Episode-4:アンリ・F・キングスコートの初恋
「───初めまして、アンリ君。
俺の名はヴィクトール。ヴィクトール・ライシガーだ」
はっきり言って、俺と彼の出会いは最悪だった。
少なくとも、俺の中では。
「夫妻から話は聞いていると思うが、直接会うのは初めてだな。
いつもキオラが世話になっているそうで、俺の方からも礼を言わせてくれ。彼女の兄貴分として、感謝している。
……それにしても、不思議な縁だな。
先生にご子息がいることは伺っていたが、まさかその君がキオラの友人になるなんて。世間は狭い」
あの一件以来、キオラの病を治すという明確な目標もできて、ようやく俺が生きることに前向きになり始めた頃だった。
より固い絆を結んだ俺とキオラの間に、割って入ってきた奴がいた。
まるでタイミングを見計らっていたかのように突如として現れた彼は、会う前から名前を知っていた人物だった。
ヴィクトール・ライシガー。
俺と同じドイツ系で、年齢は俺より四つ上。
190cm以上ある長身と、光沢を帯びた銀髪が人目を引く端正な容姿を持ち、軍人でもないのにいつもシグリムの軍服を身に纏っている変わり者の男。
本人曰く軍服とは、国に忠誠を誓う者達にとっては制服のようなものであるとのこと。
故に彼は、誰に指図されずとも、自らこれに袖を通すようになったのだという。
深い群青の生地と、左胸ポケットに刻まれた我が国のシンボルマークに敬意を表して。
話によれば、彼はシグリムに移住してまだ間もないはずなのだが、もう人に忠義を説くまでに至っているということは、余程この国の在り方を気に入ったのだろう。
いや、国がというより、この国を創った父を崇拝しているのか。
「最近のキオラは君の話ばかりしていてね。どんな子なのか気になっていたんだ。
……本当なら、君は先生の大事なご子息でもあるし、彼の一番弟子としてもっと早くに挨拶に来るべきだったんだが…。
すまないね。多忙続きでなかなか時間が作れなくて。
せっかく休みが取れても、先生の用事によく付き合わされるから、俺にはほとんど自由がないんだ。
いつもいい物を食べさせてもらっているから、文句は言わないけど…。こう連日食事に誘われてしまうと、たまには家庭料理が食べたいなぁなんて思ってしまうね」
ヴィクトールがシグリムへやって来たのは、今から一年以上前のことだ。
まず、重度の人嫌いである父が自ら頭を下げてまで彼をスカウトし、この国に引き入れようと働きかけた。
自身の権力を総動員することも厭わないというほど、熱心に。
結果、ヴィクトールは父の申し入れを快諾。
時期的にはギムナジウムを卒業して間もなくの頃だったそうだが、本人は身一つでこちらに移り住むことになっても一切文句を言わなかったという。
その後、永住権を与えるに相応しいとお上に認められたヴィクトールは、正式にシグリムの国民となった。
現在はまだ父の庇護下で生活しているというが、その馴染みっぷりはとても移住して一年ほどしか経過していないようには見えなかった。
今や、名実共にフェリックス・キングスコートの右腕として地位を築いていると言っても過言ではない。
そしてなにより、ヴィクトールは父ととても仲が良かった。
師弟というよりは、もっと親しみのある友人か親戚のような間柄に見えると、以前キオラが話していた。
「おや、どうしたんだいアンリ君。呆けた顔をして。
俺の話、退屈だったかな」
「……いいえ。とても興味深いですよ。是非、そのまま続けてください」
この時、俺はヴィクトールのことをよく知らなかったが、彼に対するイメージは最初から良くなかった。
キオラ曰く、面倒見のよいお兄さんのような人らしいが、ただ人間性が良いだけでは父の眼鏡には適わないからだ。
一体、彼のなにがそんなに違うというのか。
そこらの輩と彼と、どこに決定的な差がある。
頭脳明晰で人柄も良く、おまけにルックスも申し分ない。
一見すれば、確かにヴィクトールは特別な人間かもしれない。
だが、それ以外にも絶対になにかあるはずなのだ。
じゃないと、俺は。
「知ってるかい?
