Episode-5:アンリ・F・キングスコートの初恋
「お前だけは、私を見捨てないわよね、アンリ」
正式に離婚の手続きを済ませたと、母の口から告げられた時。
俺はなにも言えなかった。
俺がヴィノクロフで穏やかな日々を過ごしていた間にも、二人の関係は悪くなる一方にあったようだった。
大学進学のため、俺がキングスコートに戻った頃には、父さんと母さんはもう修復不可能のところまで冷めてしまっていた。
元より、ひび割れた歪な繋がりであったことは承知していた。
二人の様子を見ていれば、いつかそうなる日がくるだろうと想像もできた。
だが、それがこうして現実のものとなった今。
疑問も不満もありったけ募っていたはずなのに、俺は何一つ言葉が出なかった。
父さんも母さんも、俺になんの相談もなく、俺達が家族でいることをやめてしまったから。
「私には、もう、なにも残っていない。
……いいえ。屋敷にいた頃から、私は何も持っていなかったんだわ。
居場所をなくしてやっと、そのことに気付いただけ」
国内に身寄りはなく、心の病のせいで孤立していた母は、唯一の親族である俺に縋る他なかった。
父は父で、俺達の存在など最初からなかったかのように、決着がついた後も平然としていた。
そんな両親に選択を迫られた俺は、この件をきっかけに完全に独立することを決めた。
引き続き母の姓を名乗り、これからは全くの別人として生きることを決意したのだ。
与えられた地位に甘えるより、自分の力だけで歩いていく方が、きっと人間らしく生きていける。
ヴィノクロフの人々から大切なことを教わった俺には、最早見栄えだけの家名に未練などなかった。
「本当にお前はそれでいいのか?アンリ。家名に泥を塗ってでも、我が道を行くと。
……ならば勝手にするがいい。お前の代わりなら候補がいる。
精々この選択を後悔しないよう、もがいて生きろ。
今後、私を失望させたお前に、慈悲の船は一隻も出ないものと思え」
世襲で主席の座に就くつもりはないと、きっぱり断った時。
父は終ぞ見せたことのない怒りに満ちた顔をしていたが、思い止まらせようとはしてこなかった。
親としての情も、師としての期待もゼロではなかったと思う。
現に、その時まで父は俺に後を継がせる気でいたし、この国のリーダーとして育てるつもりでいたのだから。
その上で、思いの外すんなりとこちらの意見を聞き入れてくれたのは、やはりヴィクトールの存在があったからなのだろう。
俺が権利を辞退した今、次期主席候補として最も相応しいのは、父の右腕だった彼でまず間違いない。
実の息子である俺よりも、あくまでビジネス上の付き合いである彼の方がよほど信頼されている。
俺がいなくとも、ヴィクトールが側にいる限りは、父の栄光が途切れることはない。
自分から要らないとつっぱねておきながら、今更こんな感情が湧くのも女々しい話だが。
変わらず父の隣にいるヴィクトールを見ると、彼に全てを奪われたような気がして、解放感と同時に虚しさも味わわされたようだった。
「先生は君の裏切り行為を最後まで憂いでいたよ。
手塩にかけて育ててきた息子が反旗を翻し、自分との親子関係を絶ちたいなどと訴えてきたら、そりゃあ悲しいはずだ。
俺もとても残念だよ。いずれは先生の後を継ぐ予定だった君を、俺が影からサポートしてやろうと思っていた。
俺は人の上に立つよりも、誰かの下で力を尽くす方が向いているようだからね」
父とは、結局最後まで打ち解けられずに終わってしまった。
成人したら、共に酒を酌み交わし、ゆっくり他愛のない話でも出来たらと思い描いたこともあったが、とうとうそれも果たされなかった。
父が死んだ。
俺が大学に通い始めて、二年ほどが経過した頃だった。
「……こうなってしまった以上は、もうどうすることもできないが。俺は先生の一番弟子として、成すべきことを成すよ。
だから君も、あの人の忘れ形見として恥じない人生を送ってくれ」
両親の離婚後は、ヴィノクロフに新しく家を借りて、母と二人で暮らしていた。
進学先は、キングスコートにある医科大学。
父の職場である病院とは、目と鼻の先にある場所だった。
だから、連絡をとらなくなっても、たまにばったり会う機会はあるだろうと思っていた。
例え家族という繋がりを失っても、全く縁が切れたわけではないと、当初は思っていたのだ。
ところがだ。
俺達が本邸から出て行った日を境に、父はすっかり表に姿を出さなくなった。
たまに主席としての姿をテレビで見掛けることはあったが、それだけだ。
試しに職場の方へ顔を出してみても、どこに隠れているのか、俺が訪ねた時には決まって不在だった。
理由は後になってわかったことだが、どうやら父は、あれ以来俺を避けるようになっていたらしい。
ほぼ絶縁状態なのだから、互いに距離を置くのは当然のことだ。
ただ、父の方から俺を遠ざけようとするのは、これが初めてのことだった。
そして二年後。
親族だからという特別な配慮もなく、民衆とほぼ同じタイミングで伝わった訃報により、俺はいつの間にか父が亡くなっていたことを知ったのだった。
死因は脳幹出血。
皮肉にも、神の手を持つと謳われたあの人でさえ、突然死の瞬間だけは人間に過ぎない最期であったという。
「導師を失って、キングスコートの民達は火が消えたように静かになったな。
別の州では未だに大騒ぎだが、当事者ともなると声を荒げる余裕すらないらしい」
「主席の代わりは他にも務まるかもしれない。
けれど、あの人の空けた穴は誰にも埋められやしないわ。
私達の街は、これからどうなってしまうのかしら」
「こんな時に一人息子の奴はなにをしているんだ?
