに誰も気付かないと思って、自分から汚れに行くことにしたんだ。
「ほー。女みてえな顔してる割にゃ、意外と気概あんじゃねえか」
初めて吸った煙草はとても苦くて、まずかったのを覚えている。
思わずむせてしまいそうになるのをぐっと堪え、見よう見真似でゆっくり煙を吐き出すと、初めての割に大したものだと背中を叩かれたのも覚えている。
ただ、彼の名前は知らなかった。
隣にいた彼の名も、その隣にいた奴も、みんな知らなかった。
同じ学校に通っていて、オレより歳が二つ上で、先生達から厄介だと目を付けられている不良グループの面々。
彼らについて当初把握できていたのは、たったそれだけだった。
「じゃ、こっちのも一本どうよ?さっきのより更にキツいやつだけど、慣れちまえば逆に癖になる味だぜ」
安っぽいビーニーキャップを被り、舌と両耳にいかついピアスをあしらえた彼の手には、先程のものより更に体に悪そうなパッケージが握られていた。
オレはそれに適当な作り笑いを返して、案外大したことないねと一本取り出した。
口にくわえて目を閉じると、瞼の裏に母さんの笑顔が透けて見えた気がした。