キオラはね、こう見えて辛いものが好きなんだよ。
自宅では夫妻に気を遣って言わないらしいけど、俺と一緒に食事をする時は、たまにチャイニーズの激辛料理なんかを注文してる。
味というより、口の中がビリビリ痺れる感じが面白いんだって」
「あら、そうだったのキオラ?
言ってくれれば、そういうお料理も勉強するのに」
「いいんだよ、お母さん。
確かにそんなこともあったけど、やっぱり一番美味しいのは、お母さんの手料理だから。
辛いものは、たまにヴィクトールと気分転換で食べているだけだし。気にしないで」
俺の心境を知ってか知らずか、初対面の時からヴィクトールは俺のコンプレックスを刺激する発言が多かった。
父との親密なエピソードや、俺の知らないキオラのプロフィール。
夫妻とキオラも交えてグレーヴィッチ家の食卓を囲んでいる間、ずっと彼は俺に見せ付けるようにそんな話を繰り返していた。
ソフィアさんもイヴァンさんも、そしてキオラも。
皆俺に対してより、ヴィクトールと口を利いている時の方が自然体なようにも見えた。
まるで、自分だけがここにいないような。
同じ席についているのに、四人の目には俺が映っていないかのような感じを覚えるほど、当時の俺は酷い疎外感に苛まされた。
「アンリ……?どうしたの?顔色が良くないよ。
気分が悪いなら、私からお父さん達に言って、ヴィクトールに帰ってもらおうか?
今日はアンリに挨拶に来ただけっていうし、話ならまた今度でも────」
「いや、平気だ。
わざわざ時間を割いて来てくれたんだ、初対面の相手にそんな失礼なことはできないよ。
ただちょっと、寝不足が続いていたから。ぼんやりしてしまっただけ、で────」
談笑の最中、隣に座るキオラが俺だけに聞こえるよう声をかけてくれた時だった。
一同が他愛ない世間話で盛り上がっているところに、なかなか混ざっていけない俺を見て、ヴィクトールが小さく笑ったのが視界の端に映った。
まるで、ここにお前の居場所はないとでもいうような目つきで、彼が俺を見ていたのが見えた。
その瞬間に、俺は直感したんだ。
こいつとは仲良くなれそうにないと。
それは恐らく、向こうも同じ。
つい先程初めて顔を合わせたばかりだというのに、ヴィクトールと俺の間には、早くも目に見えない線が引かれていた。
そのことに、俺と彼だけが気付いていた。
「キオラは来ないよ」
後日。
突然キオラが二人で出掛けないかと提案してきた。
恐らく、俺の気が滅入っているのを察して、なにか気分転換をさせてやろうと考えたのだろう。
理由を聞かずとも、彼女には俺の感傷などお見通しだったというわけだ。
俺は、そんな彼女の優しさを嬉しく思うと同時に、いつまでもヴィクトールに引け目を感じるのはやめようと、気持ちを切り替えることにした。
確かに、父と親密な関係にある彼は妬ましい存在だが、今の俺にはキオラがいてくれる。
卑屈な子供だった頃とは違い、彼女のおかげで俺は孤独じゃなくなったのだ。
ヴィクトールは兄のような存在なのだと、キオラは言った。
ならば、俺はキオラに親友と言ってもらえる男になればいい。
彼が父の一番の弟子だというなら、俺は父の自慢の息子になればいい。
そうだ。俺は変わったんだ。
あちらは俺を見下しているんだろうが、いつまでも高見の見物をさせてはおかない。
いつか這い上がって、彼が胡座をかいているその席を、俺がぶん取ってみせる。
例え、キオラの心が、既に彼の手中にあったとしても。
「13時を回った頃に、急にキオラの体調が悪化してね。
緊急搬送されて、今はキングスコート病院で様子を見ているところだ」
「そんな……。けど、俺のところにはなんの連絡も、」
「夫妻には俺の方から口止めしておいたんだ。アンリ君は今学校で授業を受けている真っ最中だろうから、邪魔しちゃ悪いとね。
……それとも、お取り込み中でも一報入れた方が良かったかな?」
互いに日程を都合し、その日はキオラの提案通り一緒に出掛ける約束をしていた。
二人で街中を散歩して、帰りにはなにか甘いものでも食べて行こうかと。
そして迎えた約束の時。
学校から帰った俺は真っ先にあの温室へと向かい、制服を着替えるより先にキオラを探しに行った。
ここで待ち合わせの予定だったから、彼女を待たせてはいけないと歩調を速めて。
だが、そこにいたのはキオラではなく、先日顔を合わせたばかりの彼だった。
「ここで待ち合わせて、16時から二人でデートの予定だったんだって?