いくら自分の生き方を見付けたからといって、父親の遺したものを守ろうともしないなんて。
弟子が代わりに頑張ってくれると他人事でいるのだろうか?薄情な」
父が亡くなってから、俺は胸に風穴が空いたような寂しさを覚えたが、不思議なほど悲しくはならなかった。
あるのは父親という存在を失った喪失感だけで、あの人とはもう会えないのかという嘆きではなかったから。
血の繋がりがあったところで、交流がなければ他人同然の感情しか湧かないということだ。
ただ、一つ気がかりを上げるとするなら、世間への影響だった。
優秀な医師であり、学者であった彼がいなくなれば、世界は大きな打撃を受けるに違いない。
過去に父に命を救われた者、父の力で命を繋いでいた者らにとっては、相当な痛手となるはずだと。
そこで、俺ははっとした。
キングスコート州の主席の座は、今後ヴィクトールに委ねられるとして、キオラはどうなる。
生まれつき難病を抱えた彼女を診てやれるのは、この世でたった一人、父しかいなかった。
いずれはこの手で彼女を救ってやりたいと言っても、俺にはまだ知識も技術も足りていない。
父の後釜を引き受けるには、とても力不足であるのが現状だ。
となれば、一体誰が。
ここまで思案して、ふと視界を横切ったのは、煌めく銀髪と群青の広い背中。
それから、長い腕に肩を抱かれ、連れて行かれる愛しい人の後ろ姿だった。
ヴィクトール。
お前はまたしても、俺の大切なものを奪っていくのか。
目一杯手を伸ばしても、届きそうで届かない。
無理矢理にでも彼女を振り向かせることが出来ないのは、まだ、俺が非力だからなのだろう。
俺だけを見てほしい。
喉元まで出かかった言葉は、またしても俺の中の弱虫が遮った。
「アンリ。ねえ、アンリ。
私は、ここにいるよ。アンリ。
私だけは、どこへも行かないから。今までも、これからも、私はずっとアンリの味方だから。
……先のことは、どうなるかわからないけど。それでも、頑張るから。
おばあちゃんになるまで、生きて、あなたと一緒に、天寿を全うしてみせる。
絶対に、死なないから。アンリを置いて、私はどこへもいかない。
覚えていて。あなたには私がいるってこと。
あなたが一生懸命生きてるってこと、私はいつでも見ているし、知ってるから。
だから、……。
アンリも、どうか私を置き去りにしないで」
あの日も、俺はいつものように帰宅し、いつものように、母の部屋に向かって声をかけたんだ。
"今帰ったよ、母さん"
その日も、暗い声でお帰りなさいと返事をしてくれるはずだった。
しかし、静寂に包まれた家には、秒針の音しか響いていなかった。
"母さん?入るよ"
きっとまたぼんやりして、俺の呼び掛けに気付かなかったのだろう。
そう思い、俺は躊躇なく部屋の扉を開けた。
最初に目に入ったのは、脚だった。
母さんの痩せた白い脚。
片方は靴下が脱げていて、揃えられた小さな両足は、干した洗濯物のようにぶらんと垂れ下がっていた。
その爪先は、宙に浮いていた。
恐る恐る視線を上げると、陰った天井をバックに、伸びきった首と見開かれた瞳がそこにあった。
光を宿していないぎょろりとした目玉と目が合うと、俺は驚きで腰を抜かしてしまった。
勢い余って床に尻餅もついたが、些細な痛みには反応する余裕もなかった。
ふっと鼻をついたのは、アンモニア臭にも発酵臭にも似た悪臭。
聞こえてきたのは、自分一人の息遣いと、やはり響く秒針の音。
たちまちに脳裏を駆け巡ったのは、今朝に見た母の最後の顔だった。
一気に混乱した頭では、直ちにそれを言語化することは出来なかった。
だが、置かれた状況は、目の前にある確かな事実だけは、瞬時に理解出来てしまった。
母の首に回っているあれは、いつぞやに母が父にプレゼントしようとしていた、ブランド物のネクタイであることを。
"アンリ。
たまには、ご学友と寄り道をしてきてもいいわ"
"今日はいつもより、気分がいいから。
今日は、遅くなっても、咎めないわ"