本当に仲が良いんだな、君達は。妬けるよ」
「どうしてそのことを」
「キオラから直接聞いたんだよ。自分から誘っておいて、約束をすっぽかしたら君に申し訳ないとね。
だから、ベッドで動けない本人に代わって、俺がわざわざ伝言に来たというわけだ。
"この埋め合わせは必ずする。心配かけてごめん"だってさ」
病院で治療されている間も、キオラはずっと俺のことを気にしていたという。
なにも言わずに突然消えて、約束の場所に自分の姿がなかったら、彼はきっととても心配するだろうからと。
だから、ヴィクトールが代わりにここへ来た。
邪魔をするのは悪いからなどと。
心にもないことをよく言えたものだ。
授業中であろうがなんだろうが、キオラの身になにかあったとなれば、他のどんな予定をキャンセルしてでも彼女を優先するに決まっている。
俺にとって、それほどにキオラは大切な人で、そのことをこいつも知っているはずなのに。
もし、互いに今の立場が違っていたなら、良い好敵手になれたのかもしれない。
だが、どうやっても、俺と君は敵対する運命にあるようだ。
「君がどうやってキーラの懐に入り込んだのかは知らない。
だが、あの子に本当に必要なのは、俺だ。
俺は君の知らないあの子を知ってる。君が呑気に自分の時間を過ごしている間にも、俺とキーラは病院で共にいる。
いくら親しくなろうとも、この差は絶対に縮まらない。
なあ、アンリ君。
君の感情にまで口を出すつもりはないけれど、節度は弁えてくれよ?
年頃の近い異性の存在っていうのは、それだけで彼女の繊細な体には毒なんだ。
この意味、賢い君なら解るよね?」
じりじりとこちらに詰め寄り、至近距離でそう言い放ったヴィクトールは、酷く冷たい顔をしていた。
人前で見せる穏やかな雰囲気は、今はどこにもない。
見開かれた瞳には、紛れも無い敵意が満ちていた。
俺は思わず背筋がぞっとした。
これが、この男の本性かと。
先日の兄貴分を強調していたことといい、キオラを"キーラ"と自分だけの愛称で呼んだことといい。
俺よりたった一年先に出会っているというだけで、もうキオラの保護者気取りというわけか。
だとすれば、俺の存在はヴィクトールにとって邪魔以外の何物でもないはずだ。
大事な師の倅であるから無下にもできず、ならば直接釘を刺してやろうということなのだろう。
上等だ。
お前がキオラにとってどういう存在なのかは知らないが、ここまで目くじらを立てるということは、俺とキオラの関係も相当に近付いているということなんだろう?
「あんたの言いたいことはわかった。
けど、それは俺達が論ずる問題じゃない。キオラ本人が決めることだ。
キオラが嫌がるような真似は絶対にしないが、もし、キオラが俺と共に生きることを決めたなら。俺は迷わずその手をとるつもりだ。
キオラは、あんたのものじゃないぞ。ヴィクトール」
そっちがそのつもりなら、俺ももう遠慮しない。
ヴィクトール。
お前にだけは、キオラを渡したくない。