"その代わり、どんなに帰りが遅くなっても、学校には、休まず行くのよ。
なにがあっても、努力することをやめては、駄目よ"
"あなたの才能は、あの人譲りじゃなく、あなたが自分で、切り開いたものなんだから"
直後、鳩尾の奥から一気に昇ってくる感覚を覚え、俺は慌てて体を起こして階段を下った。
そして、キッチンのシンクに顔を突っ込み、昇ってきたそれを勢いよく吐き出した。
呼吸が震えて、手足が震えて、立っていられなくなった体は自然とその場にへたり込んだ。
生理的に漏れてしまいそうになる喘ぎは、左手の親指の付け根を噛むことで、強引に殺した。
血の気の引いた肌に、痛々しい歯形の跡が残るまで。
"行ってらっしゃい、アンリ。
私は、ここに、いるわ。この家で、待っているわ。
待ちわびた足音が、聞こえてくるまで"
母さんは病気だった。
孤独で、惨めで、誰より人肌に飢えていた人だった。
俺と二人で生活するようになってからも、なかなか手を上げる癖は抜けなかったが、それでも母さんはその衝動を堪えようと頑張っていた。
父に見限られたことで、ようやく己の弱さと愚かさに気付いた母は、かつての己の行いを悔いるようになったのだ。
今までの自分はなんて酷い母親だったのだろうと、俺に泣いて謝ったほどに。
俺は母のことをずっと恨んでいたし、今更許す気にはなれなかった。
でも、本気で懺悔する母の姿を見ては、責める気も起きなかった。
だから、二人で頑張ってきたんだ。
自分自身との戦いに負けてしまわないよう、俺も俺なりに母を支えてきたつもりだった。
少しずつではあるが、母も現実と向き合う力がついてきて、着実に良くなっていたはずだった。
父が亡くなってからの二年間。
以前より会話をする時間も増え、この調子でいけばいつか普通の親子になれる日がくるかもしれないと、淡い期待も抱けるようになっていたんだ。
だが、それは俺の勘違いだった。
地位を失い名誉を失い、人生を捧げた男には愛想をつかれ、誰からも見向きしてもらえない閉鎖的な毎日に、母さんはもう堪えられなかったんだ。
涙が止まらなかった。
なにも考えられなかった。ただ溢れる涙を止められなかった。
死んでしまえばいいと思ったことがあった。
殺してしまいたいと思ったこともあった。
なのに、実際に二人とも命を落としてしまった今、込み上げてきたのは後悔だった。
俺はただ、普通の家族になりたかっただけなんだ。
俺がどれだけ苦しんでいたか、理解してほしかった。
悪かったと、抱きしめてくれる腕が欲しかったんだ。
こんなの、あんまりじゃないか。
結局、俺のことを何一つ知らないまま、勝手に死んでしまうなんて。
その瞬間に俺は、何者でもなくなった。
父の家族をやめ、母の息子でもなくなった俺は、今どんな姿をしているのだろう。
残ったのは、アンリ・ハシェという孤立した名前と、母が直筆でしたためた遺書だけだった。
「側にいてくれ、キオラ。
俺にはもう、なにもない。
俺に生きる意味をくれるのは、君だけだ」
白い街で母を見送った日。
空模様は、生憎の雨だった。
黒い群れが口をつぐんで立ち尽くす中、厳かに運ばれていく母の亡きがらを、俺はただ見ていた。
隣で俺の手を握ってくれたキオラは、もう守られるだけのか弱い少女ではなかった。
いつになく精悍な顔で、俺の冷たい指に自分のそれを絡めてきた彼女は、確かに自分の足で立っていた。
大きな棺桶の向こうでは、こちらを見詰めるヴィクトールの姿があった。
だが、彼が俺にどんな目を向けていたのかは分からなかった。興味もなかった。
当時の俺が感じられたのは、キオラの熱と、低く優しい囁きだけだったから。
他の誰がどうしていようと、俺には彼女の手を握り返すだけで精一杯だった。
"私はここにいる"
どんな親でも、失えば悲しいものなのだと。
直面した今、それがよくわかった。
『I want to tell my father I was sad.』




